戦後も、戦時中の考えを変えなかった徳富蘇峰は、”昨日まで熱心なる米英撃滅の仲間であり、甚だしきは、その急先鋒であったとも思わるる人々が、一夜の内に豹変して、忽ち米英礼讃者となり、古事記一点張りの人々が、民主主義の説法者となり、戦争一本建ての人が、直ちに平和文明の主張者となったる者の多さには、流石にその機敏快速なる豹変ぶりに、驚かざるを得ざるものがある。”と嘆くばかりで、”米英撃滅”や”古事記一点張り”や”戦争一本建て”の思想の中身そのものは問うていません。私は、そこに問題があるのだと思います。
徳富蘇峰は、単なるお話に過ぎない「建国神話」を、頭から歴史的事実として信じていたので、戦後、考えを変えた人たちのことを、客観的にとらえることができなかったのではないかと想像します。
ただ、彼の主張が重要なのは、”米英撃滅”や”古事記一点張り”や”戦争一本建て”の思想を持って、”最も年齢の若き者、最も地位の低き者を 十二分に、若くは十五分に煽り立て、死地に就かしめ”た戦争の指導者たちが、自らの問題になると簡単に考えを変え、”豹変”したという事実を語っていることです。
戦争指導者たちは、戦時中の自らの言動を何ら詫びることをせず、戦後、GHQの統治下で民主化される日本を”平気で見送り”ました。見送ったばかりでなく、大日本帝国憲法下で作られた恩給法、特にGHQによって廃止された軍人恩給を、日本国憲法公布後の日本に復活させ”恩給生活を継続”しました。徳富蘇峰が、そうした戦争指導者は、”実に日本武人として、この上なき不面目の至り”であるというのは、当然のことだと思います。全く一貫性のない”裏切り者”ともいえる人たちだと思います。
GHQは恩給法廃止に当たって、”惨憺たる窮境をもたらした最大の責任者たる軍国主義者が…極めて特権的な取扱いを受けるが如き制度は廃止されなければならない”と指摘しましたが、軍人恩給は、まさに大日本帝国憲法下の「天皇の軍隊」の約束で、その支給金額も、原則として当時の階級に応じたものになっています。戦後も戦時中の考え方で、軍人恩給が支給されているのです。
だから、私は、大きな戦争責任を負うべき人ほど多額の恩給を受領している日本の戦後政治の問題は、徳富蘇峰の指摘が間違っていないことを示していると思います。そうした”日本武人”としてあるまじき戦争指導者が、戦後、公職追放を解除されて復帰し、再び日本の指導者として狡賢く動き、現在に至っていることは、私にも受け入れ難いことです。
だから、徳富蘇峰は、なぜ多くの人たちが豹変したのか、ということに向き合い、”米英撃滅”や”古事記一点張り”や”戦争一本建て”の思想の中身を疑い考え直すべきだったと思います。私は、”米英撃滅”や”古事記一点張り”や”戦争一本建て”の思想は、”天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ス”というような”架空の観念”、言い換えれば自らにつごうのよい幻想に由来するものだと思います。そしてそれは、単なる”お話”である「建国神話」を、無理矢理歴史的事実としたところに問題の本質があるのだと思います。そこをきちんと見つめ直すことが、戦後の日本では、何にもまして大事だと思います。
戦争指導者の”豹変”は、彼等が根本的に狡賢い人間であっただけでなく、その思想が、事実ではなく、建国神話に基づく”架空の観念”=幻想であったため、簡単に修正したり、戦後の社会に適応させたり、捨て去ったりすることができた結果ではないかと思います。
そして、見逃せないのが、”米英撃滅”や”古事記一点張り”や”戦争一本建て”の思想が、いろいろなかたちで、戦後も生きていることです。「皇国史観の教祖」といわれる平泉澄は、徳富蘇峰が会長を務めた「大日本言論報国会」に属していたようですが、戦後も皇国史観を説き続けました。また、徳富蘇峰が長い年月を費やし完成させた『近世日本国民史』全100巻の膨大な史書の校訂は平泉澄によるといいます(全巻の刊行は没後の1963年)。
”天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ス”というような”架空の観念”に基づく皇国史観が、決して過去のものになっていないことは、憲法改正の動きや、文化の日を明治の日のに変えようとする動き、また、歴史教科書の記述や靖国神社の議論などでも明らかではないかと思います。
また、国有地を鑑定額よりはるかに安く取得したことで問題になった森友学園では、園児に「教育勅語」を朗読させていました。教育勅語は、天皇が万世一系の天照大神の子孫であるという皇国史観に基づいており、明治天皇の勅語として、1890年に発布されていた以来、国民道徳の絶対的基準・教育活動の最高原理として、「軍人勅諭」とともに軍国日本を支える重要な役割を担っていたものです。したがって、主権在民を定めた日本国憲法と相容れず、1948年の国会で無効確認の決議が行われています。
