暑さ寒さも彼岸までと言い習わしてきたが、どうも21世紀には通じない教えになってきたようだ。確かに朝夕は秋の気配に包まれるのだが、日中は日が差すと30C近い高温になり「暑いですねえ」と言葉を交わすことになる。
信長は人生五十年と謡ったようだが、今は人生八十年+アルファの時代になった。大きな変化が起こったのはたかだかこの五十年のことで、私が子供の頃は六十歳はお爺さん、七十歳は古来希でも違和感はなかった。果たしていつの時代も人は生きている間にこれほど大きな変化を味わってきたのだろうか。医学の変化(進歩)も著しく、治らなかった病気の中には治るようになったものもある。
変わらないように見える臨床の問診や診察にも、小さいけれども明らかな変化がある。一番わかりやすいのは成長と体格なのだが、これは三十年以上の記憶がある人なら誰しも確かにと頷かれるだろう。それ以外に患者の訴え方反応に小さいが明らかな変化が見て取れる。
こうした変化がどこから来たかと考えてみた。様々な理由原因があるだろうが、自然の変化を除き(最近は人類の生活が地球環境に影響し始めていますが)、変化はしばしば変わり者と言われる人達によってもたらされてきた。そうして起きた変化を選択淘汰し抑制あるいは助長するのが数多い一般人という構図がある。絶対の宗教の後退が、変化を助長した側面がありそうで、選択の鍵は宗教的なものから経済的なものに変わってきている。絶対の宗教がないことが日本の柔軟性というか成長力の理由のひとつだという学者もいる。
いつの時代にも変わり者が居て世の中に変化を問いかけてきたのだが、受け身ながら変化を選択淘汰してきた大多数の普通の人達に小さいけれどはっきりした変化が起きていると思う。今は誰でも持っている携帯電話、これがどういう構造とメカニズムで動いているか99%の人には理解できない。目に見えないが二百年前には人類の発する電波は皆無だったのが、今ではもし目に見えたら何万という微弱から強力な電波が飛び交っており、頭がくらくらするはずだ。それを利用して携帯電話は我々の生活を効率のよい便利なものにしている。
こうした科学技術を理解できない大多数の人が、謙虚さを忘れ自分の能力不足を棚に上げて、不平要求をするように変わってきている。それがかなり受け入れられるのは民主主義の副作用?でもあるし、それが世の中を動かすエネルギーになりそれを利用して利益を得る人たちが居るからだろうと思う。こうしたことがあなたが言えることかと言い返したくなる誹謗中傷が横行する理由の一つだろうと診断している。