小池清廉さんは「初期仏典における痛悩者への対応」で「死ぬ権利」の主張を批判します。
現代の、とりわけ米国を中心とした生命倫理学派は、功利主義ならびに自律の思想に基づいて、終末期の病人の「生命の価値」評価を行っている。この思想は、西欧諸国の一部に、自発的安楽死・医師幇助自殺の是認とその合法化を齎している。このような思想傾向には、歯止めをかける必要があると筆者はかねてより考えている。
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「死ぬ権利」を論じる前に、まずは「生きる権利」が大切にされていないことを問題にすべきです。
たとえば、障害者施設や老人施設などでの入居者への虐待事件は珍しくありません。
入所者19人が殺害される事件が起きた相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」について、入所者への支援の実態を調査する神奈川県の検証委員会の中間報告が18日、公表された。要件を満たさないままの身体拘束や、長時間の居室施錠などの実態を挙げ、長期にわたる「虐待」の疑いを指摘した。事件を起こした植松聖死刑囚(30)への判決では、職員による入所者への不適切なふるまいなどが「重度障害者は不要な存在」と考えることにつながったと認定しており、園の支援のあり方が改めて注目される。(略)
事件を起こした植松死刑囚の横浜地裁判決の「証拠上認められる前提事実」によると、植松死刑囚は、津久井やまゆり園に勤務し始めたころは障害者を「かわいい」と言うことがあった。しかし、「職員が利用者に暴力を振るい、食事を与えるというよりも流し込むような感じで利用者を人として扱っていないように感じたことなどから、重度障害者は不幸であり、その家族や周囲も不幸にする不要な存在であると考えるようになった」などとしている。(毎日新聞2020年5月27日)
https://mainichi.jp/articles/20200526/k00/00m/040/146000c
渡辺一史・篠田博之・ダースレイダー「相模原事件 死刑確定でなにが失われてしまったのか」(「FORUM90」VOL.173)という鼎談で、渡辺一史さんはやまゆり園での虐待についてこのように語っています。
彼がやまゆり園で目にしたものをポエム風に描いた文章ですが、初めて園に入所してきた利用者が、親が帰ったあとで鍵をかけられた部屋に閉じ込められて、「ここで何をするの?」と職員に尋ねると、「何もしないよ。この車いすに縛られるだけ。考えるから辛いんだよ」と言われて絶望していく。植松氏との面会時に、これはやまゆり園で目にしたことをモチーフにして書いたの?って聞いたら、「そうです」と彼は言ってました。そういう光景をたくさん目にしているんですね。
生きる権利がないがしろにされるなら、一人ひとりの命が大切にされるはずがありません。
そんな中で、植松聖死刑囚は「意思疎通の取れない障害者は安楽死させるべきだ」という考えを持つようになったのでしょう。
もっとも、植松聖死刑囚は安楽死を間違った意味で使っています。
本人の承諾なしで死なせることは安楽死ではなく、慈悲殺とよばれます。
渡辺一史さんはこのように続けます。
ところが、植松氏の考え方に同調して、「日本でも安楽死を合法化するべきだ」などと言っている人がたくさんいて、そういう人は「安楽死」という言葉の正確な意味をわかって言っているのか。おそらくそうではないでしょう。要するに、自分にとって不要だと思える人を葬りたいという思いがまず先にあって、その思いを「安楽死」という言葉にすり替えているだけでしょう。過去にナチ・ドイツが「安楽死」という言葉で、8万人とも20万人とも言われる障害者をガス室に送り、それがユダヤ人を虐殺したホロコーストへとつながっていくわけですが、それは今では「安楽死」ではなく、「虐殺」と呼ばれているわけでしょう。(略)
裁判でも、こういう場面があったんです。被告人質問の時、裁判員の一人が植松氏に対して、「もし日本で安楽死が合法化されていたら、あなたはこの事件を起こしませんでしたか?」と聞くと、植松氏は「はい」と答えたんですよ。おいおい、違うだろって、私は挙手して発言したいほどだったんですけれども。
本人の承諾なしに命を奪うことは、障害者だったら問題ないと思う人は少なくないのでしょう。
釈尊の時代にはなかった点滴や胃瘻による栄養補給、人工呼吸器などがある現代は、安楽死問題をどう考えるか、釈尊のころより難しくなっていると思います。
小池清廉「臨死問答と重病人看護」には、このようにも書かれています。
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では、過剰延命医療とは何か。
ALSや障害者の中には胃瘻や人工呼吸器の使用、24時間介助によって生活している人が大勢います。
過剰な医療かどうかの判断は誰がするのでしょうか。
延命治療や脳死による臓器移植について、釈尊はどのように律を定めたかと思います。