その教育勅語を園児に暗誦させるばかりでなく、森友学園の籠池理事長は、伊勢神宮への参拝をさせたり、自衛隊の記念式典で園児らに日の丸や旭日旗を振らせたりする"愛国教育"を行っていたといいます。
なんと、その森友学園の籠池理事長が、大阪府豊中市に新たに開校しようとした「瑞穂の國記念小學院」は、当初、小学校の認可申請先だった大阪府に対し、校名を「安倍晋三記念小学校」と説明していたことも明らかにされました。驚くべきことです。おまけに、その学校の名誉校長が安倍昭恵氏であったことも明らかにされています。日本国憲法下では、あったはならないことだと思います。
さらに、安倍首相が属する超党派の議員連盟”創生「日本」”の”東京研修会”で、第一次安倍内閣の時の長勢法務大臣が、「国民主権、基本的人権、平和主義、これをなくさなければ本当の自主憲法ではないんですよ」などと発言している映像を、今もユーチューブで見ることが出来ますが、こうしたとんでもない発言も、全体の流れをみると不思議ではないような気がします。
私は、安倍総理はもちろん、政権を支えてきた多くの人たちが、そうした考え方を共有しているのではないかと思います。
徳富蘇峰は、戦争指導者の”豹変”やそれを許した国民、さらには天皇の責任にも言及し、”元来日本人は、果たしてその性、即ち国民性として、かかる軽薄浮動の性格の持主であるや、将(マ)た明治以来悪教育の結果、ここに到ったものであるか、その点については、ここに何とも断言出来ない”と書いていますが、私は、明らかに”明治以来悪教育の結果”であると思います。嘘と脅しとテロによって明治維新を成し遂げた長州を中心とする尊王攘夷急進派がつくり上げた皇国日本の教育は、狡賢い指導者が、国民を都合よく利用するためのものであったと思っています。
また、”近き例を挙ぐるが、若し日本から皇室を取り除けたとしたら、陸海軍の所謂る特攻兵の如きは、今後決して出で来るべき見込みはあるまい”とも書いていますが、これは、明治以来の日本の支配層にとって、天皇が、この上ない利用価値のある存在であったことを示していると思います。天皇を抱き込めば、何でもできるということです。”下級の者が上官の命令を承ること、実は直ちに朕が命令を承ることと心得よ(軍人勅諭)”ということで、「特攻」のような理不尽な命令も押し通すことが出来るからです。
それは、長州藩の木戸孝允が、大久保に宛てた文書の中に”禁闕奉護の処、実に大事の事にて、玉(天皇を指す隠語)を奪われ候ては、実に致し方なき事と、はなはだ懸念、かえすがえすも、手抜かりはこれ無き筈ながら、別して、入念に候様…”などと、「玉」を手中にすることに深い関心を示す一節があるということからもわかるのではないかと思います。天皇の政治利用は、尊王攘夷急進派による武力討幕から始まったと言えるのです。
下記は、「徳富蘇峰 終戦後日記 『頑蘇夢物語』」(講談社)から『頑蘇夢物語』三巻の「四十二 驚くべき日本上下の急豹変」を抜粋しました
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『頑蘇夢物語』三巻
四十二 驚くべき日本上下の急豹変
予(カネ)て戦争反対とか、当初より看板かかげた敗戦論者とか、また所謂る自由主義者とか、社会主義者とか、共産主義者とかが、この際時を得顔に顔を出すは当然の事で、幣原や吉田などが、我が世の如く振舞いたりとて、我等は別に意外とは思わぬ。ただ昨日まで熱心なる米英撃滅の仲間であり、甚だしきは、その急先鋒であったとも思わるる人々が、一夜の内に豹変して、忽ち米英礼讃者となり、
古事記一点張りの人々が、民主主義の説法者となり、戦争一本建ての人が、直ちに平和文明の主張者となったる者の多さには、流石にその機敏快速なる豹変ぶりに、驚かざるを得ざるものがある。何れの世、何れの時でも、雷同詭随(ライドウキズイ)は存在するものと思うていたが、しかも今日程それが著しく目についた例(タメ)しは、未だ曾(カツ)て認めない。これを見ても、如何に日本人が、少なくとも現在の日本人が、堅実性を欠いていた事が判かる。即ち何事も、その時その時の調子で、始終、足は地に着かず、、ただ当座々々の調子や気分やで、動くものである事が、証拠たてらるる。これは必ずしも国民の各層ばかりでなく、戦争専門の軍人も、行政専門の役人も、皆なその通りであったと見て差支あるまい。つまりこの戦争も、前後の見通しもつかず、大なる決心もなければ、覚悟もなく、風の吹き廻しで、舟を乗り出したものであって、予めその到着すべき港さえ定まらず、否なその向う方向さえも定めていなかった事が、思いやられる。
