「半年前の信州旅行記(その27)松本編⑨」のつづきです。
松本城を後にした私は松本城の北にある「名所」を目指したのですが、途中、こんな碑を見かけました。
江戸時代末期の旧町名 鷹匠町
とあります。
いかにも城下町らしい町名です
私のふるさとにも鷹匠町がありましたっけねぇ~
「○○○野、△△△が丘」で書いたような、思わず身震いするような気恥ずかしい地名と、同じく一般名詞が使われているのに、その地の来歴が感じられる「鍛冶町」「家具町」「肴町」「馬口労(馬喰)町」「鉄砲町」といった旧町名と比べたら、って、比べるまでもなく後者が圧倒的
に私の好み
です。
さて、松本市開智2丁目で見た光景は、新旧のコントラストが鮮やかなものでした。
旧開智学校校舎は、私にとって松本城以上に生で拝見したい建物だったといっても過言ではありません
そして、期待に違うことのない魅力的な建物でした
とりわけ、東京日日新聞(毎日新聞の前身)の題字をパクったといわれている、校名板がcute
もう一枚、正面から
この建物、リーフレットによりますと、
現存する重要文化財の校舎は明治8年4月に工事が始まり、翌9年4月に完成しました。教育を(筑摩県の)立県の指針とし、文明開化政策を推し進めた筑摩県参事(知事) 永山盛輝が計画し、地元松本の大工棟梁立石清重が設計・施工しました。立石は東京や横浜などに西洋建築を見学に行き、新校舎建築にあたりました。和風と洋風が混ざりあった擬洋風建築の校舎は、東京の開成学校(現東京大学)などを参考にしたと言われています。
ということで、明治初年の文明開化の風を伝える建物というわけです。
上にリンクを貼ったサイトの説明では、
西洋文明のうわべだけのまねにすぎないものも多かった。
と、「文明開化」を、結構冷ややかに説明しています。
確かに、「見た目」重視の傾向はあったかもしれないけれど、そんな、先進国の風(ふう)を吸収して、自分の血肉にしようとした当時の職人さんたちの貪欲な精神と技術には感服するべきなのではないかと思います。
つづき:2016/02/23 半年前の信州旅行記(その29)松本編⑪
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