真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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アメリカの戦争犯罪はなぜ裁かれない?

2023年08月13日 | 国際・政治

 戦後、特に冷戦後は、アメリカが圧倒的な軍事力と経済力を背景に、世界を支配してきたと言ってもいいのではないかと思います。だから、アメリカの国際情勢に関する認識やそれを基にした政策が、あたかも国際世論であり、常識であるかのように受け止められてきたと思います。冷戦後、「一極体制」などという言葉が、しばしば使われるようになったのは、そのことを示していると思います。

 だから、圧倒的な軍事力と経済力を持つアメリカに逆らうことは、弱小国にとっては、きわめて難しく、まさに、下記のキューバのように、国家の命運をかけて闘う覚悟が必要だったのだろうと思います。そういう意味で、ウクライナ戦争をきっかけとするロシアにたいする制裁決議賛成意見も、決して自主的なものばかりではなく、アメリカの意向に引きずられている国が少なくないのではないかと想像します。
 また、日本や韓国のように、米軍基地の存在する国は、ほとんど自主的な外交権を失っており、国際社会では、常にアメリカの戦略に従って動いているように思います。したがって、ロシア制裁決議の賛成国の数には、あまり意味はないと思います。

 先日、オランダ・ハーグに本部を置く国際刑事裁判所(ICC)が、ウクライナ侵攻をめぐる戦争犯罪容疑で、プーチン大統領らに逮捕状を出したとの報道がありました。
 それは、国際刑事裁判所もアメリカの影響下にあることを示していると思います。

 なぜなら、第二次世界大戦後、アメリカは数々の戦争犯罪をくり返してきましたが、国際刑事裁判所は、アメリカの大統領に対して、戦争犯罪の容疑をかけたことがないからです。国際刑事裁判所も、圧倒的な軍事力と経済力を持つアメリカの犯罪を裁くことは出来ないのだと思います。だから、現在の国際社会は、法ではなく、力が支配していると言ってもよいのではないかと思います。

 ふり返れば、ヴェトナムにおけるアメリカの戦争犯罪を裁く「国際戦争犯罪法廷」(ラッセル法廷)では、多くの証言をもとに、下記のような罪でアメリカに有罪を宣告しているのです。
1、ヴェトナムに対する侵略行為、
2、純然たる民間目標(学校、ダム、病院、衛生施設)に対する爆撃、
3、住居、村落、都市、学校、寺院などへの組織的大規模爆撃、
4、捕虜・民間人の虐待、
5、ジェノサイド、
6、国際法違反の兵器使用

 でも、国際刑事裁判所が、アメリカの明らかな戦争犯罪を黙殺し動かなかったことは、忘れられてはならないと思います。
 また、アメリカ合衆国の法律家で、ジョンソン大統領のもとで第66代司法長官を務めたラムゼイ・クラークは、数々のアメリカの戦争犯罪を告発しています。
 湾岸戦争時に、彼は、ブッシュ大統領の戦争犯罪を問うため、国際戦争犯罪法廷(クラーク法廷)を開廷しましたが、その他にも、アメリカがセルビアで大規模空爆をおこなった戦争犯罪なども告発しています。
 ラムゼイ・クラークによると、ユーゴスラヴィアが、NATO軍による空爆を告発したとき、NATO諸国は開廷にふみ切ることに合意したにもかかわらず、アメリカは拒否したといいます。
 そして、アメリカは、さまざまな国際法の規定に関して、自国についての適用を排除・変更する目的をもって一方的に、「留保」を主張してきたといいます。だから、大規模空爆による「ジェノサイドの罪」からも「免責」され、アメリカだけは、例外的な特権を持っている状況にあるということです。
 さらに、ラムゼイ・クラークは、アメリカが国際法に違反して次のような侵略や内政干渉を行ったとして、1983年のグレナダ侵攻1986年におけるリビアのトリポリ、ベンガジへの爆撃、ニカラグアにおけるコントラ、南部アフリカのアンゴラ完全独立民族同盟(UNITA)への資金援助、リベリア、チリ、エルサルバドル、グアテマラ、フィリピンおよびその他多数の地域における軍事独裁政権の支持や支援をあげています。
 アメリカによる1989年のパナマ侵攻は、イラクのクウェート侵攻に適用されるのと同様な、あるいはそれ以上の国際法違反を伴っており、アメリカの侵攻によって、1000名ないし4000名のパナマ人の生命が奪われたといいます。アメリカ政府は、現在もなお死者の数を隠しているとのことですが、アメリカの侵略は、パナマ全土に大規模な財産破壊を引き起こし、パナマの人たちは、悲惨な生活を強いられることになったとしています。パナマの惨状については、かつて取り上げたノーム・チョムスキーアンドレ・ヴルチェクの対話のなかでも触れられていました。

