真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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GHQが日本でやったこと

2023年05月22日 | 国際・政治

 アメリカやウクライナからもたらされる情報を、何の検証もなく流し続ける日本のメディアの報道によって、現在の日本は、戦前の報道規制・言論統制があったときに近い状況に陥っているように思います。「大本営発表」が「アメリカ国防省・国務省発表」に変っただけのような・・・。

 それは、ウクライナ戦争に関わる松山千春氏の
殺し合いをやめらせるのが政治ではないか。武器を送ったら犠牲者が出るだけだ。その武器、おまけに戦闘機までくれというゼレンスキーは間違っている。喧嘩が始まったら誰かが仲裁に入り、早く終わらせるしかない。G7というならそこにプーチン大統領、ゼレンスキー大統領両方呼んで、我々が立会人、保証人になるから両方の言い分も聞くから先ずは銃をおけと呼びかけるべきではないか。ゼレンスキーだけ呼んでどうする」
とのツイートに対し、下記のような主張をする人が多いことでもわかると思います。

先に手を出して侵略しているのはロシアですよ 占領地域から撤退しないことには話が始まりません”
”既に当事者の一方が、大義もなく侵略を重ねている現状を鑑みるに、話し合いによる解決を図るには、一旦現状復旧が必要です。そのためには、損害を被っている側が一定反撃を行うほかはありません。現状で武器を置けというのは、先制攻撃を是認することになり、現時点の状況ではむしろ不適切です”
”核をちらつかせて一方的に領土を奪い取るロシアは侵略であって戦争では無い。争いを終わらせるには占領地を返して賠償金を払って核を放棄しなければならない。ゼレンスキーが武器を欲しがるのは侵略された領土の奪還とロシアをウクライナから追い出す手段なだけ。

 こうした主張をする人たちは、ウクライナ戦争の経緯や背景をきちんと理解するための情報がないために、アメリカのシナリオを疑うことができないのだと思います。
 現在の日本は、自分で情報を探したり、いろいろな事実を調べたりしないと、ウクライナ戦争に関する客観的な事実、特に、アメリカを中心とする西側諸国にとって不都合な事実を知ることは、ほとんどできない深刻な状況にあると感じます。

 それに加えて、ウクライナ戦争を主導するアメリカという国の戦略や、病的とも言える反共主義に基く対外政策や外交政策が、現実的にどのようなものであるかを知ることも難しい状況にあると思います。調べれば、いろいろあるのですが・・・。

 だから今回も、「日本の黒い霧」松本清張(文春文庫)から、「追放とレッド・パージ」の「」と「」を抜萃しました。それは、
追放されるべき軍人組がGHQの傭員になったばかりでなく、さきに第一番に追放を受けた特高関係の人間が、いつの間にか、彼らの側に採用されて息を吹き返していたのである。
というような文章でも、わかるのではないかと思います。


 共産主義者や社会主義者、また、天皇制に反対するような人を厳しく取り締まった特高警察、そして、鬼畜米英を煽り、国民に塗炭の苦しみを強いた戦争指導者等が、GHQによる民主化政策の公職追放を免れたばかりでなく、特権を与えられたり、厚遇さえされたりしたという事実は、ウクライナ戦争に関わるアメリカの表向きの主張の裏に、何かあるだろうと疑うきっかけを与えてくれるものではないかと思います。
 GHQは、”日本國國民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ擧ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ”という目的をもって日本を占領したにもかかわらず、現実には、ひそかに追放されるべき日本の戦争犯罪人と手を結んで、アメリカの覇権や利益の維持・拡大を進めたのです。”歴史課の仕事が対ソ作戦の情報資料を調整することにあったことは、ワイルズの指摘するところである”というような記述も、見逃せないと思います。

 アメリカの関わる戦争には、必ずと言っていいほど、こうした覇権や利益の維持・拡大を狙った目的があり、また、病的とも言える反共主義に基く戦略があるということです。
 
 だから、ウクライナ戦争に関しても、日常の報道を鵜呑みにすることなく、客観的事実を知ろうとする努力が必要であると思います。ロシアが一方的に侵略したなどというアメリカによるシナリオを疑う必要があると思うのです。

