もう40年も前のことだ。近くの創価高校野球部が念願の甲子園夏の大会(1983年)に出場を果たした。甲子園では初戦で東山高校に敗れたが、その原動力になったのが江夏2世と騒がれた栃木県出身の左腕の小野和義投手だった。近鉄バッファローズに入団、その後西武ライオンズに移籍し14年間で82勝の成績を残した。
ある夏の日に自宅付近で、創価のユニフォーム姿の小野君が自販機から缶を取り出しているところに行き合わせた。私が彼を小野投手であると知るぐらい、彼は有名人だった。そこで思わず激励の言葉を伝えた。あの頃の創価は熱心なスカウト活動で選手を集め、毎年のように西東京大会で上位に進出していた。
創価のあの頃の隆盛はどうも小野君の4年先輩の栗山君の時代に始まっているようだ。小平市在住の栗山君は熱心なスカウトにより地元である創価高校に進学し、3年時(1979年)の夏の地区大会ではエースで主将として4回戦で敗退した。その後は地元の東京学芸大学に進学し、小・中・高の教員免許を取得している。
栗山英樹監督については小平市出身で、東京学芸大卒であることは知っていたが、創価高校のことは知らずにいた。ところが最近になってWBCのせいで創価高校の構内に大きな垂れ幕が出現した。栗山監督が創価高校の出身であることがわかり、栗山監督と小野投手が高校時代に重なる時期があったのかどうか調べることにしたという訳である。