 ロシア政府が、戦争犯罪の疑いでプーチン大統領などに逮捕状を出した国際刑事裁判所のカリム・カーン主任検察官と赤根智子氏ら3人の裁判官を指名手配したというのは、国際刑事裁判所が、アメリカの意向に従って、欠席裁判を行った結果だと思います。ウクライナの問題についても、本来、戦争に至る前に、きちんと法的に争うべきだったと思います。アメリカは法的に争う努力をしてこなかったし、現在もしていないと思います。

 下記は、「物語 ラテン・アメリカの歴史」増田義郎著(中公新書1437)からの抜萃ですが、ラテン・アメリカには、長い歴史に基づく、根深い「反米感情」があるといいます。
 また、”アメリカ合衆国が社会主義キューバを徹底的に孤立させようとした強硬政策は、逆効果を生んだ”というような記述もありますが、キューバは、国の命運をかけてアメリカから離れたために、”それがカストロの革命によって突然再変化が起こった。農民たちはトイレや台所のついた人間の家に住み、ちゃんとした教育や医療が受けられるようになったのである。農民たちは「カストロはキリストの再来だ」と言って涙を流して革命の指導者に感謝した。”というような変化が可能だったのだと思います。そしてそれは、革命前のアメリカの搾取や収奪が、どういうものであったかを示しているのだと思います。
 また、”キューバ革命を契機に、人々はラテンアメリカ全体の問題を意識し、またその中に位置づけて自国を見るようになったのである。いいかえれば、ラテン・アメリカの人々は、はじめて一国ナショナリズムから脱却して、自己相対化することができるようにになったのである”という記述も見逃せません。
 それは、アフリカ諸国のアメリカ離れや、アフリカ連合一体化の動き、すなわち「アフリカ合衆国」の構想等にも通じるものがあるのではないかと思います。
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                   ニ十世紀のラテン・アメリカ

 第二次大戦と戦後
 第二次大戦がおこると、途中まで中立を維持した少数の国もあったが、最終的に中南米の全ての国は連合国側に立って枢軸諸国に宣戦布告した。アメリカ合衆国の「善隣外交」が功を奏してラテン・アメリカ諸国との関係が確かに好転していたのである。
 にもかかわらず、ラテン・アメリカの反米感情はこれで消えたわけではなく、第二次大戦後も持続し、いろいろな問題を引き起こしている。
 すでに述べたように、1929年の大恐慌以後、中南米諸国は、第一次産品の輸出市場がせばまり、また輸出価格が低下したので、経済的困難に直面した。アルゼンチン、チリ、ブラジル、メキシコなどの国々は国内に工業を起こすことによって、工業製品の自給を達成し、外貨を節約しようとしたが、それができないその他の国々は、アメリカ合衆国の経済力の枠内で、輸出に向けられる一次産品の増産によって不況を切り抜けようとした。