 日本は、アメリカの中露敵視の戦略に踊らされて、戦争の惨禍に目を向けることなく、ウクライナ軍を支援するような愚策を続けてはならないと思います。人命や人権を考慮すれば、松山氏の主張するように、先ず停戦であり、話合いだと思います。
 それを拒否しているのは、ヨーロッパ諸国に対するロシアの影響力拡大を阻止し、ロシアを孤立化させ、弱体化させたいアメリカだと思います。
 下記を読んで、危険なのは、中露ではなく、むしろ戦争や植民地支配で、搾取や収奪をくり返してきた欧米ではないか、と疑う視点を得てほしいと思います。

 下記は、「日本の黒い霧」松本清張(文春文庫)から、「追放とレッド・パージ」の「」と「」を抜萃しました。
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                       追放とレッド・パージ

   3
 追放名簿の作成は、はじめは全く政府の手で一方的に行われたのだが、21年6月から官制によって公職資格適否審査委員会が設けられ、政府とは独立したこの機関が審査に当った。委員長は美濃部達吉で、委員会は馬場恒吾、飯村一省、入間野武雄、谷村唯一郎、寺崎太郎、山形清によって構成された。追放が地方にも拡大されると、各地方にも審査委員会が設置された。また異論の申立てに対しては、別に公職資格訴願審査委員会を儲けて、沢田竹次郎ら7人の委員が任命された。
 この公職追放という形式による旧秩序の崩壊は、即ち新秩序の誕生というほどには円滑にいかなかった。それは謀略も懇請もあり、また幾つかの例外があった。が、しかし、「粛清」は、大体、GHQの思う通りに進んだようだった。 
 日本人の手によって以上二つの審査会が設けられたが、これは殆ど有名無実に等しかった。何となれば、指摘されそうな人物は、これらの日本人の委員に頼み込むよりも、直接、GHQに訴願したほうが手っ取り早いし、有効だったからである。そこで、自分たちは例外になろうとする必死の工作が随所で展開された。また、とうてい逃れることが出来ないと観念した数多くのグループの中でも、追放自体が間違っているという理論を打ち出すことによって、形式はともかくとして、実質的な追放を避けようとする凄じい巻き返しが行われた。当然、このためには、アメリカの利益となりうる存在を彼らに誇示すれば追放を免れ得る可能性はあったし、また裏取引としては、財宝の献納や、女性を近づけて親しくさせ、彼女らの口からとりなしを頼むという裏口工作もあった。
 追放を受けた連中は、一時は虚脱に陥ったが、間もなくアメリカの対日政策の本質を見抜いた。それには一つの覗き穴があったのである。  
「JCS(統合参謀本部)の命令を文字通りに守れば、当然追放される筈のそういった軍人の中に、二人の陸軍中将がいた。ヒトラー政権当時、ドイツの駐在武官をし、のち、マニラへ降伏使節団の団長としてやってきた河辺虎四郎と、陸軍情報部長だった有末精三である。二人とも英語はしゃべれなかったので、ドイツ語でウイロビーと話し合った。ウイロビーはドイツ生まれで、その名前は元フォン・ツェッペ・ウント・ワイデンバッハだった。
 マッカーサーに保護された三番目の軍人は服部卓四郎大佐で、元東条の秘書官で、参謀本部の作戦課長をしていた人物である。日本海軍軍人で保護された筆頭は、海軍を代表してマッカーサーの到着を出迎えた中村亀三郎中将と、海軍随一の戦略家と称されていた大前敏一大佐だった。このグループにアメリカ側の編集者として配置されていたクラーク・H・河上は、河辺、有末と一緒に働いている旧日本軍人およびその他の者も、この両名との毎日の接触に当って、元の彼らの軍の肩書をそのまま付けて呼ぶことを命令されていたと報告している。彼らほどには恵まれない他の日本人は、皇族も含めて普通人の地位に引きずり降ろされてしまった。当然、追放されるべき将校連が特権を与えられたばかりでなく、元ドイツに交換教授として派遣されていた荒木光太郎教授と、芸術家のその夫人は、二人とも戦争当時ドイツの外交官仲間と特に親しくしていたというので、一般日本人よりも特に厚遇を受けていた」(ワイルズ)
 この荒木光太郎は、画家荒木十畝(ジツボ)の子で、その夫人が、のち、郵船ビルで個室を与えられ、歴史の編纂に従事していたという荒木光子でる。光子がウイロビーの厚遇を受けて「郵船ビルの淀君」と噂されたのは、ケージスと親しかった子爵夫人鳥尾鶴代やその学習院グループの存在とは別のケースである。荒木夫人はその手腕をウイロビーに高く買われたが、鳥尾夫人の場合は愛情でケージスと結ばれた。楢橋渡は、鳥尾夫人を通じてケージスに働きかけ、追放を早く解除になった、と一般に信じられている。
 岩淵辰雄は語っている。
