真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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皇軍は、骨の髄まで、腐っていた(徳富蘇峰NO8)

2020年05月12日 | 国際・政治

 敗戦後、日本軍の実態が明らかになると、徳富蘇峰は、 
実に我が皇軍は、骨の髄まで、腐っていたではないかと、思わるる程の事が、随所から暴露されつつある。これ迄は一切臭い物に、蓋をしていたから、判らなかったが、その蓋の全部といわず、若干を取り除けたる爲めに、初めて皇軍の真面目なるものが判かって、実に言語道断であるという事を知った。
 ということで、”予はここに一大懺悔をする”と自らの過ちを認めます。
 私は、いろいろな事実が暴露されて仰天したのは、徳富蘇峰に限ったことではないと思います。だから、正しい情報が伝えられていれば、日本は、あんなに残酷で馬鹿げた戦争を続けることはなかったと思うのです。
 でも、徳富蘇峰の「敗戦の原因」に関する記述には、納得できません。徳富蘇峰は「敗戦の原因」について『頑蘇夢物語』一巻十~二十)でいろいろ論じていますが、「建国神話」を頭から信じているためか、全体的な歴史の流れを無視しており、末梢的な指摘にとどまっていると思います。

 徳富蘇峰は、「敗戦の原因(二)」で

敗戦の原因に立ち入りて吟味せんに、数え上ぐれば山ほどある。しかるにその主なる一は、戦争に一貫したる意思の無きことである。言い換うれば、全く統帥力無きことである。”として、”我が大東亜戦争は、誰れが主宰したか。それは申す迄もなく、大元帥陛下であることは多言を俟たぬ。しかも恐れながら今上陛下の御親裁と、明治天皇の御親裁とは、名に於て一であるが、実に於ては全く別物である。

 と昭和天皇の統帥力の欠如を、敗戦の原因の”主なる一”にあげています。

 もちろん、そういう側面はあるだろうと思いますが、私は、日本の敗戦は大東亜戦争のずっと前から決定づけられていたと思います。
 それは、姑息な手段を用いた尊王攘夷急進派による倒幕の戦いや、倒幕後豹変して進めた開国政策、また、西洋の法や立憲主義の政治体制に学びながら、市民的自由権のほとんどない「皇国日本」をつくりあげた政治、また、薩長を中心とする藩閥政治や要職独占による汚職とその隠蔽の動きのなかで、徐々に決定づけられていったように思います。「皇国日本」の思想は、偏狭で欲深く、普遍性を欠いていたため、”万古不易”などあり得なかったと思います。

 江戸時代後期の思想家、佐藤信淵の著書『宇内混同秘策』や、明治維新の精神的指導者といわれる吉田松陰の「幽囚録」が、あるべき「皇国日本」を指し示しているとして、戦前・戦中に高く評価されていたということですが、『宇内混同秘策』や「幽囚録」で示されたような考えで突っ走れば、日本の敗戦はさけられなかったと思います。  

 2018年、大相撲の巡業の際、土俵上で倒れた市長の救命処置のため土俵にあがった看護師の女性に対し、相撲協会の関係者が、土俵から下りるように場内放送で促したことが問題視されました。古来より相撲は神事と深い関係を有していたとのことですが、特に、江戸中期以降の大相撲は、神道の影響を強く受けるようになったといいます。そして、「土俵は神聖なる場所」であるため、「穢れ」の対象である女性は土俵に上がれないというわけです。人命よりも、神道の「穢れ」の考え方を優先する場内放送は、当然のことながら議論を呼びました。差別的で、人命尊重の近代法の考え方と相容れないからだと思います。

 同じように、幕末の尊王攘夷急進派は、「異人は神州を汚す」として、開国政策を進める幕府を非難し、攘夷を掲げて倒幕の運動を展開したのです。そして、いわゆる「異人斬り」をくり返しました。「穢れ」の観念は、「神道」特有のものではないかも知れませんが、女性や外国人など「人」を「穢れ」の対象とするのは、近代法とは相容れないものだと思います。
 見逃せないのは、倒幕に成功し、権力を手にした尊王攘夷急進派が、すぐに「攘夷」を捨てて開国に転じ、なおかつ「建国神話」に基づく「皇室神道」を土台とする「皇国日本」をつくったことです。

