「父・作家太宰治と一途で可愛い作家林芙美子」 と題した講演会が土曜の午後に開かれました。仕事帰りに立ち寄るには、場所も時間も好都合でした。出かけた一番のわけは太宰治のわすれがたみを見たいという軽い好奇心であったことは否定できません。なぜなら私は講演者のこれまでの仕事ぶりなどは全くの知らなかったからです。
花小金井南公民館まつりのプログラムの一つでした。老朽化した建物の二階の狭いホールでは直前までハーモニカなど各種の発表会が行われており、講演会に来た人達はトイレの臭いのする廊下に並んで待たされました。このまま観客の入れ替えはなく、立ち見になることはもちろん、入場できない人が出るかもしれないという噂が流れたりしてどうにも落ち着きません。
太田治子さんは小柄で顔の大きい、率直な人柄の方でした。最近二つの作家論をものにしたそうです。まず林芙美子については筑摩書房から 「石の花」 を、続いて太宰治については朝日新聞社から 「明るい方へ」 です。それぞれ3年と2年を費やしたそうです。作家の戦争責任ということでは芙美子は誤解されており、むしろ太宰などに猛々しい発言があったと言います。母は未婚の母だったが、これは道徳革命だと言えないこともないと振り返ります。現在は58歳で、離婚して娘と暮らしていますが、これも結果としては未婚の母と同じことと自問自答していました。
講演会のあとで、私はつぎのようなことを知りました。太宰が入水してまもない頃に、芙美子は太宰の愛人である太田静子との間に生まれた赤ん坊の治子をぜひ養女にほしいと神奈川の曽我を訪れたそうです。「あなたを抱っこした林さんは顔色が悪くて小説家というより疲れた女親分の感じがしたわ」 と母は治子に語っています。その3年後 「浮雲」 が刊行された直後に芙美子は急死しています。太田治子さんが遠くからご平安をお祈り申し上げるしかない津島家の方々のその後について、この機会に調べました。太宰の次女で、作家の津島佑子(里子)の夫は詩人の藤井貞和で、長女の園子の夫は自民党代議士の津島雄二だそうです。