三日坊主日記

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ルドルフォ・アナヤ『ウルティマ、ぼくに大地の教えを』と旧約聖書(2)

2018年06月18日 | キリスト教

加藤隆『集中講義 旧約聖書』を読むと、ユダヤ人もフロレンスと同じ疑問を持っていたようです。

紀元前13世紀、エジプトで奴隷状態にあった人々が集団で逃亡した「出エジプト」において、ヤーヴェを神とする集団が成立して、イスラエル民族、ユダヤ民族の核となった。
エジプトを脱走した集団はカナンと呼ばれる地域に侵入し、仲間になった先住民と定住生活をすることになる。

旧約聖書は、紀元前13世紀から紀元後1世紀くらいまでの時代について書かれた文書を集めたもので、紀元前5~4世紀に編纂され始め、一応完結するまで500年くらいかかっている。
いくつかの文書を集め、それをいわば「切り貼り細工」のようにしてつくられているので、矛盾や難点がある。

6日間の天地創造とエデンの園の物語という2つの創造物語が創世記に書かれてあり、この2つには矛盾がある。
最初の物語ではさまざまなものがつくられ、最後に人がつくられるが、第二の物語では人がつくられた後で植物がつくられる。
最初の物語では男女が同時につくられたようになっているが、第二の物語ではまず男(アダム)がつくられ、それから女(イブ)がつくられる。
「聖書に書かれていることはすべて真実だ」といった単純な立場を否定するべきだということが、聖書の冒頭に記されていることになる。

神はモーセに名前を名乗ることを2度にわたって行う。
2度目には「わたしは、有るところの者だ」「私は、有るように有る者」と訳すべき名を述べる。
つまり、「神は、自分が動きたいように動く者」ということ。神がどのような存在なのかは人間には理解できない。
「神は全知全能だ」と言うが、全知全能ではない人間が想定しているにすぎない。
少なくとも分かるのは、「神は全知全能だ」と主張する者は、神について「実は分かっていないのに、分かったようなことを言おうとしている者だ」ということくらいだ。
「全知全能だ」「恵み深い」などというのは、人間の側の勝手なレッテル貼りである。

紀元前10世紀後半に、南のユダ王国と北のイスラエル王国に分裂し、約200年後に北王国がアッシリアに滅ぼされる。
北王国の滅亡によって、「ヤーヴェは民を必ずしも守らない神だ」ということが事実として示される。
ヤーヴェを「頼りにならない神」と否定しないために、南王国の者たちは、民がダメなのだ、罪の状態にあると考えることにした。

加藤隆氏はこういうたとえで説明します。

ヤーヴェが何もしてくれないという状態は、結婚している夫婦において、夫がどこかに消えてしまったような状態です。強盗がきて家の半分を破壊しても(北王国の滅亡)、夫は姿を現しません。そうこうするうちに家の残り半分も破壊されます(南王国の滅亡)。しかし妻は、夫と離婚せず、結婚関係を存続させます。夫は消えてしまい、何もしてくれないけれども、彼は正式には夫であり続けます。ひとりの男性だけが夫です(一神教)。
夫が消えてしまったこと、夫が何もしてくれないことについて、妻は、「不適切な女だからだ」と考えます(罪)。自分が「不適切」であり、夫は「正しい」ので、彼女が夫を責めることはありません。彼女が夫に何か要求することもあり得ません。夫がいないのだから、他の男性と彼女が関係をもつ可能性があるかのようですが、彼女は「不適切な女」なので、他の男性と新たな関係をもつための条件が整っていません(多神教的傾向の消滅)。


民にどんな不幸が生じても、それは「神のせい」でなく、「民が罪の状態にある」という立場が、「神の沈黙」を正当化する構造をつくり出している。
そのため、何が起こっても、民が神を見捨てることはない。

しかし、神の行動に理由をつけ、「民の罪」が「神の沈黙」の理由だということは、ユダヤ民族の思い込みかもしれない。
民が罪の状態にあるから、神は沈黙したということなら、人間の側の態度によって、人間が神を動かすことができることになる。
この考えは、神を操ることができるという前提が隠されている。
しかし、「民は罪の状態にあるという考え方」はユダヤ教において支配的な立場になっていく。

神はかつて「希望のメッセージ」を述べるが、状況の改善は生じておらず、神は実質的なことはしていないので、いつまでも希望にとどまっている。
聖書全体を読むと、神はほとんど何もしないということが書かれてあると言ってもいいくらい。
人間の側が罪の状態にあるのでは、「救われていない」という状態にいつまでも留まっているということになる。
「罪」の状態にあるということは、人間の判断や行為は、神との関係を修復する上で何の価値もない。
人間の側にどんな変化があったにしても、その者が「正しい」となる余地はない。

しかし、その者の状態を正しいものにすればよいという考えが生じ、「神の前での正当化」を行う人がいる。
何が正しいかを知っていて、しかも実践できる、それが救いの道だという態度が、「信仰」や「敬虔」の態度である。
「敬虔主義」は、自分の態度によって神を左右できるという人間中心的態度に依拠している。
「自分は正しい」と思い込んで安心したいので、自分と同じようにしない者たちは救われないのだと自分に言い聞かせることで、安心を補強する。
「信仰」は神への信仰であり、神に忠実であることだが、「神に忠実であるとはどのようなことか」を自分の人間的判断で決定している。
だから、絶えず「信仰」が強調されねばならない。

ギリシアの支配(紀元前4世紀~前1世紀)以降、「律法」が絶対的な権威をもつ「律法主義」が支配的になる。
「律法」の掟を完璧に守るなら、神の前の義が実現して救われることになるとされる。
しかし「律法」を完璧に理解し、完璧に遵守することは不可能で、誰も救われないことになる。
「律法主義」においては、「人が罪の状態であること」、「神が動かないままであること」が前提となっており、「律法」を介しての救いは実現しない。

紀元前3世紀~前2世紀になると、黙示思想が目立ってくる。
人間の試みはすべて無駄で、神が一方的に「この世」を滅ぼすとされる「終末」が考えられた。
しかし、「終末」は実現しない。
「救い」に関してユダヤ教は八方塞がりの状態になっている。

旧約聖書では、「人が何をしても救われない」「神の介入を待つしかない」ということが確認されている。
イエスの立場は、「罪」の状態にあるはずの者に対して、神が一方的に介入して、神とその者の間に生き生きした関係が生じるようになったと考える。

この説明ではフロレンスが納得しないでしょう。
もっとも、ルドルフォ・アナヤ『ウルティマ、ぼくに大地の教えを』はキリスト教を否定しているわけではないように思います。

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