三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

べてるの家 4 「幻聴さん」依存

2011年09月19日 | 

「治さない医者」である川村敏明医師はこう言っている。
「私が感じるのは当事者研究をやりはじめた人たちは、いわゆる、あまり治そうとしなくなってきたという感じがするね。(略)それまでは健常者を目標にしてとか、あるいは医者がどう見ているとか、病気以外の人たちを基準にしてものを見て判断して頑張ってきたんじゃないかな。そうすると、それに応じて医者も病気の症状があるとそれを少しでも減らさなきゃいけないんじゃないかとがんばってしまう」
(向谷地生良・浦河べてるの家『安心して絶望できる人生』)
医者と病人が病気を治す気がないとは、何を考えているのやらと感じるのが常識。
でも、どうなることが「治す」ことなのか。

病気と健康、どっちがいいかとなると、普通は答えは決まっている。
ところが、統合失調症や鬱などの症状が回復した後は自殺率が高まるそうだ。
向谷地生良氏はこのように言っている。
「薬の力によって幻聴を取り去られた人たちは共通してこういうことを言うのです。「心が空っぽだよ。向谷地さん、幻聴さんのいた非現実的世界から抜け出て、現実世界で心が空っぽだよ」と。症状が改善して、気持ちが落ち着いて、イライラもなくなった。喜ぶべきことにもかかわらず、その症状が改善した人たちは、未来が見えない、わからないと言うのです」

現実を生きることがはたしていいものなのか。
吉岡忍氏も、戸塚ヨットスクールに入校して三日目に自死した18歳の女の子について、次のように書いている。
「意味のある手応えが何もないこと。それが普通になることだと気がついてしまったら、生から死への垣根を越えるのはさぼど困難なことではなかったかもしれない。
『平成ジレンマ』は特殊が普通へ、異常が正常へ、不適応が適応へと転轍するさまざまな場面を描く一方で、普通や正常とされる状態に適応することが、実はさほど心躍るものではないのかもしれない、という暗い予感も写し取っている」
(『戸塚ヨットスクールは、いま』)
となると、病気が治って正常になることが幸せなのか。

精神病という病気は現実の世界から自分を守ろうとするはたらきがあるそうだ。
清水さん「幻聴さんの世界ってのはやっぱりなんていうか、離れがたい魅力があるんですよね、つらさのなかにね。(一方)現実のつまんない、自分の苦労と直面したらおもしろくないじゃないですか。たとえば恋人ができないとかさ」
斉藤道雄「幻聴は、つらいといっても起伏にとみ、激しい感情の動きで人を魅了し、現実を見ないようにさせてくれる」
幻聴への依存、妄想への依存、病気への依存は深い充実感をもたらす。
清水さん「苦労の多い現実の世界では自分の居場所を失い、具体的な人とのつながりが見えなくなると、『幻聴の世界』は、どこよりも実感のこもった住み心地のいい刺激に満ちた『現実』になる。それは、つらい、抜け出したい現実であっても、何ものにも代えがたく、抜け出しにくい『事実』の世界だった」

統合失調症の女性メンバーの言葉。
「幻聴が和らいだ時期がある。幻聴が和らぎ雲の切れ間から日が差すような感じになった時の空虚さに私は耐えられなかった。私は代償としてアルコールに浸り、買い物に夢中になっていった。つまり、幻聴と被害妄想は空虚さという私の心の隙間を埋め尽くし、生きていることの虚しさという現実から私を避難させるという役割を果たしていたとさえ言える。被害妄想だと気づくことそのものが私にとっては怖いことだったのかもしれない」
ある依存がとまると、他の依存になるそうで、幻聴依存から脱却したと思ったら、アルコール依存、買い物依存になってしまったというわけです。

現実に押しつぶされそうになると、精神障害者は幻聴さんに、薬物依存症者は薬物に逃げ込む。
ダルクのK氏が自己憐憫についてこんな話をしている。
「罪悪感が強すぎると、自己憐憫、自分で自分を憐れむ状態になりやすいんです。シンナーを吸う時もそうですね。寂しい曲をかけるんですよ。カルメン・マキの「時には母のない子のように」とか、ものがなしいメロディーを聞きながらシンナーを吸って、「私はなんてかわいそうな人間なんだろう」と思うのが、すごく気持ちいいんですよ。自己憐憫の感情に酔うというか、自分はだめなんだという思いに酔いしれるというか、それがすごくいいんです。自己憐憫はクスリを使いつづける大きな道具なんです」
私も自己憐憫大好き人間なのでやばいなと思う。

向谷地生良「幻聴であろうが妄想であろうが、やっぱりそれが、自分と現実とのあいだにひとつの壁、バリアーとなって自分を守っているものとして、私たちは理解しているんですね。でもその病気が、またはバリアーであるいろんな症状が、だんだん薄くなって、現実感をとりもどして、そしてその現実感の向こうに見えてきた社会とか人生ってのが、やはりほんとに生きやすいだろうか、って思ったときに、そこでこう、たじろぐ、そういうたじろいだときに、またその症状がぶり返すようにして襲ってくる、そういうことのくり返しをしているんですよね」
(向谷地生良・浦河べてるの家『安心して絶望できる人生』)

現実が生きづらく、充実感がなければ、回復するよりも病気のままのほうがいいということになる。
どちらを選ぶかは自分自身である。
「自分が被害妄想にまみれた『幻聴の世界』で生きることを選ぶのか、それとも、人間関係の苦労をともなう生々しい『現実の世界』で生きることを選ぶのかという『選択の仕方』なのだ」
「私たちが問われていることは『どの悩みを生きるのか』という〝苦労の選択〟だと考える」
清水さんのこの言葉は深いと思う。
べてるの家を知ると、病気を治すことよりも大事なことがあるのかもしれないという気になってくる。

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