小鳥が死んでいる。なんとかしてくださいと言われた。場所は勝手口の横、屋外の水道栓のコンクリートの桝の下だ。桝を支えている二つのブロックの間にある太いビニール管の曲がったところの上に死骸は納まっていた。そこはいわゆる地べたではない。そのせまい空間にはタワシとか砥石などがある。このシジュウガラは自らここを死に場所と意志したのではないかと疑った。
哺乳類とは異なり死臭などは感じない。よく見かけることのあるセミの亡き骸と同じ感じだ。頭部を曲げて胸に押し付けるように清らな姿で死んでいる。息絶えてからどれくらい経過しているのか見当がつかない。見つけたのは全くの偶然だった。さっそく庭木の傍らに埋めた。これで二度目の小鳥の埋葬だ。最初の場合はガラスに激突という事故死だった。(キンラン5月1日・最終)
宗教学者の山折哲雄氏(89歳)の新聞連載コラム「生老病死」を毎週切り抜いていた。今年1月からの標題をいくつか書き並べてみる。「安楽死による最期に思う」「子規が苦痛の果てに得た瞬間」「西田(幾多郎)が掘りつづけた自分の場所」「死をも呑みこんで輝く無」「(鈴木)大拙の腹の底からわき出る声音」「近代の観念ではのりこえられない(死)」「歴史の記憶たどる死の作法」
5月2日の標題は「夢にふるさと豊かな気持ちに」だった。そして「連載終了」の社告もあった。4月に入って肺炎が重症化して入院中という。「主治医から肺炎が進み呼吸が困難になった場合、人工呼吸器をつけての延命治療を希望するかと尋ねられた。以前に書いた通り、自分の最期は断食死でと願っていたので延命治療はお断りしたいと伝えた」そして最終行に「こうした思いを読者の皆さんに伝えることができ、ありがたいことでした」とあった。