アメリカは、南朝鮮に反共主義の傀儡政権を誕生させ、支配下に置くために、警察や警察隊(軍予備組織)、右翼青年団などに、左翼狩りを行なわせながら、国連でアメリカ決議案を通し、南朝鮮単独選挙を強行させました。
その過程で、下記に抜萃したような「済州島事件(四・三事件)」や「麗水・順天の軍隊叛乱事件」など、さまざまな悲劇が起りました。
南朝鮮単独選挙に基く、大韓民国の樹立は、明らかに南北朝鮮一般市民の思いに反するものであったと思います。だから、左派や共商派のみならず、一般市民を巻き込む激しい抵抗がくり広げられることになったのであり、朝鮮の人たちにとっては、当然の抵抗だったように思います。
でも、李承晩を中心とする右翼勢力は、軍政庁の支援を得つつ、建国準備委員会の呼びかけに応じて活動をしていた人民委員会の関係者や同調する市民を逮捕したり、拷問したり、虐殺したりして弾圧を繰り返したといいます。だから、左派勢力も、警察を襲撃したり、山岳地帯でゲリラ戦を展開して抵抗したということです。
抵抗するゲリラたちが、自分たちが立ち上がった理由をアピールしたという文章が、「済州島 四・三蜂起」文京洙(新幹社)に取り上げられていました。
”敬愛する父母・兄弟のみなさん! 今日、4月3日、あなたがたの息子と娘、兄弟たちは、武器をもって立ち上がりました。私たちは、売国的単独選挙に死を賭して反対し、民族の解放、祖国の統一、独立の達成のために蜂起したのです。
私たちは、アメリカとその手下たちの蛮行を撃退し、彼らを滅ぼし、人民に対する彼らの殺人行為を阻止するために武器をとって決起しました。私たちはあなたがたの恨みをはらすために立ち上がったのです! あなたがたも、最後の勝利のために闘っている私たちを援護しなければなりません!”
アメリカの軍政が、どんなものであったかをよく示していると思います。
そして今なお、ウクライナ戦争は続いていますが、停戦・和解の話はほとんどありません。
先日の朝日新聞に、米国国家安全保障会議のカービー戦略広報担当調整官の話として、「ロシア軍2万人以上死亡」と題する記事が出ていました。ウクライナ軍の死者や補充の報道はほとんどありませんが、ロシア軍以上の死者が出ているのではないかと想像します。でも、ロシア軍の兵士だけで、「2万人以上死亡」と推測しながら、停戦・和解の話がまったくないのはどういうことなのかと思います。その記事は、”大半は十分な訓練も受けずに投入された元受刑者だとみている”というような推測も含んでいました。だから、ロシアを許してはいけないという思いを抱かせ、停戦・和解を拒否するような意識を持たせる意図があるのではないかと想像してしまいました。甚だしい人命軽視を感じるのです。
こういう記事を毎日、毎日目にしています。
だから、やはりアメリカやアメリカの影響下にある日本は、ウクライネ戦争によって、ロシアを孤立化、弱体化させようとしているように思います。
そういう意味で、過去のアメリカの対外政策や外交政策がどんなものであったのかをふり返ることは、ウクライナ戦争を客観的に理解するために、必要だろうと思っています。
下記は「朝鮮戦争 38度線の誕生と米ソ冷戦」孫栄健(総和社)から抜萃しました。
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第4章 南北政権の樹立と一般情勢
(三)
済州島騒乱
1948年8月15日に樹立された新大韓民国政府の内部も行政府と議会の対立が表面化しだし、その当初から波乱含みであったが、南朝鮮社会、新しく韓国社会となった朝鮮半島南部地域においても、社会情勢は激しく動揺し、左右両派の対立関係は一層拡大していた。
もともと新生韓国政府は、左派と民族主義右派のボイコットにも拘らず、アメリカの対ソ政策の為に、米軍政庁が警察、軍予備隊的組織による左翼狩りを大々的に行ないながら、5・10単独選挙を強行した結果生まれた。そして李承晩を中心とする一部右翼勢力による政権樹立が為された。