 すでに、”日本武人として”あるまじき戦争指導者(徳富蘇峰NO5)” で取り上げましたが、徳富蘇峰は、『頑蘇夢物語』三巻「四十二 驚くべき日本上下の急豹変」で
昨日まで熱心なる米英撃滅の仲間であり、甚だしきは、その急先鋒であったとも思わるる人々が、一夜の内に豹変して、忽ち米英礼讃者となり、古事記一点張りの人々が、民主主義の説法者となり、戦争一本建ての人が、直ちに平和文明の主張者となったる者の多さには、流石にその機敏快速なる豹変ぶりに、驚かざるを得ざるものがある。
 と書いていました。
 「攘夷」を訴えて幕府を倒し、倒幕後「開国」に転じた尊王攘夷急進派も、負けず劣らず、”急豹変”していると思います。にもかかわらず、「建国神話」に基づく「皇室神道」を土台として「皇国日本」をつくっているのですから、”一貫したる意思の無きこと”は、「皇国日本」のスタート時点で、すでに始まっていたと言えるのではないかと思います。

 ”一貫したる意思の無きこと”で思い出すことがいくつかあります。
 幕末、尊王攘夷急進派の指導者、薩摩藩の西郷隆盛や公家の岩倉具視は、倒幕のため、相楽総三を隊長とする赤報隊の結成を支援しました。そして、幕府軍を追い詰め、挑発するため、「年貢半減」を宣伝し、民衆の支持を得つつ、江戸を攪乱させる作戦を展開させて、鳥羽・伏見の戦いのきっかけをつくらせたといいます。しかしながら、その後「年貢半減」ができないために、赤報隊結成を支援し、作戦を指示した人たちは、相楽総三をはじめとする赤報隊の隊士に「にせ官軍」の汚名を着せ、弁解の機会さえ与えず、処刑したといいます。ひどい話だと思います。
 したがって、そうした ”一貫したる意思”のない、犯罪的ともいえる作戦を平然と実行した尊王攘夷急進派による政治が、いずれ行き詰まることは避けられなかったのではないかと、私は思うのです。

 さらに、官軍が江戸城への入城をはたした後、有馬籐太が西郷隆盛(吉之助)に、
さて、いよいよこんどは攘夷ですね
と意気込んでいうと、
そうか、お前にはまだ言ってなかったな。攘夷というのはな、ほんとうは幕府を倒すためのただの方便だったのよ
 と、実にあっさりと言ってのけた…、

 というような話の中にも、 ”一貫したる意思”がなく、いずれ行き詰まる必然性を感じさせるものがあるのではないかと思います。

 また、そんな尊王攘夷急進派が権力を手にし、”天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念”を持って、膨張政策を進めたわけですから、近代法に基づく国家を形成しつつあった国々と友好関係を築くことは難しく、遅かれ早かれ多くの国を敵にして、滅びざるを得ない運命であったと思うのです。

 下記は、「徳富蘇峰 終戦後日記 『頑蘇夢物語』」(講談社)から『頑蘇夢物語』三巻の「五十九 予の一大懺悔」を抜粋しました。
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                      五十九 予の一大懺悔

