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1942年パリのヴェル・ディブ事件を指揮したフランスの警察長官たち

2023年08月04日 | ナチスドイツとホロコースト・ホロコースト産業

『遠い日の家族』『善き人の為のソナタ』『サラの鍵』(メモ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

アラン・ドロンが1976年に作った“フランスのユダヤ人迫害映画” - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

に書いた映画で描かれた事件の日本語版wikipediaです。

ヴェロドローム・ディヴェール大量検挙事件 - Wikipedia

ヴェロドローム・ディヴェール大量検挙事件(ヴェロドローム・ディヴェールたいりょうけんきょじけん、フランス語: Rafle du Vélodrome d'Hiver)、または、その略称であるヴェル・ディヴ事件(Rafle du Vél' d'Hiv、日本語ではベルディブ事件とも[1])は、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの占領下にあったフランスで1942年7月16日~17日に行われた最大のユダヤ人大量検挙事件である。本質的には外国から避難してきた無国籍のユダヤ人が標的だったとされる。

概要

ナチス・ドイツはホロコーストの一環として1942年の7月、占領したヨーロッパ各国でユダヤ人を大量検挙することを目的とした「春の風」作戦(Opération Vent printanier)を計画した。フランスにおいては、親独のヴィシー政権がフランスの警察官ら4500人以上を動員して作戦を実行した[1]。警察庁の記録によれば、7月17日の終わりには、パリと郊外での検挙者数は1万3152人で、そのうち4115人が子供だった。

ヴェル・ディヴ跡地にある慰霊碑 ヴェロドローム・ディヴェール(英語版、フランス語版)(Vélodrome d'Hiver、「冬季自転車競技場」の意味)とはパリ15区にあった自転車競技場ないしスケート競技場のことで、本事件で用いられた中間収容施設の中で最も大きかった。最初、検挙されたユダヤ人達の多くは5日間、ここに閉じ込められた。競技場に屋根はなく、真夏の太陽が照り付ける中、食料や飲料水をほとんど与えられず[1]、トイレも少なかった。身動きもできないまま、飢えと渇きと臭気に襲われ、その光景は人間に対する冒涜そのものであった[2]。

その後、アウシュヴィッツを初めとする東欧各地の絶滅収容所へと送られた。収容所生活の中で、終戦までに生き延びたのは100人に満たない大人のみで、子供は生き残らなかったという[3]。

(後略)

たまたま今ヴィシー政権のフランスのことを調べていますが、英文Wikipediaにこんな記述がありました。

Vichy France - Wikipedia

抜粋:

In July 1942, under German orders, the French police organised the Vel' d'Hiv Roundup (Rafle du Vel' d'Hiv) under orders by René Bousquet and his second in Paris, Jean Leguay, with co-operation from authorities of the SNCF, the state railway company.

ヴェル・ディヴ事件を指揮した(パリ?)警察ナンバー1と2は…

ルネ・ブスケ - Wikipedia

抜粋:

ルネ・ブスケ(René Bousquet, 1909年5月11日 - 1993年6月8日)は、フランスの政治家。第二次世界大戦中の1942年に警察長官としてユダヤ人の一斉検挙を指揮して強制収容所送りに協力した。1978年に過去が暴露され1991年に起訴されたが1993年に暗殺された。

 

Jean Leguay - Wikipedia

ジャン・ルゲ(Jean Leguay、1909年11月29日 - 1989年7月2日)は、ナチス占領下のフランス国家警察の副司令官であった。 彼は1942年のパリでのユダヤ人の一斉検挙とフランスからナチスの絶滅収容所への移送に加担し、その結果大人と子供を含む数千人が殺害された。 第二次世界大戦 ヴィシー・フランス時代、ルゲはパリ国家警察書記長ルネ・ブスケの副司令官であった。

ルゲは、1942 年 7 月 16 日と 17 日にパリで 13,000 人以上のユダヤ人を大量逮捕したヴェル ディヴ総まとめ (Rafle du Vel' d'Hiv) の組織化に参加しました。 彼らは東ヨーロッパの絶滅収容所に移送され、ほとんどがそこで殺されました。

戦後

戦後、ルグエ氏はロンドンのワーナー・ランバート社の社長に就任したが、同社は現在ファイザー社に合併されている その後、パリのサブスタンシア研究所の社長に就任した[1]。

1979年、ルグエは、1942年7月16日と17日にパリで13,000人以上のユダヤ人を大量逮捕したヴェル・ディヴ・ラウンドアップの組織に関与したとして、人道に対する罪で起訴された[1]。

ルゲ氏は1989年に癌のため79歳で亡くなった[2]。 フランス司法当局は彼の死後、ルゲの人道に対する犯罪への関与は疑いの余地なく確認されたと公式に発表した。

 

イスラエルのモサドも、どうしてこの二人を捕まえなかったのでしょうか。

そして気になるルグエの方は、警察にいながらなぜ戦後は製薬会社の社長になったりしたのでしょうか?

 

私がパリに2008年春に行ったときに用事があってパリ日本文化会館の近く(高架の地下鉄駅ビラケム駅付近)まで行きましたが、ヴェル・ディヴ事件で使われた自転車競技場はたぶん、そのあたりにあったものでしょうか。

その時、待ち合わせ場所の建物がわからず、警察官2,3名くらい待機していた派出所のようなところで尋ねました。
皆親切で丁寧な方たちばかりでした。

1942年の警察官もきっと親切な方もいたでしょう。しかし、そういう彼らがナチスと同様のことをした、いや、させられて、やらせた方はのうのうと暮らしていたわけです。

 

参考:

ナチスに協力したフランスのGroupe Collaboration-1 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ナチスに協力したフランスのGroupe Collaboration-番外編(第二次世界大戦とSynarchism) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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