「暑いぞ、熱いぞ だった大阪旅行記 #3-4」のつづきです。
京都御所の紫宸殿は、御所の正殿で、玉座である高御座(たかみくら)が常設されています。
今上天皇の即位の礼は、皇居の正殿松の間で行われた(きょうの文化勲章親授式もこの部屋が会場)のですが、京都御所から高御座を分解して皇居に運び込んだのだそうな。
そういえば、平城宮跡には奈良時代の正殿、大極殿が復元されて、
その中には、高御座が設置されていましたっけ…
奈良時代の高御座の構造や意匠に関する記録は無く、詳細は不明です。ここに展示した高御座の模型は、大極殿の機能や広さを体感できるように、大正天皇の即位の際に作られた高御座(京都御所に現存)を基本に、各種文献資料を参照して製作した実物大のイメージ模型です。細部の意匠や文様は、正倉院宝物などを参考に創作しました。
だそうです。
また、Wikipediaによれば、
天明の大火(天明8年、1788年)のさいには焼失してしまっている。
だそうですけど、では、天明の大火以降に即位した仁孝・孝明・明治天皇が使用していた高御座はどうなったのでしょう?
また、いつから御所の正殿が大極殿から紫宸殿になったのでしょうか?
平安神宮は、平安遷都間もない頃の大内裏の一部を縮小・再現したもので、外拝殿が、
平安京の大内裏朝堂院の正殿大極殿を摸造したもの
だそうですから、平安京にも大極殿はあったはずなのですが…。
Wikipediaによれば、
平安時代中後期から焼亡と再建を繰り返し、朝廷の儀式の中心が内裏の紫宸殿へ移行していくのに従い衰微していった。1177年(安元3年)に起きた安元の大火による焼失ののちは再建されることなく廃絶した。
だそうです。
恐らく、「#3-2」で書いたように、平安京右京の衰退によって平安京の中心軸が東に移動していき、代々の天皇が左京の里内裏に「居続け」するようになったことで、大極殿は大内裏と一緒に放置される運命をたどったのでしょう。
さて、いったん、紫宸殿前の南庭から外に出ます。
御所の南東の門、建春門が、背景の緑もあいまって、かなりステキでございます。
京都御所の参観は、参観者をグループにして、ガイドさんがグループを率いて説明して廻る、といった形式ではなく、参観者が思い思いの時間をかけて、参観ルートを巡る、という形式ですので、気楽ですし、なによりも、自分のペースで、あるところはあっさりと通り過ぎ、あるところではじっくりと眺めることができたのが良かった…
説明板はそこそこ充実していましたし、今、私がやっているように、いくらでも復習できますしね。
で、三種の神器のうち、唯一、行幸の際にも皇居内(賢所)に安置されている神鏡(八咫鏡の形代)を、大正天皇の即位の礼に際して奉安するために建てられたという春興殿は、改修工事のため拝見できませんでしたが、紫宸殿と小御所や御学問所をつなぐ廊下の下を通って、
紫宸殿の裏手へ…。
そこにあったのは、清涼殿でした。
清涼殿は、
平安時代中期(10世紀中頃)以降、天皇の日常のお住まいとして定着した御殿であり、政事・神事などの重要な儀式もここで行われた。天正18(1590)年に、御常御殿にお住まいが移ってからは、主に儀式の際に使用された。
という建物で、明・清の宮殿だった紫禁城でいえば、紫宸殿は太和殿(英語では"Hall of Supreme Harmony"だそうな)に、
清涼殿は乾清宮にあたるのかな?
上に載せた紫禁城の写真は15年前に撮影したものです。
それはさておき、清涼殿には、天皇の休憩所だったいう御帳台が再現されていました。
御帳台の前に控えるのは、獅子(右)と狛犬(左)
この獅子と狛犬は、こちらで書いた「禁秘抄中調度器物之図」に描かれていた獅子と狛犬の現物か?
ちなみに、獅子と狛犬については、私は折に触れてこのブログで書いていますが、こちらの記事が、渾身の一篇でございます。
それはそうと、この清涼殿、いかにも風通しが良さそうで、夏にはその名のとおり「清涼」でしょうけれど、冬はかなり寒そう…
もっとも、徒然草 第55段に、
家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。暑き比わろき住居は、堪へ難き事なり。
とあるくらいで、寒ければ重ね着したり蒲団をかぶればなんとか耐えられますけれど、暑さはエアコンがない限り、いかんともしがたいものです。
こうして考えれば、とにかく暑さが苦手な私には、納得できる建物ではありますな。
つづき:2017/11/04 暑いぞ、熱いぞ だった大阪旅行記 #3-6
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