この単独政府の樹立は、いかなる形であれ左翼や革命分子とくにソ連の影響を恐れる保守派の指導者あるいは富裕層、日帝時代の旧悪の追求を恐れる階層の利益にはかなったが、しかし、市民の大半は、即時統一を強く欲していた。だが、南北朝鮮一般市民の拘らないところで決定された、南北分断する敵対政府の現実化、朝鮮の恒久的分断への不穏な状況を前にして、南北協商派のみならず、一般市民も巻き込む広範な、そして激しい抵抗が繰り広げられた。
それまでも南朝鮮(新韓国)の農村地帯の民衆は、解放後の数カ月は、それぞれが人民委員会を中心とする行政機構を組織し、それが米軍政庁の警察、軍予備組織、右翼青年団の弾圧のために、だが、潰されては組織するという事が続けられていた。この種の地方の自治組織に対して、アメリカ占領軍は、共産主義的・親ソ的だとして敵対的だった。右派勢力も、勿論、それを潰滅させようとした。
アメリカ軍の南朝鮮占領当初から一年間にわたる地方での弾圧の末に、ついに1946年秋には、南朝鮮地帯の相当広範な地域で、大規模な蜂起が起こっていた。その目的は、米軍政庁のホッジ中将が認めている通り、蜂起市民の主たる要求は人民委員会の復活であった。この米の収穫期の大決起が鎮圧されると、ソウルだけでなく、郡などの地方レベルでの国家権力の支配が強固になり、それまでの人民委員会の自治は、その後ほとんど不可能になった。だが、厳しい弾圧により、多数の死者、逮捕者収監が出たにも拘らず、以後も、この人民委員会支持勢力は強い勢力を秘かに保ち、また1947年には南朝鮮の左翼の大半は南朝鮮労働党の党員となっていた。この党は、南朝鮮独自の党だったが、慶尚道、全羅道出身者が多かった。その47年夏、そして秋と、激しい抵抗と、それへの逮捕、拷問、収監あるいは警察・軍予備隊による組織的弾圧、虐殺事件が続き、左派も山岳地帯でのゲリラ戦を行ない、その鎮圧掃討に軍・警察・右翼青年団が動員され、双方が銃火を交え、互いにテロと破壊を行う、左派と右派の衝突が果てしなく繰り返された。
そして、1948年の初めになって、南での単独選挙の実施が決まると、左派が根強い南西部(全羅道)および済州島において、単独選挙に反対する抵抗が、一気に激化した。
とくに激しい抵抗と弾圧の結果、その政治的対立による被害をこうむったのが、済州島であった。1948年初めまでこの島を自治支配していたのは、45年8月に結成された人民委員会だった。南朝鮮各道では既に政治的弾圧によって人民委員会組織は表だっては消滅し、そのメンバーも逮捕拘束されるか地下に潜行していたが、済州島は半島の南岸の沖に浮かぶ火山島であるため、まだソウルの米軍政庁、軍政警察、軍予備隊の圧力は緩かった。そのため、済州島の人民委員会への民衆の支持も固く、その影響力は強かった。ホッジ中将も済州島を「コミンテルンの影響を受けない人民委員会が秩序正しく支配する真の意味の自治体」と呼んだこともあったが、単独選挙反対の気運による政治的緊張が強い48年4月、島に派遣されていた警察と西北青年団(北朝鮮追放あるいは脱出者の反共右翼青年団)の島民虐殺事件を契機として、民衆蜂起が勃発した。
それは武装闘争の形になり、やがてゲリラ戦争に発展した。ゲリラは「人民軍」と呼ばれ、兵力は3000~4000だったが、統一的な中央司令部は無く、それぞれの地域のゲリラ部隊同士のつながりも無い発生的なものだった。彼等は山にこもり、沿岸道路や村々を襲撃し、48年6月初めには、島の内陸部の村のほとんどがゲリラに支配されるようになった。
