真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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BRICS 拡大の背景と平和

2023年08月27日 | 国際・政治

 先日朝日新聞に、同志社大学大学院准教授の国際政治学者、三牧聖子氏の「声をあげるのに中傷覚悟という不当」と題する文章が掲載されました。見出しに関する内容については、基本的には同意できるのですが、そのなかに、下記のような記述があり、問題があると思いました。

米国で初めて誕生したZ世代の下院議員マクスウェル・フロスト氏は、銃規制運動のオーガナイザーをつとめ、「人生の半分を社会運動に捧げてきた」と自負しています。フロスト氏ら若者が銃規制運動にアクティブに関与するのは、多発する学校での銃乱射事件などを最もリアルに感じているからです。高校生たちが銃規制を求める運動を展開した際、多くの大学が支持を打ち出し、高校から懲戒処分を受けても進学に影響しないと表明する大学もありました。自分たちの権利が脅かされているという危機感があること、マイノリティーが闘争を通じて権利を獲得してきた米国の歴史的伝統が根付いているためでしょう。
 いまの日本には、米国のような大規模な抗議運動は起こっていません。日本の現実が米国よりましだからなのでしょうか。でも「生活が苦しくなっている」など、真綿で首を絞められているように感じている人は多いはず。政治を変えるには声を上げる必要があります。
 たとえ自分と意見が異なる人であっても、それが平和的な抗議行動である限り、声を上げる権利だけは全力で守る。それが民主主義国としての矜持だと思います。民主主義や人権を踏みにじるロシアに対抗する中で、改めて自国の民主主義や人権の現状を批判的に見つめ直したいところです。”

 私は、アメリカ国内の民主主義に関わる歴史的変化だけに着目して、”マイノリティーが闘争を通じて権利を獲得してきた米国の歴史的伝統”などというかたちで、アメリカの民主主義を高く評価し、かつ、”民主主義や人権を踏みにじるロシアに対抗する中で…”、とロシアに批判的な文脈のなかで、アメリカの民主主義を論じてはいけないと思ったのです。木を見て森を見ない見解であり、読者の客観的認識を誤まらせるものではないかということです。
 ウクライナ戦争が続く現在、考えなければいけないことは、”マイノリティーの権利獲得の闘争”というような国内的な枠をこえた、対外政策や外交政策におけるアメリカの民主主義であり、アメリカが法や道義・道徳を無視し、武力行使を続けてきた現実だと思います。

 さらに言えば、民主主義は、組織の重要な意思決定を、その組織の構成員である国民(民衆、大衆、人民)が行う、制度だと思います。でも、ウクライナ戦争を「民主主義」と「専制主義」の戦いだと主張したバイデン大統領のアメリカを中心とする西側諸国は、本当に構成員である国民が、真実に基づき、客観的事実を踏まえて意思決定を行っている民主主義国家でしょうか。
 西側諸国の国民は、アメリカがウクライナの民主化に60応ドルを費やしたという事実(ビクトリア・ヌーランドの発言)や、アメリカがウクライナのマイダン革命に深く関与した事実、アメリカがウクライナ戦争が始まる前から、ロシアに経済制裁を課していた事実その他を踏まえて、客観的にウクライナ戦争を捉え、ウクライナに対する武器の供与やその他の支援を支持しているのでしょうか。
 また、ウクライナの人たちは、ほんとうにウクライナ戦争の経緯や実態を知って、ゼレンスキー大統領が言うように、”クリミアを取り戻すまでロシアと戦う”と、決心をしたのでしょうか。

 選挙制度があり、議員を選ぶ自由が構成員に平等に与えられ、政権に反対の声を上げる権利が保障されていることは、確かに西側諸国の現実だと思いますが、だからといって、西側諸国は民主主義国家の集まりなのだといえるでしょうか。
 日本を含め、西側諸国の人たちの多くが、善悪をさかさまに見せる主要メディアのプロパガンダに依拠して、世界を見ているのが現状ではないでしょうか。
 また、CIAの秘密工作に代表されるような、表に出ない交渉や活動が、現実的に世界を動かしている側面があるのではないでしょうか。
 上記の三牧聖子教授が、そうしたことをどのように考えられているのか疑問に思い、再び「グアテマラ現代史 苦悩するマヤの国」近藤敦子(彩流社)から、グアテマラに対する、アメリカの関わり方が問われる部分を抜萃しました。特に見逃せないのは、下記のような記述です。

