今は大寒である。玉川上水の木々は枝ばかりとなって、このまま朽ち果てるのではないかと心配するぐらいに殺風景である。ときおり名も知らぬ小鳥が鳴くのが聞こえる。私も以前よりは四季の移り変わりに注意できるようになったと思う。緑道沿いのオープンギャラリーの二十四節気ごとに変わる展示の影響もあるだろう。ところで四季の移り変わりということに関して、小林秀雄が吉田兼好の徒然草を紹介をしている箇所をつぎに引用してみた。
《「木の葉の落つるも、まず落ちて、芽ぐむにはあらず、下より萌(きざ)しつわるに堪えずして落つるなり」この「萌しつわる」はあの婦人の病気の「つわり」の動詞の形で、やはり内から萌すという意味である。四季の移り変わりを言う場合は、まだ余裕のある見方もできるから「なほ、定まれる序(ついで)あり」と言えるのだが、これが、人の一生の移り変わりとなると、そうは言えない事になる。・・・・生が終って、死が来るのではない。死はかねて生のうちに在って、知らぬ間に、己れを実現するのである、というのが兼好の考えなのである》
辞書で「つわる」を引いてみると、(古語)とあって①芽ぐむ。きざす。②妊娠してつわりになる。と載っていた。芽が出るとか芽吹くという現代語は外から、その移り変わりの秩序を眺めていている印象である。それに対して「つわる」は突き動かしている何かを探って内部までもぐり込んでいる印象の言葉だ。
不思議なことに普段誰も使わない言葉の一つに「ひかがみ」がある。人体のある部位を表す言葉だ。目にすることが多いのに、この言葉はあまり知られていない。「ひざのうしろのくぼんだ部分」を「ひかがみ」という。ひかがみは以前からひかがみでそれに代わる言葉は存在しない。「頤(おとがい)」という言葉は女性歌人のつぎの歌で私は知った。「両手にて君の冷えたる頤を包みていしは冬の夕駅」 頤とは「下あご」のことである。だからと言って、この歌で「頤」を「下あご」に入れ替えることは許されないだろう。
どうしてこうウスッペラになってしまったのでしょう。 もちろん、生き生きとした造語もたくさんありますが。 現代はスピードが一番大切なようですね。