 予はここに一大懺悔をする。それは我が皇軍を買被っていた事である。正直のところ、皇軍が、我等の理想とする皇軍と、事実に於て、大(オオイ)に反対する点、若しくは及ばざる点、存在する事は、当初から全く気が付かぬではなかった。予は相当に世間一体の市価よりも、割引して、皇軍を買っていた。しかし乍ら、これ程迄とは思わなかった。
”一言にしていえば、我が皇軍の中堅たる人々は、その若干の除外例を除けば、職業軍人となり、全く軍職を以て、一種の職業と心得ていた。世間で流行したる「醜(シコ)の御楯」などという言句は、ただ文句だけの事であって、彼等の心持ちは、ただ、軍職を商売として、一身の功名富貴を得れば足ると、心得ていた。それならば、日本の軍人も、米国の軍人も、その心得方は同一である。この上はただ問題は、何れが職業に熱心にして、能率をよく挙ぐるかという事である。しかるに彼等は、職業と心得ながらも、その職業に極めて不熱心にして、不勉強にして、規律もなく、節制もなく、ただ上に諂(ヘツ)い、下に奢(オゴ)り、その軍職を武器として、自己の私利私欲を、随所に恣(ホシイママ)にするに過ぎなかったのである。かくては日本の将校が、敵国の将校ほどの働きを、為し得なかった事も、これ亦已むを得ぬ次第である。少なくとも、敵国の将校は、職業的熱心と、職業的責任感あったが、日本の軍人は、その熱心と責任感さえも、殆ど失墜し去った。これではとても勝負にならぬ話である。彼等は立体的に、上に諂い、下に奢るばかりでなく、水平的に、軍人以外の者に対して、頗る増上慢(ゾウジョウマン)の態度を示し、国民をして、その疾苦に泣かしめた。彼等の一個一個は、悉く皆国民に対する、一個の暴君的存在であった。今日に於て、国民の多数を挙げて、軍閥を攻撃するに至りたるは、必ずしも米国の進駐軍に対しての、迎合ばかりでなく、多年鬱屈したる憤慨が、ここに至って爆発したるものと、見るべきであろう。自分は日本の正気は、既に政治家を去って、軍部に移った。軍部には、共に国事を談ずる同志があるだろうと、信じていたが、豈料(アニハカ)らんや、彼等は政党者流と選ぶ所なきのみならず、政党者流の持たざる、軍刀の威を借りて、より以上の悪事醜行を恣(ホシイママ)にし、その結果は、遂に勝つべき戦争をも、失敗に導き来ったのである。而してこれに向って、彼等はただ漫然と、責は国民に在り、我等はただ我等の依託せられたる、範囲内の仕事を、したるに過ぎない。その以上は、国民の責であるという如く、恰も日傭取(ヒヨウトリ)が、する丈(ダ)けの仕事をしたから、後の事は一切雇主に、責を投げかけたと同様の、態度をとっていることは、昔の言葉を以ていえば、正さに武士の風上にも置けぬ代物といわねばならぬ。
 この頃、以上の観察を証拠立つべき事例として、近刊の新聞から、左の二項を摘載する。

 司令は妾を連れ込み
 副官”横流し”に狂奔
 大東亜戦争に天王山が幾つもあった。しかし天王山はそんなに幾つもあるものではないが、軍が国民を欺瞞しその戦意を継なぐ方便に次々と天王山をでっち上げたに過ぎない。大東亜戦争の真の天王山はガダルカナル転進以来の彼我戦略態勢からみてどうしても比島にあったことは疑う余地はなかった。しかもマッカーサー元帥は比島脱出のとき「余は必ず比島に帰来するだろう」と言明して行った。比島人は総てこの言葉を真実なものとして秘かに米軍の再来を鶴首していたにも拘わらず、当の比島は米比軍の戡定(カンテイ)作戦が終了して以来約二年というものは全く桃源の夢をむさぼり防衛らしい防備一つ施さず無為にその日を暮らしていたのである。【元マニラ支局員 松原弘興】

