「暑いぞ、熱いぞ だった大阪旅行記 #3-5」のつづきです。
まだ清涼殿前をウロウロしております
紫宸殿前には「右近の橘」「左近の桜」がありましたが、清涼殿の前には、御殿側からみて右手(南)に「漢竹(かわたけ)」、
左手(北)に「呉竹(くれたけ)」が植えられていました。
伸びるがままに栽培されているところは「右近の橘」「左近の桜」と同様ですが、シンメトリーに植えられていた紫宸殿前と違い、こちらはアンシンメトリーな配置です。呉竹が真ん中に寄っているというか、漢竹が端に寄っているというか・・・。
ね?
この竹のことは徒然草(第200段)でも取り上げられていまして、
呉竹(くれたけ)は葉細く、河竹(かはたけ)は葉広し。御溝(みかわ)に近きは河竹、仁寿殿(じじゆうでん)の方に寄りて植ゑられたるは呉竹なり。
とあります。
ただし、「#3-2」で引用したように現在の場所が御所として使われるようになったのは1331年の光厳天皇の即位以降のことで、兼好法師が徒然草を書いたのは「1330年8月から1331年9月頃にまとめられたとする説が主流である」(Wikipedia)だそうですから、現在の「呉竹」「漢竹」のことを書いているのではなさそうです。
というか、仁寿殿は現在の御所にないのですから、明らかに違う
一方で、「御溝」は現在の京都御所にもありまして、京都御所京都事務所長(当時)の石川忠さんが1962年(古い)に書かれたこちらの文によれば、
(京都御所は)数々の国家的行事が繰りひろげられ、ながく天皇が居住された場所ではあるが、外部との境は築地塀をめぐらすのみであってわずかにその四周に幅95cm余りの浅い石畳の御溝水(みかわみず)を通しているに過ぎない。(中略)
この御溝水は昔は遠く鴨川の上流より引き、相国寺の中を過ぎて今出川に至り、御苑北側の旧近衛邸の園地に注ぎ、さらに一つは朔平門の東から京都御所に中にはいり、御所内の池に注いで南にでており、一つは築地塀の外側をめぐる石渠(せききょ・石造りのほりぬきみぞ)となって東西に分かれそれぞれ南流して淙々(そうそう)たるせせらぎをつくっていたが… (後略)
だとか。
これが「築地塀の外側をめぐる石渠」ですな。水は流れていないけど…
で、清涼殿の北側に「滝口」という札の立った地点がありまして、
「『滝口』って何だろ?」と調べると、「滝口の武士」の説明は詳細なものがいくつも見つかるのに、「滝口」単体では、説明のほとんどが、「清涼殿の北東にある、御溝水(みかわみず)の落ちる所」程度のもので、これではさっぱり見当がつきません
せめてこちらのサイトくらいには書いて欲しいものです(このサイトでも「御溝水」の説明がない)。
もしかすると、このブログ。滝口と御溝水の両方について知ることができる数少ないサイトの一つになったかもしれませんぞ
紫宸殿を裏側から眺めつつ清涼殿前を退場して、
次は、江戸城でいえば「中奥」のような区域に入っていきます。
休憩所にあった鳥瞰図を載せておきますので、参考にしていただければと思います。
再び渡り廊下をくぐった先、まず左に現れた建物が小御所です(左手前から小御所、御学問所、御三間、御常御殿)。
江戸時代最末期、慶応3年12月(1868年1月)に開催された「小御所会議」にその名を残す、あの小御所です。
ただし、小御所会議が開かれた建物は1954年8月16日夜(送り火の夜)に焼失して、現在の建物は1958年に復元されたものだとか。
しかも、火災の原因が、
鴨川河川敷で,新聞社主催の花火大会が行われ,落下傘型打上げ花火の残火が檜皮葺屋根に落下し出火しました。(京都市消防局)
だというのには、ちょっと、あんた… です。
この花火大会を主催した新聞社ってどこなんだろ と思って調べると、讀賣新聞社でした。
この火災原因をめぐって、讀賣を含む新聞各社の報道について、こちらのサイトの記事が面白いですぞ (面白がるような事件ではありませんけど…)
ところで、「落下傘型打ち上げ花火」は、大曲の花火のTV中継で見たことがありますが、なんだか人の霊が空中を漂い、そして消えていく ような、かなり趣き深いもの。
でも、京都のような街なかで上げるものではないでしょ
そんなところで、きょうはおしまい。
ここで書き続けると、きりが無くなりそうで…。
つづき:2017/11/05 暑いぞ、熱いぞ だった大阪旅行記 #3-7
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