 前者の国々においては、戦時中工業化が進み、戦後には軽工業から重工業へ発展する国もあって、国内市場から国際市場へと製品の販売の展開を求めるようになった。しかし、それらの国々の工業はまたその製品の質、価格等において、国際競争力が弱く、反面大衆を相手とした新しい社会政策も、国際収支の悪化とインフレのために苦境におちいった。しかも大衆に対する人気を維持するために、多額の福祉予算や補助金を国家予算に計上し、経済が悪化してもそれを削減することがむずかしかったので、さらにインフレがひどくなり、社会的な対立が高まった。こうして、第二次世界大戦後の1960、70年代において、工業化の道を選んだ国々では、社会不安と政治対立がひどくなった。
 他方。第一次産品の輸出に依存していた国々は、第二次大戦後、先進国の貿易が拡大し、また世界的に第一次産品の生産とそれにとって代わる新製品の開発が進んだために、国際市場における競争が激しくなり、輸出が伸び悩むことになった。したがってこれらの国々も、軽工業を中心に工業化政策をとりはじめたが、これも多くの困難にぶつかった。
 第二次世界大戦後においては、大衆 労働者、中間層を中心とした人々が、戦前以上に新しい形の政治の出現を要求していた。各国において、斬新な改革主義の政治が試みられたが、旧支配層の抵抗が強くなかなか実現しなかった。
 このような情勢下に、1959年、キューバ革命がおこった。この革命は、はじめは民族主義的な性格を持つと思われたが、米ソの対立の中で急に社会主義陣営にかたむき、アメリカ合衆国とするどく対立した。アメリカ合衆国は、キューバを経済封鎖し、米州機構から追放したが、キューバは社会主義圏と強い関係を結び、砂糖を特恵的な値段で社会主義諸国に輸出し、ソ連から経済援助得ることによって自立のための努力をつづけた。
 アメリカ合衆国が社会主義キューバを徹底的に孤立させようとした強硬政策は、逆効果を生んだ。キューバは、アメリカ合衆国の目と鼻の先にあって、それに完全に経済支配された属国であった。首都ハバナは、マイアミやニューヨークのマフィアが幅をきかす淫楽の町であった。そのようなキューバが、突如として過去との一切の腐れ縁を断ち切り、独立国として完全な自立をとげたのである。これはひとつの奇跡であった。
 そして軌跡は国内でもおこっていた。キューバは、首都ハバナの華麗さにもかかわらず。貧しい国だった。1953年の国勢調査によると、都市人口は57%、農村人口は43%であったが、電機の普及率は全国で58.2%。都市の87パーセントに対して、農村には9.1パーセントしかなかった。水道の普及率は35.2パーセントで、都市の54.6パーセントに対して農村は2.3パーセント。水洗トイレの普及率は28パーセントで都市の42.8パーセントに対して、農村は3.1パーセント。農村でトイレがない家は54.1パーセントにのぼった。また、農村で風呂ない家が90.5パーセントもあった。ハバナの中産階級は、アメリカ合衆国の文明的生活をしていたのに、農村のサトウキビ畑の労働者たちは衛生施設もなく、医療も与えられずに寄生虫やチフスに悩まされながら、ボイーオと呼ばれる。藁小屋にすし詰め状態で住んでいた。
 それがカストロの革命によって突然再変化が起こった。農民たちはトイレや台所のついた人間の家に住み、ちゃんとした教育や医療が受けられるようになったのである。農民たちは「カスロはキリストの再来だ」と言って涙を流して革命の指導者に感謝した。
 キューバにおける千年王国の出現は、アメリカ合衆国がかたくなな敵対心を示せば示すほど、疑いのない事実として、ラテン・アメリカの人々に印象づけた。多くの人々が、これこそ「アメリカ帝国主義」からの真の自立の道だと考え、各国の労働者や学生たちは「クーバ・シ、ヤンキー・ノ」と絶叫して革命を祝福した。
 1960年代は、革命の高揚期だった。ロマンチックな革命の夢が、ラテンアメリカを覆い、またキューバも積極的にそれを利用して、いくつかの国々へ革命の輸出をはかった。そこで、アメリカ合衆国のみならず、中南米諸国の軍部は非常な危機感を抱いた。そしていくつかの国では、クーデターによって軍事政権が成立した。すなわち、1964年のブラジルで、1966年と67年にアルゼンチンで、73年チリとウルグアイで、それぞれ軍部のクーデターがおこった。チリの場合は、1970年に成立したサルバドル・アエンデの社会主義政権への直接の対抗であった。
 これらの軍事政権は、強権によって社会の「法と秩序」を維持し、テクノクラートと近代的な企業家によって経済の前進をはかろうとする点で一致していた。これは従来のカウディーヨの軍人が独裁的権力をにぎるのではなく、政策能力のある将校団が政権を動かした点でも似ている。
 なかでも1968年に、ペルーにおいて改良主義的なペラウンデ政権をクーデターで倒して成立した革命軍事政権は、革新的な若い将校団によって指導され、左翼系の知識人や革命家も行政の中に取り込んで、大農園の徹底的解体をはじめとする諸種の改革を行った。
 しかし、軍部による強権的体制も国際収支の悪化につれ、悪性インフレや増大する対外債務などの問題を処理することができず、政権を放り出す場合が多くなった。そして1980年代のうちに、中南米の軍事政権は民主制に移行している。
 その間にキューバ革命は、1960年代の理想主義時代を過ぎて、70年代に入ると現実路線に転換し、ソ連東欧型の官僚的社会主義体制に固着していった。砂糖の生産だけに依存する経済を多様化し、産業を近代化化しようとする試みも失敗した。そして、アメリカ合衆国への従属を断ち切ったとはいうものの、べつな形で社会主義圏に従属する結果におちいり、1990年代になると社会主義圏の崩壊とともに、ますます厳しい道を歩まざるを得ず、現在のところ革命の輸出ところではなくなって。自己の体制を維持するのに汲々としている状態である。
 
 キューバ革命は、政治的、経済的に見れば、社会主義革命をやりさえすれば、すべての問題が一挙に解決する、という楽観主義の夢を打ち破ったといえよう。現在はグローバルな世界一体化の時代である。社会主義革命といえども、国際環境に制約されているのである。むしろキューバ革命がラテン・アメリカに大きなインパクトを残したのは、思想的、精神的な意味においてである。
 19世紀の独立以来、ラテン・アメリカの人々の心をとらえてきたのは、ナショナリズムであった。自分の国が、ラテン・アメリカの他の国々と同じ文化伝統に属することは承知しながらも、問題にするのは自国のことばかりであり、顧みる外国があるとすれば、それは欧米の先進国に限られていた。ところが、キューバ革命を契機に、人々はラテンアメリカ全体の問題を意識し、またその中に位置づけて自国を見るようになったのである。いいかえれば、ラテン・アメリカの人々は、はじめて一国ナショナリズムから脱却して、自己相対化することができるようにになったのである。

 

 


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