これに対し、ソウルの政府組織は、その大半が日帝下の朝鮮人警察官や補助警察官だった警察部隊と、北から亡命してきた人間で組織されたテロリスト的な反共青年団を大量に送り込んだ。このアメリカ軍事顧問と共に派遣された警察、警察隊(軍予備隊)、武装右翼青年団は、島に恐怖政治を展開した。そのゲリラ掃討、徹底的な地域封鎖、壊滅作戦も厳しく、1949年4月までに島の家屋2万戸が破壊され、焼き払われ、全島民の三分の一にあたる10万人が、政府軍の守る海沿いの村々に収容された。この4月末のアメリカ大使館の報告では「全面的なゲリラ掃討作戦は、……4月に事実上完了した。島の秩序は回復した。ゲリラと同調者の殆どは殺されるか、捕虜になるか、転向した」と延べる。このアメリカ筋の資料では、死者は15000ないし2万だが、一般に33000とされている。その正確な数字は今日でも不明であり、あるいは島民の30万人の三分の一が失われたともされている。
(四) 麗水・順天の軍隊叛乱事件
そして、新韓国政府が誕生して10週間もたたない1948年10月1日夜、大きな社会的騒乱が発生した。すなわち、済州島の民衆暴動の討伐のために全羅南道の半島南端の麗水港に集結していた韓国軍第十四連隊が反乱を起した。その勢力は2500名とされ、同地方所在の反政府分子と合流して警察を襲い麗水から北上して10月20日、順天を占領し、さらに光州方面に向かうという韓国正規軍の組織的叛乱となった。麗水市民の多数が赤旗をふり、スローガンを叫んで市中を行進。10月20日の大衆集会で人民委員会の復活が宣言された。また、この叛乱は警察に対する民衆の反感にあおられて拡大し、叛乱部隊は麗水、順天において刑務所を開いて政治犯を釈放し、北朝鮮の旗をかかげ、人民裁判を
行って警察官、旧親日民族反乱分子、右翼政党団体の指導者など数百人を処刑した。また、これの鎮圧に向かった韓国軍第四連隊が、この叛乱部隊に同調して合流し、一層、事態は悪化する経過ともなった。
この叛乱部隊が討伐に向かう予定であった済州島の騒擾は、すでに同年48年4月初旬、南朝鮮の単独選挙に対する反対運動として大衆が蜂起して以来のものだった。同島ではかねて警察の権力乱用、西北青年団などの右翼青年団の越軌行為が極めて甚だしかったため、一般島民のこれに対する反感が強く、反政府感情を広く醸成させていた。そのため蜂起組織は、相当に島民の同情と支持を得ていたといわれた。韓国軍、警察はその鎮圧に努力した結果、済州島の治安は一時回復していた。だが、同48年秋の10月に至って再び騒擾が激化したため、政府軍の増援部隊が送られることになった。だが、その増援部隊内の左派分子は、麗水港で乗船を前にして、討伐の無意義を宣伝し、叛乱を起すよう扇動したのだった。
政府は直ちに戒厳令をしいた。さらに、軍、警察隊を派遣して反乱軍の北進を防ぎ、鎮圧に努めた。その結果、38度線に向かった叛乱部隊の主力は慶尚南道の智異山方面に逃げ込み、順天、宝城 筏橋、光陽、麗水などの叛乱部隊占領地区はやがて回復され、鎮静した。しかし麗水などにおいては、一般市民、婦人、子どもまでが武器をとり、政府の討伐軍に抵抗したといわれる。また、それを鎮圧する警察・韓国軍の一般民衆に対する行動には、相当に常軌を逸した行為が多発し、相当数の市民が死亡。警察・政府軍兵士は叛乱に協力した疑いが少しでもある者は、捕虜、民間人を問わずすべて射殺した。そのため、軍隊と一般民衆の間に、かなりの不安と恐怖のタネがまかれたとされた。
この叛乱事件は一週間後の10月27日までに鎮圧されたが、この武装蜂起事件が契機となって、済州島の暴動が再燃したのをはじめ、共産ゲリラの主根拠地である智異山を中心として、各地において民衆の暴動が発生するようになった。また、江原道の五台山地区においては、またゲリラ部隊が活動をはじめた。済州島の蜂起民衆は、依然討伐隊と対峙状態をつづけたが、その他の地区の暴動はもっぱら警察を襲撃し、部落の挑発を行う程度のものであった。
これら民衆、部隊叛乱は、北側の策動によるものというより、過去3年間の抑圧への反抗、社会正義の実現、旧親日分子の追放、単独政府反対等を求める自然発生的な暴動だった。