三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

バート・D・アーマン『捏造された聖書』(1)

2020年01月26日 | キリスト教

バート・D・アーマン『捏造された聖書』の「はじめに」で、アーマン自身の経歴が述べられています。

高校の時にキリスト教福音主義に身を捧げることになった。
聖書は無謬なる神の御言葉であり、聖書の言葉それ自体が聖霊の霊感によってもたらされたものだ、だから聖書にはひとつも誤りはない。
このように信じて疑わなかった。
ところが、アーマンは本文批評を研究する中で疑問を持つ。

本文批評とは、現存する写本を比較考量することによって、本来の聖書原文を再現しようとする学問。
田川建三ほか『はじめて読む聖書』によると、旧約聖書の成立年代は、紀元前7世紀前半から紀元後1世紀の末、およそ700年間をかけて編集された。
新約聖書は、紀元50年代に執筆されたパウロの手紙がもっとも早く、70~90年代初頭に執筆された4つの福音書と使徒行伝が続く。
正典としての成立年代は、紀元393年にヒッポで開かれた教会会議で27巻の文書が聖典として確認された。

しかし、アーマンによると、たとえオリジナルの言葉が神の霊感に基づくものであっても、もはや地上のどこにも現存しません。
なぜなら聖書が書写されることで、写し間違い、書き間違い、綴りの間違い、省略などが生じるし、意図的な改変(訂正、追加など)がなされることもあったし、一部は失われた。

古代ギリシア語テキストは、句読点が全く使われず、大文字と小文字の区別もされず、単語と単語の間のスペースすらなかったそうです(連続書法)。

ぎなた読みといって、「弁慶が、なぎなたを持って」を「弁慶がな、ぎなたを持って」と句切るような読み方があります。
「ここではきものを脱いでください」だと、「ここで、はきものを脱いでください」なのか「ここでは、きものを脱いでください」なのかわかりません。
どこで区切るかで全然意味が違ってきます。
聖書もぎなた読みをしてしまいかねない文章で書かれてたわけです。

聖書の日本語訳も困難を極めているそうです。
本田哲郎『聖書を発見する』に、山上の垂訓の初めの言葉「心の貧しい人々は幸いである」について書かれています。
「心の貧しい人」だったら、精神的に貧しい、つまり信仰のない人かと思う、よくわからない言葉です。

新共同訳の翻訳作業にあたって、いったんは「心の貧しい人々は、幸いである」は改訳しましょうということになった。カトリック、プロテスタントの聖書学者もほとんど一致して、この表現は原文を偽っているという共通認識に立った。けれども、すったもんだした挙げ句、最後の最後にひっくり返った。学者同士の見解の相違が原因ではない。日本聖書協会の方針・判断によってなのです。


なじまれている表現を変えてしまったら、聖書の印象が変わってしまって売れなくなるので、「定着度の高い表現は変えない」ということだそうです。
これも一種の「捏造」かもしれません。
本田哲郎氏は「心底貧しい人たちは、神からの力がある」と訳しています。

コメント
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