もともとアメリカとグアテマラの間には相互に利益を分かち合う外交政策が存在したが、とりわけ独裁政権下のグアテマラは、アメリカからの軍事援助を得るためにワシントンと親密な関係を保ちたかった。遠くはエストラダ・カブレラ然り、ホルヘ・ウビコ然り、である。また1954年にアルベンス政権を崩壊させるにあたっても、カスティージョ・アルマス大佐率いる反革命軍は、アメリカCIAの後ろ盾を得てホンジュラスから侵攻することができた。アメリカもグアテマラをホンジュラスと共に中米の「民主主義国」「親米国家」のサンプルと見做し、ニカラグア、エルサルバドルで台頭する共産主義浸透の阻止の砦となることを期待していた。”

 アメリカが、多くの国の独裁者と手を結んだり、軍事政権を支援したりしてきた歴史を直視し、国際社会の現実を見る必要があると思います。
 
 先日、中国、ロシア、インド、ブラジル、南アフリカの5か国でつくるブリックス(BRICS)の首脳会議が、南アフリカのヨハネスブルクで開かれ、来年1月からアルゼンチン、エジプト、エチオピア、イラン、サウジアラビア、アラブ首長国連邦(UAE)の6カ国が、新たに加盟することになったとの発表がありました。そして、40を超える国々が、ブリックス加入の意向を表明しているといいます。プラウダは下記のような国々をあげています。アルジェリア、バングラディッシュ、バーレイン、ベラルーシ、ボリビア、ベネズエラ、ベトナム、ホンジュラス、インドネシア、カザフスタン、キューバ、クウェート、モロッコ、ナイジェリア、パレスチナ、セネガル、タイ。

More than 40 countries expressed their intention to joins BRICS in 2023. Twenty-three of them sent official applications for membership. It goes about such candidates as: Algeria, Bangladesh, Bahrain, Belarus, Bolivia, Venezuela, Vietnam, Honduras, Indonesia, Kazakhstan, Cuba, Kuwait, Morocco, Nigeria, Palestine, Senegal and Thailand.(https://english.pravda.ru/world/157517-brics_west/)

 それらの国の多くが、かつてアメリカを中心とする西側諸国の植民地支配や武力行使に苦しんだり、搾取・収奪に苦しんだりしてきた国であることを、私は見逃すことができません。そういう国々が、西側諸国の影響下から脱しつつあるということではないか、と私は思います。
                                                      
 メキシコの先住民革命地下委員会、サパティスタ民族解放軍総司令部が、クリントン大統領に宛てた手紙の中に、下記のような訴えがあったことを思い出します。

北アメリカ人民および政府は、メヒコ(メキシコ)連邦政府に対して援助を供与することによって、自らの手を先住民の血で汚しているのです。われわれが求めているのは、世界中の全ての人民が求めているものと同じく、真の自由と民主主義です。この希望のためなら、われわれは自らの生命を賭する用意さえできています。あなたがたがメヒコ政府の共犯者となって、その手をわれわれの血で汚すことのないよう希望するものです。” 

 もはやそういう西側諸国の力の行使が通用しない国際社会になりつつあるのではないかと思います。そうした国際社会の大きな動きを冷静に受け止め、針路をあやまらないようにするべきだと思います。
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                  第二部 軍部独裁政治──見えざる恐怖

                     人権侵害県外と国際的孤立

 全国に広がった死への恐怖
 三代にわたる軍事政権によって弾圧はこの国の風土と化し、半ば社会に染み付いてしまった。グアテマラには政治犯というものが存在しない。あるのは死体と行方不明者だけであった。1960年代の初めにゲリラ組織が出現してからロメオ・ルーカス・ガルシア政権の1980年代頃までに、約12万人の民衆が殺害され、4万6千人が行方不明になったと推定されている。動詞desaparecer(消息不明になる、姿を消す)、の過去分子desaparecido が行方不明者の意味に使われたのはグアテマラが最初であった。
 ルーカス・ガルシア政権の1979年、反対派の有力な2人の指導者が殺害された。前グアテマラ市長マヌエル・C・アルゲタと社会民主党創設者であり、メンデス・モンテネグロ政権の外務大臣でもあったFUR党(革命連合戦線)リーダー、アルベルト・フエンテス・モールである。この2人の死によって軍事政権に反対するものはすべて抹殺されることが証明され、国民を震撼させた。同時に国際社会には、グアテマラは許しがたい人権侵害の行われている国という暗黒の印象を与えた。ルーカス・ガルシア政権下の反対派に対する弾圧は言語を絶しており大統領自ら政府高官とともに大統領府ナショナルパレス別館での会議で拷問、拉致、殺害の標的を直接決定したという。
 そのため、1978年から80年にかけて大衆運動はほとんど壊滅し、ゲリラ撲滅のための殺戮の恐怖は高地(アルティプラーノ)の先住民にまで及んだ。ゲリラに組するものは勿論、ゲリラと接触しただけでも命の保証はなかった。

