三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

佐藤大介『死刑に直面する人たち』

2016年04月23日 | 死刑

佐藤大介『死刑に直面する人たち』は死刑囚、刑務官、弁護人、法務官僚、被害者遺族、死刑囚の家族など、死刑に関わる人たちの声に耳をかたむけ、死刑に関する諸問題について考えていく本です。

刑務官の言葉です。

(元死刑囚は)部屋をいつもきれいにしていて、対応も素直でね。壁には子どもや家族の写真を貼っていて、おとなしく過ごしていた。やったことは凶悪だけど、普段接していると情は移るよ。いつも見ているのは、そんな素直なやつでしかないんだから。(執行は)ただ悲しいとしか言えない。悲惨だよ。


死刑執行が法務省で公表されるようになってから、刑務官の心のケアに一層配慮するようになった。
法務省が死刑執行を公表する際には、執行場所である拘置所名も明らかにされるので、「刑務官の家族はもちろん、親類や知人、子どもの学校にまで「死刑を行った場所に勤めている」というイメージを植えつけかねない」との懸念が生じているから。
東京拘置所処遇部長

処遇する職員はたいへんだから、ベテランの有能な人が担当として当たっています。担当職員は神経をすり減らしますから、定期的に交替しないといけません。


死刑囚の教誨師は執行に立ち会う。

教誨の活動というのはミッションだと思っています。仕事じゃなくて使命なんです。でも、自分のしたことはミッションを超えている。戦争に行ったら、こんなのとは比べものにならない惨状が広がるわけで、だからみんな精神を病むんでしょうね。


元死刑囚の母

事件後、周囲からは「死刑の家族とはつき合えん」とささやかれ、先立った夫が生前手にした退職金も「奪ったカネだろう」と言われた。後ろ指を指され続けることに耐えられず、夫と自殺を話し合った日は数え切れない。首を吊ろうとロープを手に、夫婦で夜中の山中をさまよい、そのまま朝を迎えた日もあった。生活から笑いや楽しさが失われるなか、母親は二人の被害者の名前を札に書いて壁に貼り、夫と毎日てを合わせてきた。
だが、そうした苦しみが、死刑囚となった息子に刑が執行されたことで消えるわけではない。むしろ、息子が殺めた二人の死に加え、その息子の死にも向き合うことになり、心には底知れない暗闇が広がるようだった。


早稲田大学で行われた刑事制度についての「審議型意識調査」での「日本の死刑について」のセッションで、「全国犯罪被害者の会(あすの会)」の高橋正人弁護士と、弟を殺害された原田正治さんがゲストスピーカーとして壇上に上がった。
高橋正人弁護士の発言は迫力があります。

死刑にしても被害者が生き返るわけではないから、生かして償わせた方がよいと言って死刑を廃止すべきだという論者がいる。しかし、被害者を生き返らせる方法がないなら、命をもって謝罪して欲しいというのが、被害者遺族の心情であるから廃止する理由にならない。死刑は残虐だという人もいるが、残虐の限りを尽くして殺害した加害者のことを不問にして死刑は残虐だというのは公平ではない。

死刑廃止論をこのように完全否定します。

故意に死を招いた者は死をもって償うべきだという道徳観は定着している。人の価値は平等だといって廃止を唱える向きもあるが、人の価値が平等なら、理由もなく人の命を奪った者に対してこそ死刑にしなければ、不平等である。死刑は国家による殺人だと非難する人もいるが、罪のない人を大量に殺戮する戦争を認めておきながら、少数の重罪犯に対する正当な処遇である死刑を否定するというのでは説得力がない。
誤判の虞れがあるから廃止すべきという意見もあるが、すべての殺人事件で誤判の虞れがあるわけではなく、また、誤判は、疑わしきは罰せずとの原則を貫くことで避けることができる。

いかに迫力があっても、賛成はできません。
「疑わしきは罰せず」が原則だといっても、実際には冤罪事件が生じているわけで、誤判を避けることが本当にできると、あすの会の会員が信じているとすれば、事実を見ないようにしているとしか思えません。

刑法の本を読んで、まずはなんて書いてあるか。応報なんです。復讐してやりたいというのが犯罪被害者の遺族です。でも、それはできないから、国家にその無念を晴らしてもらいたいと思っている。生きて償わせればいいという意見もあります。でも、真人間になっても殺された息子は帰ってこない。だから死んで償ってくれと思うのです。その応報の気持ちが忘れられてしまっている。更生はいいことだけど、それは被害に遭っていないわれわれには関係ないのです。更生しようが関係ない。だから、死んで償ってくれと。

被害者遺族の感情で死刑か無期か有期かを決めるべきだと、高橋弁護士たちは考えているのでしょうか。
犯罪者の更生が被害に遭っていない私たちと無関係であるはずはありません。
被害者であろうと、被害者でなかろうと、社会の中で生活しているわけですから。
それと、「死んで償ってくれ」と言いますが、加害者が自殺しても「死んで償ってくれた」とは思わないでしょう。

被害者がみんな厳罰を望んでいるわけではありません。

片山徒有さん「被害者はみな加害者への厳罰を望んでいると思われがちですが、決してそうとは限りません。同じ被害者を出さないことが、一番の望みなのです。「被害者は厳罰を望んでいる」と周囲が決めつけるのは、被害者家族にとって大きな負担になるのです」

社会から犯罪を減らすためには厳罰よりも、社会復帰できる環境作りが重要だと思います。

政府による死刑制度に関する世論調査だと、死刑賛成の人が多いのですが、質問の仕方に問題があります。
1956年~1989年の質問。
「今の日本で、どんな場合でも死刑を廃止しようという意見にあなたは賛成ですか、反対ですか」
回答(1)賛成
  (2)反対
  (3)わからない

1994年~2009年の質問。
「死刑制度に関して、このような意見がありますが、あなたはどちらの意見に賛成ですか。」
回答(1)どんな場合でも死刑は廃止すべきである
  (2)場合によっては死刑もやむを得ない
  (3)わからない・一概に言えない

2014年の質問。
質問「死刑制度に関して、このような意見がありますが、あなたはどちらの意見に賛成ですか」
回答(1)死刑は廃止すべきである
  (2)死刑もやむを得ない
  (3)わからない・一概に言えない

1994年~2009年の質問は「どんな場合でも」と「場合によっては」との選択だから公平ではないという批判がありましたが、1989年までの「どんな場合でも」や、2014年の「廃止すべき」と「死刑もやむを得ない」も似たようなものだと思います。

コメント (9)
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