「『追放者を30万出せというなら出すが、それはほんとうに責任があって追放になるんじゃなくて、反省の機会を与えるんだ。だから、こういうものは一ぺん追放して、恰好がついたら、すぐ助ける方法を講じなくちゃいかぬ。それをアメリカがOKするなら、おれがやってやる』といった。吉田はすぐにマッカーサーのところへ行って相談した。すると、マッカーサーは、『それはおれのほうで初めから考えていたことだ、それを君のほうから言ってこないから黙っていたのだ』ということで、吉田は助ける機関として訴願委員会を作る、それと同時に有名無実になってしまった委員会の構成をかえて、公職資格適否審査委員会というものにしたんです。
 そこで、僕や加藤さんや、いま日本化薬社長の原安三郎さん、これらあと一緒に実際にやってみると、どうも変だ。つまり、吉田がマッカーサーに直接会って了解を得たということが、GSのケージスなんかにはおもしろくないんだね。それで、訴願委員会のほうがいくら人間の申請をしても、一向にアプルーヴ(許可)してこない。
 いよいよ22年の総選挙が始まって、僕らで楢橋を追放したら、そのとき初めて向こうから、『訴願委員会は何をしているんだ』といってきた。『楢橋は一週間以内に再審査して、選挙に間に合うようにしろ』というわけなんだが、それまで、訴願委員をアブルーヴしないんだ。僕らが委員会を作るまでにはそういういきさつがある」(『日本週報』31・4)
 無論、鳥尾夫人のような立場に縋(スガ)ったのは、楢橋だけではない。その効果はともかくとして、政財界の大物が必死の助命工作をおこなったのである。
 これらの軍人たちはどのような理由でGHQに仕事を与えられていたのか。司令部には「歴史課」というセクションがあって、戦史の編纂という名目になっていた。この仕事に当っていた服部卓四郎は云う。
「従来、いわゆるマッカーサー戦史の編纂をとかく政治的に取り扱っているが、決してそんな政治的なものではなく、ただ、こつこつと戦史資料を集めたにすぎなかったものである。人選にしても、戦争時代に永く陸海軍統帥部に職を持っていたような、戦史関係の事務を執るのに適当な人を選んだにすぎなかったと思う。ただ、戦史資料の蒐集についてわれわれが気持ちよく協力できたのは、ウイロビー将軍の友情、国は違っても軍人同士という相通ずる友情によるものだったと思う。これは今日でも私の感銘しているところである」
 またウイロビーは、そんな歴史が書かれていたことを後で否定した。しかし、これらの職員の本当の仕事の目的は、ソ連の活動についての諜報調整の仕事をしていたものと推測される。そのためには、戦前から対ソ作戦のベテランだったこれらの職業軍人が適任者であったことは云うまでもない。日本参謀本部は、シベリアから沿海州に至るまでの精密な地図や作戦計画を持っていた筈である。
 のちの「服部機関」の噂を考えればこれがうなずけよう。
 また、一部に信じられている噂によると、荒木夫人は、歴史課に勤めている時、他のグループと共に、例のゾルゲ事件の資料をウイロビーのために整えていたという。この資料がのちにウイロビーによってGSのニューディーラーたちをやっつける武器になったのを思い合わせると、(「革命を売る男・伊藤律」参照)これらの職員たちが「ウイロビー将軍の友情」を受けていた理由が分かるのである。この問題も、あとに関連して触れる。
 荒木夫人は魅力に富んだ、極めて頭のいい社交夫人で、政治的な野心を持ち、ドイツ人やイタリア人の外交官仲間に顔が売れていた。(註 荒木光太郎教授は、大戦前、交換教授としてドイツに行き、大島大使と親交があった)しかし、ウイロビーは彼女の誠実さに深い信頼をおいて、その助言を高く買っていた。自由に自分の事務所に出入りさせたばかりでなく、歴史編纂についての面倒な技術的、財政的責任まで彼女に任せていた。大急ぎで狩り集めたアメリカ人の一団を助けるために、ウイロビーはおよそ200名に達する日本人を雇い入れてそれを荒木教授の名目的監督下に置いた。これらの連中の15名は陸海軍の上級将校で、そのうち或る者は実際の作戦計画に参与していた人物であり、この多くは極めて枢要な地位にあった連中だった。これら郵船会社班は、その誰一人として歴史家ではなく、文筆家でもないのに、日本側の記録を搔き集めて公式の日本側の戦史を編もうというわけだった。彼らの仕事は秘密ということになっていて、世間に洩れることをひどく警戒していたのは、ウイロビーがニューヨーク・タイムズのフランク・クラックホーンに対して、そんな戦史は編纂されていない、と真っ向から否認したことでも分かった。(ワイルズ)
 否認したのは、当時、戦史編纂がマッカーサー個人の功績を顕彰すすためだという非難があったからである。
 服部卓四郎は、ともかく日本敗戦の原因を追及した『大東亜戦争史』全四巻を完成した。しかし、荒木班は、膨大な人員と予算と日月を要しながら、それが不出来だったという理由で一般の眼には触れずに終わった。歴史課の仕事が対ソ作戦の情報資料を調整することにあったことは、ワイルズの指摘するところである。