 アメリカの対グアテマラ政策の変化
 1974年アメリカでカーター政権が出現すると、人権外交が重要な対外政策として浮上してきた。アメリカの対外援助額は、被援助国における人権侵害の記録によって決定され、ラテンアメリカについてはとりわけその査定が厳しかった。
 グアテマラの人権侵害は当然ワシントンの不興を買った。しかもアメリカ政府はグアテマラが何らかの形で詫びを入れ、相互に納得が得られるような折衷案を提示してくるものと思っていた。しかし、ナショナリズムが高揚し民族主義に凝り固まった当時のグアテマラは、人権弾圧停止と引き換えにアメリカの援助を受けることを潔しとせず、自らこれを断った。
 もともとアメリカとグアテマラの間には相互に利益を分かち合う外交政策が存在したが、とりわけ独裁政権下のグアテマラは、アメリカからの軍事援助を得るためにワシントンと親密な関係を保ちたかった。遠くはエストラダ・カブレラ然り、ホルヘ・ウビコ然り、である。また1954年にアルベンス政権を崩壊させるにあたっても、カスティージョ・アルマス大佐率いる反革命軍は、アメリカCIAの後ろ盾を得てホンジュラスから侵攻することができた。アメリカもグアテマラをホンジュラスと共に中米の「民主主義国」「親米国家」のサンプルと見做し、ニカラグア、エルサルバドルで台頭する共産主義浸透の阻止の砦となることを期待していた。
 ところが、カーター政権の出現とともに「民主主義国」の仮面は剥がされ、国内で繰り返し行われている凄まじい人権侵害の事実を理由としてワシントンの対グアテマラ感情は一気に悪化した。そして1977年から1983年にかけてアメリカの対グアテマラ援助額は極端に減少し、武器輸出も表向きは停止された。そのためゲリラ壊滅作戦に躍起となっていたグアテマラ軍事政府はイスラエル、アルゼンチン、台湾など他の国から武器を購入しなければならなかった。
 レーガン政権の発足と共に、グアテマラ・アメリカ関係は徐々に修復されに リオス・モントがクーデターによって政権についた1982年あたりから対グアテマラ軍事援助は僅かながら回復の兆しがみえてきた。1983年、レーガン大統領は議会に対しグアテマラ新軍事援助計画の承認を求めたが、著しい人権侵害が行われている国際的に評判のよくない国への援助に対する議会の承認が得られなかった。公式に軍事援助がグアテマラに再開されはじめたのは1986年になってからのことであった。

 住民の分断と監視のための「民間自衛パトロール隊」
 1970年代後半、軍は高地(アルティプラーノ)に住む先住民すべてにゲリラ、またはゲリラのシンパという疑いを抱いた。軍はまず先住民村落や部落を分断し、先住民を軍の統制に従わせることを計画した。そのため数百の村が取り壊され、数万の先住民が殺害され、数万人が強制移住させられた。スペインによる制服以来500年にわたって固有の文化を守り、地域社会の特性を失わずに生きてきたグアテマラの先住民はともすれば現代社会の進歩に反抗してかたくなに生きているという印象を与えがちであり、しかもその先住民がマージナルなプアー・マジョリティーであり、心情的にゲリラに与しているということが、軍を怯えさせ、弾圧の引き金となった。

