真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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アパルトヘイト犯罪条約採択に反対した米・英

2023年05月27日 | 国際・政治

  下記は、「APART-HEID 南ア・アパルトヘイト共和国」(大月書店)の著者、吉田ルイ子氏が南アフリカを訪れた時の、衝撃的な体験を記したプロローグです。
 アパルトヘイトという人種隔離政策のただなかにあった南アフリカという国の、恐るべき日常と吉田氏の驚きや苛立ちが、ひしひしと伝わってきます。

 当時の南アフリカでは、16%を占める白人が、84%の非白人を支配し、黒人は14%の国土に分離されていたといいます。そして、公共施設も白人用と非白人用に区別され、人種の違う男女の結婚が禁止されるなど、日常生活のあらゆる部分に、徹底した差別が存在したのです。
 今では信じがたい、そうした差別政策は、1990年代はじめまで続いていました。
 当然のことながら、南アフリカでは、少数の白人による支配やアパルトヘイトに基づく差別に対して、ずっと抵抗運動が続いていました。
 後に南アフリカ共和国の大統領となるネルソン・マンデラは、反アパルトヘイト運動でよく知られていますが、彼はアフリカ民族会議(ANC)の指導者の一人でした。1964年に国家反逆罪で終身刑の判決を受けたマンデラは、1990年、デクラーク大統領の政策によって釈放されるまで、27年間も獄中生活を送ったといいます。
 そうした少数白人支配のアパルトヘイトに対して、国連総会は、1952年以降、毎年非難決議を採択し続け、1966年には、アパルトヘイトは国連憲章および世界人権宣言と相容れない「人道に対する罪」であるとして、強く非難しました。 そして、1973年11月30日には、国連は、総会で人種差別を犯罪とし、その禁止、処罰を定めたアパルトヘイト犯罪条約を採択しました。その条約は、76年7月18日に発効したということですが、日本や西欧諸国は加入していないのです。
 同条約は、アパルトヘイトが、人種隔離・差別政策を含めて、ある人種集団による他の人種集団に対する支配、組織的抑圧の目的でなされてきた基本的人権と自由の侵害であるとしています。
 だから、締約国は、アパルトヘイトが人道に対する犯罪であり、国際法の諸原則、特に国連憲章に反し、国際の平和と安全に対する重大な脅威であること、そしてそれを犯す団体と個人も犯罪者であり、処罰のために立法、司法、行政の措置をとることなどを約束しなければならなかったのです。

 でも、日本や欧米諸国は加入しなかったのみならず、当時のイギリスのサッチャー首相や、アメリカのレーガン大統領は、アパルトヘイト犯罪条約の採択経済制裁に反対したということです。重大な問題だと思います。

 小田 英郎教授によると、アメリカが南部アフリカ地域に積極的に関わるようになった背景には、モザンビークで左翼政権が生まれたり、アンゴラの内戦で、アンゴラ解放人民運動(MPLA)が勝利するなどといった左傾化の動きがあったからだといいます。
 それは、アメリカを中心とする西側諸国が、共産勢力の拡大を阻止するために、アパルトヘイトを続ける南アフリカの政権を支える必要があったということだろうと思います。

 だから、南アフリカでも、アメリカを中心とする西側諸国は、日本を含めて、人命や人権よりも覇権や利益を優先したといってもよいと思います。こうしたアメリカの対外政策や外交政策を、私は、見過してはならないと思います。 
 

 イギリスフランスを中心とするヨーロッパ諸国は、アフリカ諸国を植民地とすることによって国力を高めた面があると思いますが、植民地であったアフリカ諸国、特にアンゴラの独立を支援したのはキューバであり、ソ連であり、東ドイツなどであったということも見逃してはならないと思います。

 少数白人政権と戦うマンデラの所属するアフリカ民族会議(ANC)に資金を提供し、国際連合で、アパルトヘイトを続ける南アフリカに対する経済制裁を提唱したのは、ソ連でした。
 したがって、ウクライナ戦争に関わって、南アフリカ共和国が、欧米から批判を受けてもなお中立主義をかかげて、ロシアに対する制裁に加わらず、また、中国との関係を維持・強化することも、何ら非難されることではなく、当然の流れだ思います。

 だから、歴史を踏まえれば、現在、問題なのは中国やロシアではなく、植民地支配によって国力を高めた西側諸国であり、特に、覇権が急激に失われつつあるアメリカではないかという視点で、ウクライナ戦争を見る必要があると思うのです。

 原爆投下に対するマンデラの演説 (https://twitter.com/i/status/1660386441778827266)は、アメリカの戦略や戦術をよく知る人の貴重な演説だと思います。

 下記は、「APART-HEID 南ア・アパルトヘイト共和国」吉田ルイ子(大月書店)の、プロローグ全文です。
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                      プロローグ

