三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

べてるの家 6 「個人苦」から「世界苦」へ

2011年09月25日 | 

向谷地生良氏の言う「「個人苦」が「世界苦」へ広がる」ということ。
他人の苦しみ悩みを共有できるということは、苦しみ悩みはその人個人だけのものではないからである。
「個人苦」が「世界苦」へとは、私の苦しみ悩みが私個人の苦しみ悩みではなく、みんなの苦しみ悩みだったという発見である。
これは、アジャセの苦しみはアジャセ個人の問題ではない、一切衆生の問題なんだ、ということと同じだと思う。

苦しみ悩みを自分一人で抱えていたら、そうはならない。
自分一人ではなかったという気づきは「弱さの情報公開」によって得られる。
中途失明の方がこんな話をされた。

目がどんどん悪くなったころは、恥ずかしいとか、みんなから嫌われるのではと思って、近所の人や友だちに「見えなくなった」とは言えませんでした。
そして、弱音を吐いてはいけない、自分でしなくてはと思うんですが、できないので落ち込むことを繰り返しました。
「実はこうなんです」と言えるまでは、もがき苦しみ、家にこもっていました。
そのころが一番つらかったです。
ところが、「実は目が見えなくなって」と人に話せるようになったら、自分の心がだんだん開いてきて楽になってきました。
人からも「何かお手伝いできることはありませんか」と声をかけてもらえるようになりました。
そして、同じ病気の人の集まりに出るようになると、いろんな人との出会いが生まれるし、さまざまなことを教えてもらいます。
そうやって少しずつ見えなくなったことを受け入れていくようになりました。
だから、つらいことを自分の中にため込んではいけないと思います。
みなさん、段階があって、障害を隠そうとして家に閉じこもり、一年ぐらいで外に出るようになれば、十年かかる人もいます。
これではダメだ、助かりたいと自分が思わないと、まわりの人がいくらあれこれアドバイスをしても意味がないのですね。

そういう話だった。
悩み事を人に隠し、自分一人で何とかしようと抱え込むことはよくある。
病気以外でも、子どもの不登校や非行、ひきこもり、夫の暴力、依存症などなど。
ところが、「弱さの情報公開」はつながりを作る。
「「弱さ」という情報は、公開されることによって、人をつなぎ、助け合いをその場にもたらします。その意味で、「弱さの情報公開」は、連携やネットワークの基本となるものなのです」
(向谷地生良・浦河べてるの家『安心して絶望できる人生』)
不登校だったら、不登校の親の会やフリースペースがあるし、依存症や摂食障害などは自助グループがある。
そこでは自分の抱えている問題=弱さを公開できる。
子どもがイジメにあって悩んでいるお母さんが、不登校の子どもを持つおかさんに、「ええね。不登校だったら横のつながりが増えて」と言って、悩み事を打ち明けたという話を聞いた。

自己分析を一人でやると、堂々巡りになるし、自己憐憫に陥る。
しかし、協力者がいる、発表する、聞いてくれる人がいる、共有してくれる人がいたら生きていける。
どうにもならないのに、自分が何とかしなくてはとあがいているから、道が開けない。
お手上げになったことを認め(機)、「助けてくれ」とまかせば(法)、救いの道は開かれるように思う。
ただし救いとは、問題が解決して楽になる、ということではなく、問題はそのままだが楽になることらしい。
吉野さん「そこで見えてきたのは「誰にも〝サトラレ〟ない、必要とされていないという絶対的な孤独感、孤立感」である。つまり、〝吉野雅子〟は、自分という存在を、誰かに「サトラレ」てほしかったのだ。「サトラセ」たかったのだ」という気づき(信知)。
虚しさガールズ「失敗だらけの人生で、自分を責めるのが得意技だけれど、これまでの人生経験が何よりの宝であり、お金には変えられない資本である」という受け止め(信受)。

コメント
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