 度重なる軍の弾圧にもかかわらずゲリラはその勢力を増してきた。軍事政権は「グアテマラは何処も同じ」というナショナルアイデンティティのもとに、地域共同体平和計画を立案し、先住民村落を掌握してゲリラのサポート基地を根絶しようとした。そのために結成された住民監視組織の一つが「民間自衛パトロール隊」である。
 民間自衛パトロール隊はアルタ・ベラパス州で1976年初めて結成され、ルーカス・ガルシア政権の1981年には、各地方に広がり、続くリオス・モント政権下では、ゲリラ壊滅戦略の重要な柱となった。民間自衛バトル制度は、1980年代前半に最も普及し、その後下火となったが依然として闘争地域では、軍の対反乱分子壊滅の重要な作戦となっている。
 もともとこの制度は植民地時代、スペイン人の地主が土地を守るため、先住民の民兵を組織したことにはじまる。それら民兵は地主のために収穫を取り立て、農民を監視する無報酬の私兵であった。
 民間自衛パトロール隊員は1986年には約100万人いったと推定され、その90%は高地のマヤ先住民の男性であった。14歳から60歳までの無報酬のパトロール隊員は週に数日、木製の銃か第二次世界大戦中の旧式の武器を携え、グアテマラ国旗をかざして村のパトロールに当たる。パトロールは強制労働で参加しないものはゲリラの烙印を押され投獄され、あるいは地方の軍基地で拷問を受ける。村の出入り口にはパトロール隊員の歩哨が立ち、村民や訪問者の出入りを監視している。彼らまたゲリラに接触したり、ゲリラ思想に汚染されているという疑いのある村民を強制移住させたり、ゲリラ・シンパを炙り出して逮捕、軍に引き渡す。
 高地の村で、パトロール隊員としては同じ階級の小学生の子供と、白髪の増えた年配の隊員が共に隊列を組んで、足を引き摺り、おどおどしながらパトロールの任務についているのは目を背けたくなる光景であった。
 このパトロール制度には、国の内外の人権団体、宗教界から激しい非難の声が上がったが、軍や右派政治家はパトロールの拡大を支持し、地方のみならず都市部にもパトロール制度の導入を主張した。なぜなら、ゲリラは地方のみならず、都市でも新しい戦術で破壊活動を開始したから、というのがその理由であった。
 1988年、サンタ・クルス・デル・キチェにおいてルヌヘル・フナム民族共同体委員会が発足し、初めて民間自衛パトロール隊員の徴募に反対した。ルヌヘル・フナムとはキチェの言葉で、「我々はすべて平等である」という意味で、その創設者はラディーノの小学校教師、アミカル・メンデス・ウリサルであった。かれは生命への脅迫を顧みずゲリラと手を携えて、「すべては平等」のスローガンのもとに屈辱的な民間自衛パトロール制度に反対して戦った。ルヌヘル・フナム民族共同体委員会が発足して、この地方の25人のマヤ族が殺害され、もしくは軍か疑似軍隊によって拉致され行方不明となった。かれらはこのパトロール制度がいかに不法であるかを憲法に照らして異議を申し立てていた。1992年においてもまだ約50万人のパトロール隊員が存在した。

 スペイン大使館援助事件
 1980年1月31日、首都グアテマラ・シティでデモが行われ、労働者、農民、聖職者、学生たちが軍事政府の弾圧に激しく抗議した。とりわけエル・キチェ州のチャフル、コツアル、ネバフの先住民たちは、かれらが受けた弾圧の事実を国際社会に知ってもらおうとデモに参加した。
 エル・キチェ州の農民たちは抗議デモ参加者と共にどこか外国の大使館に陳情し、かれらに対する軍事政府の弾圧の事実を知らしめ、グアテマラの現実を世界に訴えようとした。マスコミは軍の報復を恐れ真実の報道をしてくれなかったからである。そして農民統一委員会(CUC)のメンバーを含む抗議者代表がスペイン大使館へ乱入したのである。愚かしい行動であった。
 ただちに国家安全保障軍が出動し、乱入者鎮圧を名目にスペイン大使館に放火、炎上させた。駐グアテマラ・スペイン大使は大火傷を負って病院に収容され、乱入した抗議者(28名)を含む39名が死亡した。農民統一委員会のリーダーの一人、ビセンテ・メンチュはこの事件で死亡、たった一人重傷を負って生き残ったグレゴリオ・ユハは収容された病院から拉致されて殺害された。
 スペイン大使館に放火を指示したのは、ルーカス・ガルシア大統領自身といわれているが、真相は不明である。この事件により、スペイン政府はグアテマラとの国交を断絶、また、グアテマラで行われていた弾圧についてほとんど無知であったヨーロッパ各国も中米のこの国に目を向けることとなった。


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2 コメント

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Unknown (yoshi)
2023-08-27 15:30:08
私も、西側諸国の力の行使が通用しない国際社会になりつつあるのではないかと心配です。
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コメントありがとうございます (syunrei hayashi)
2023-08-27 19:37:11
yoshi様

 武力行使や搾取・収奪を続けてきたのは、西側諸国であり、ブリックスの中心メンバー中国が西側諸国と同じような武力行使や搾取・収奪をくり返す可能性はないと思っているのですが、台湾有事が気がかりです
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