   4
 追放されるべき軍人組がGHQの傭員になったばかりでなく、さきに第一番に追放を受けた特高関係の人間が、いつの間にか、彼らの側に採用されて息を吹き返していたのである。
 マーク・ゲインは『ニッポン日記』では、彼が山形県酒田に行った時のことを書いている。
 ゲインが土地の署長と交わした会話は次の通りである。
「署長『私は単なる警察官で、特高警察のことは知りません。この警察にも特高係はありましたが、係長は県庁から来た人でした』ゲイン『その男はどうしましたか』『追放されました。9月23日のことでしたが、特高の連中は、みんな解職されました。』『その男は今どこに居ますか』『ほら、あの門のところに腰掛けている男がいるでしょう。アメリカの歩哨のそばに。あれが元特高係長ですよ。『で、あの男は何をしているんです、米軍の宿舎で?』『日本人と米軍との連絡係です。9月24日に、彼は任命されました』『他の特高の連中は?』『ここの警察には6人いましたが、3人は連絡事務所で米軍の仕事をしています』」
 同様なことは、ロバート・B・テクスターの『日本における失敗』の中にも出ている。
「1946年、私が働いていた県に接続する県のCIAの隊長は私に、彼が最も重要な任務を委任していいる彼の最も『貴重』な部下は、職業的テロリストの団体として世界的に有名な日本の秘密警察の元高級警察官だった、と云った。このCIA分隊の一隊員は、この元秘密警察官は県下に起る一切のことを知っている、と云って驚嘆していた。分隊長はこの有能な『日本人部下』の助力を得て、穏健なニューディール派占領軍職員の日本人との接触をさえ細心に見守っていた」
 GSが「追放」という武器を持っているのに対して、G2はCICという「諜報」武器を持って対抗した。従って、CICが下部傭員に情報活動に有能な元特高警察官を雇い入れたことは不思議ではない。ここにおいて、占領後最初に追放された特高組織がいつの間にかG2の下に付いて再組織されたのであった。

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