 ヨハネスブルグの昼間は、人種、国籍混合の国際近代都市だ。しかし、この高層建築が林立する「ガラスの動物園」も、午後5時を過ぎると、人っ子ひとりいなくなる。86年からつづく非常事態宣言のせいである。5時を過ぎると道路を歩いている黒人は尋問され、拘留されるという。外国人だって例外ではない。
 私は毎日標準レンズひとつをつけたカメラを肩に、ヨハネスブルグの街を歩いた。南アフリカの風にじかに触れ、土をじかに足の裏に感じたかった。そして人びとと接したかった。が、まだ明るいのに午後5時までにホテルにもどらなければならない。
 その日も、バス停、駅、公園、ショッピング街などを歩きまわって、5時前にホテルにもどってきた。その晩、ヨハネスブルグに住む南アフリカ人(イギリス系)の夫婦と夕食をともにする約束があった。彼らが5時前にホテルに迎えに来ることになっていた。部屋にもどり、顔を洗い服を着替えてもう一度ロビーにおりたが、彼らはまだきていなかった。車が来るのを外で待つことにしてホテルを出ると、そこに一人の黒人の少年がうずくまっているのをみつけた。入ってくるときにもその少年がいるのに気づいたが、そのとき彼は立っていたので、このホテルに家族が泊っている他のアフリカの国からきた子かと思っていたが、うずくまっている様子がどうも普通でない。
 私は近寄って声をかけた。
「どうしたの?」
 びっくりして顔をあげた彼の表情には明らかに何か心配なことがあるのがわかった。しばらくだまっていたが、やがて小さな声でいった。
「お兄ちゃんとお姉ちゃんがここに来るのを待っているんだけど」
 彼のとしは9歳、Tシャツ・Gパンの私より、彼のほうが身なりもきちんとして黒い革靴をはいている。17歳のおねえちゃんと13歳のお兄ちゃんといっしょに、クリスマスのショッピングにソウェトからヨハネスブルグに出て来た帰り、姉が突然、車で追いかけてきた数人の白人の子に路上でひったくられるように連れていかれた。それを兄さんが追っかけていったそうだ。
「それで、警察には知らせたの?」
「けいさつ?」
 彼は瞬間、けけんな表情をした。私は、彼の手をひっぱって、ホテルのマネージャーのところへ連れていった。この子があなたに何かしましたか? という表情で立っていたマネージャーは、私の説明を聞いているうちにナンダという表情に変わっていった。
「すぐ、警察へ電話してください。」と私がいうのを聞いて、
「警察ネー、でもこの子はカフィール(黒ん坊)ですからね」
 それを聞いて、私は思わずカッとなった。
「黒だろうと、白だろうと、黄色だろうと、ひとりの女の子の命にかかわる問題でしょう。さー、警察をよびなさい」
 私の見幕におどろいたマネージャーは、「まあ一応そういわれるなら、電話をしてみますが、来るかどうか、とにかく、この件は私たちにおまかせ下さい。旅行者のあなたはかかわらないで下さい」そういって彼は少年を奥のほうへ連れていった。
 そのとき、迎えの車がきて、車の中から友人が手招きしているのがみえた。
「私は一時間くらいでもどってくるから」。後ろ髪をひかれる思いで私は友人の車に向かった。
 夕食の招待もそこそこにホテルにもどった私はマネージャーをさがした。が、彼はもう帰っていなかった。少年もいなかった。キョロキョロうろうろしているのをみかねたのか、金モールのユニホームを着た黒人のドアマンが私にこういった。
「わたしもあの子のことをみていましたが、あんなことは日常茶飯事。そして、警察は、黒人のことなんか、殺すか、逮捕するかはしても助けてなんかくれませんよ」
 彼は大きなためいきをついて首を横に振るのだった。
結局警察は来なかった。少年はどこへいったのだろう。非常事態宣言下のヨハネスブルグの街中で、どうしているのだろう。ああ、やっぱりあのとき夕食にいくのをことわるべきだった。少年といっしょにいるべきだった。かといって私に何ができただろうか。
 私の狼狽ぶりをいかぶった友人が車の中で事情をたずねた。私の説明を聞いていた友人夫婦は、
「nothing we can do(どうしようもない)それがこの国の現実よ」といった。彼らは、アパルトヘイトに反対しているいわゆるリベラル派の人びとである。その彼らも、マネージャーと同じく、かかわるなというのだった。
 日本の警察も最近おかしくなってきたが、私たちは、少なくとも警察は一応法にもとづいて、殺人、窃盗、交通事故、火事などに必ずかかわるのが任務だと信じている。ところが、南アフリカでは、警察というものはソウェトの蜂起のテレビでみたように、黒人を殺したり、犬にかませたり、逮捕したりするために存在していても、決して黒人の側に立って協力してくれる存在ではないのだ。どうして私はあのときそのことに気づかなかったのか。なんという軽率な行為だったのだろう、と自分を責めても責めきれなかった。
 それにしても、あのとき、私は何をすべきだったのか、かかわらない、という以外に方法はなかったのか。南アに滞在中、そしていまも私の脳裏に少年のうずくまっていた姿が焼きついている。

 ただ黙って泣いている子の怒りは
 強い男の叫びより はげしく もっと苦しい   
           (エリザベス・バーレット・ブラウニング「子どもの叫び」より)

 nothing we can do ではなく、something we can do──何かできることがあるのでは?
これが、私がいまこうして私の小さな体験を本にすることによって、読んで下さる皆さんといっしょに考えたいことなのです。

 カフィール 
 南アフリカの公用語で、キリスト教信者以外の無神論者を指し、転じて黒人に対する蔑称「黒ん坊」を意味する。


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