  記者が十九年二月に比島に赴任した当時既に米軍はマキン・タラワを奪取しマーシャル群島に猛襲を加え、一直線に比島に進撃すべき態勢を益々明瞭にしていたのに、マニラ海岸通りブルバードには瀟洒な喫茶料理店が並び、戦前通り着飾った男女がアイスクリームのテーブルを囲みマニラ湾を眺め電蓄から流れ出るメロディに聞き入っていた。
 享楽街マビニイには夜毎酔っぱらいの軍人軍属が蛮声をはり上げて喚き廻っていた。繁華街エスコタルの映画館では米国映画の甘いラブシーンに日本人も比島人も恍惚としていた。どこを見ても再び忍び寄らんとする戦争の気配は見受けられなかった。敵はまだニューギニアやギルバートでまごついているではないかというのが比島にいる軍人、軍属、民間人ほとんど総ての時局観であった。
 軍人はマニラ妻をかかえて淫楽にふけっていた。マニラに居残る「メスティサー」(比島人とスペイン人の混血娘)は殆ど総て日本人に追いかけ廻され、彼等もまた生活の為に日本人に従っていた。日本人は好んで米国製の派手やかな衣服を身につけて毎夜の逢曳きや宴会を楽しんでいた。軍人さえも純白のシューツに身をやつし高級車を飛ばして兵站料亭の酒宴に乗込んだ。軍司令部では前夜の呑み過ぎにぼんやりと机に向かっている軍人が多かった。ひしひしと迫り来る砲煙の臭いに幾分気を焦らだたしていたが、長い習性でいままでの習慣を打ち破ることは出来ない様子であった。
 軍司令官は(当時黒田中将)毎日のようにゴルフに耽っていた。グルフ行には必ず幾名かの憲兵が護衛に付いて行かねばならなかった。仕事そっちのけにしても一日中暑いゴルフ場上に起たされるのは全く嫌になるというのは護衛憲兵の偽らざる告白であった。
 また司令官はサイゴンから軍用機でお妾をつれてきたという噂も伝わった。司令官副官は享楽に耽るため偕行社の物品を司令官の名前で買入れ盛んに横流していた。上の空気は当然下にも反映していた。数々の醜聞が我々の耳に入った。          (後略・昭和20年10月27日)

 わが軍と別れて
 地獄脱出の思い
 船中で聴く”比島暴状”
 さきにマックアーサー司令部から発表された「比島における日本兵の暴行」を読んで驚愕し、かつ骨肉から裏切られたような激しい憤りと悲嘆を感じなかったものはあるまい。記者は比島残留の邦人婦女子を迎える艦艇によって比島に赴き、比島人の対日感情を見、引き揚婦女子が語る同胞日本兵の暴状を聴いて、二重に悲痛なるものを覚えたのである。われわれの引揚邦人をむかえる海防艦マニラ港の岸壁に横づけにされたとき黒山のように比島人が押寄せて来た。そして口々に「コラ」「ドロボウ」「コノヤロウ」と罵声の言葉を投げるのだ。彼らはその言葉の卑しさをよく知っているのだ。マニラ埠頭に陽は明るくともわれらには暗い民族的な汚辱をさえ感ずるのであった。また記者は引揚婦女子の久米某という従軍看護婦からつぎのような話を聞いた。
 山へ逃げ込んでからというもの栄養失調やマラリア、アミーバー赤痢で物を運ぶのに苦しくなった日本兵は、まず武器、弾薬を棄てた。しまいには病人に絶対必要な衛生機材までも棄てた。一般居留民はもちろん私たち軍属にさえ、一粒の米すら与えられなかった。私たちは、将校から「お前まだ死なんのか」などといわれた。悪疫におかされて死んだ兵隊の死体はそのまま山道に置去りにされた。将校と兵との精神的なつながりは全くなくなって、各人は各人の力で生きて行かなければならなかった。リンガエンから上陸した米軍が、破竹の勢いでマニラに進撃するのを知った日本兵は、奥地への道すがら比島人の女を手当たり次第掻ッさらった。山では行を共にした日本将校に身体を要求された軍属の日本婦人もあった。食を貰い生きるためには致し方なかった。マニラ市を逃げるとき日本兵は市民の家に石油をかけ米や缶詰を奪ったが、この野蛮さは奥地へ入ってからますます露骨になるばかりだった。終戦とともに米軍収容所に送られた私達はほんとに心からホッとし、地獄から救われたような気持ちであった。
                      (湯浅記者・「朝日新聞」昭和20年10月30日)
                      (昭和20年10月31日午前、双宜荘にて)

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