自ら戦争の元締めとなる人々が、かかる浮足であるから、国民も同時にその通りであったと見ても致方あるまい。恐れ乍ら大元帥陛下も、今日では万事東條がやったように仰せらるるが、宣戦詔勅の御発表になった前後に於ては、まさか一切御承知ないということでもなく、また必ずしも御反対でああらせられたとは、拝察できない。若し御反対であれせられたとしたならば、かかる詔書に御名御璽の据わるべき筈はない。宣戦媾和の大権は、至尊の大権中の重なる一である。まさかそれを御忘却あらせられたとは、拝察出来ない。
元来日本人は、果たしてその性、即ち国民性として、かかる軽薄浮動の性格の持主であるや、将(マ)た明治以来悪教育の結果、ここに到ったものであるか、その点については、ここに何とも断言出来ない。ただ現在の日本の国民性として、この浮足である事だけは、隠すことも出来ねば、また拭い消すことも出来ない、我が国民の自ら暴露したる、大なる欠陥といわねばならぬ。
今日頻りに彼等は、日本の民主化を唱えているが、果たして心からかく信じているのであるか。また一切の武力を持たぬ無腰無刀の国家として、世界の文化に貢献するなどという事を、盛んに唱えているが、果たして真面目にかく信じているか。武力を除外して、文化のみにて、世界に立つ事が出来得るものであるか。少しく歴史の事実に徴して見ても、それは明白である。ギリシャの文化は、泰西文化の根源といわれているが、ギリシャは果たして無腰無刀、赤手空拳の国民であったか。スパルタが徹頭徹尾武国であった事は、いうまでもない。ギリシャの文化の眼目といわれたるアテネ如きも、決して武を除外したる国ではなかった。テミストクレスよりペリクレスに至るまで、何れもその武勲は赫々たるものがあった。支那に於ても、その文化の最も発達したる時代は、漢と唐であるが、漢と唐は支那に於て、その武力の最も発展したる時代であった。武力を除外したる文化国というものが、果たして出来得べしとすれば、それは今後に於ける、新たなる試験というの外はあるまい。ここ迄には世界の歴史に、左様な例は、絶対に無かったということが出来る。しかるにかかる事を、平気で、朝飯前の仕事の如く、言い做(ナ)している日本の有識階級は、実に驚き入たる肝玉の持ち主といわねばならぬ。これは大胆でもなければ、豪胆でもない。全く彼等の軽佻浮薄の浮動性が、彼等を駆りて、ここに到らしめたるものというの外はあるまい。
昨日までは現津神(アキツカミ)として、君主に対して、上奏するさえも、不敬などといい、忠諫などは、全く臣道実践の敵であるかの如くいい做したる彼等が、今日では、平気で皇室制度の改正などという事をいっているは、我等が全く了解出来ない点であるが、しかしこの了解出来ない点が、平気で世の中に行われ、何人もこれに向って、疑問さえ挟む者これ無きは、これ亦実に驚き入たる現象といわねばならぬ。
日本の帝室は、いわばサムソンの髪毛である。その毛髪がある間は、天下無敵の大力者であったが、髪を剪られた後は、その神通自在力を失うた。若し日本に皇室が存在を絶ち、存在しても、絶った同様の地位に立たしめ給うような事が、あったとしたならば、日本は支那と択(エラ)ぶ所なく、朝鮮と択ぶ所なく、ソ連と択ぶ所なく、米英と択ぶ所なきは当然である。彼等は本来皇室を持たぬものであるから、持たぬからとて、彼等は毛髪一本損をしたのではない。しかるに我れは世界無比の皇室を持って居り、それが為めにここ迄の日本であったが、それを失うた日に於ては、彼等は何も失うた事は無く、我はその自己存在の一大理由、即ち日本精神の一大淵源を失うた事になるから、その損失の多大である事は、判りきった事である。即今米国が、若しくは、その他の聯合国が、ややもすれば我が皇室制度に手を着けんとするは、日本の急所が爰に在ることを知っている為めである。それ程迄に皇室は、日本にとっては重大なものである。しかるに現在の日本人が、それを打忘れ、鸚鵡返(オウムガエ)しに、日本民主化のみを高調するが如きは、余りにも浅薄なる考えであるといわねばならぬ。
仮りに日本から皇室を取り除き、アメリカ流の個人主義一点張りで、国を建てたとする時には、日本の前途は果たして如何になるべきと思うや。彼等は兎にも角にも、立国以来というよりも、その以前から、自由主義の訓練に慣れている。個人主義の使用方法にも熟している。それで彼等としては、その能率を相当に挙げている。しかるに我国に於ては、昨日剃ったも今道心(イマドウシン)で、急にアメリカ流に転向したとて、その日から直ちにアメリカ人同様になり得る気遣いはない。揚句は所謂る虻蜂取らずで、ただ他人の真似を為して、後から跟(ツ)いて廻るというに過ぎぬであろう。その積りならば、自ら日本を布哇(ハワイ)や比律賓(フィリピン)と同様の地位に置く覚悟をするの外はあるまい。それについても面白い話がある。明治二十年、予が「国民之友」を発刊当時、予の先輩である某学者は、「国民之友」の特別寄書家の一人として、日本はむしろこの際、思い切ってアメリカ合衆国に合併し、合衆国の一州として立つ方が、総ての点に於て便利であろうという論を寄せ来った。当時は言論自由といわんより、無制限の時代であって、現に田口卯吉氏が「国を建るの価は幾何ぞ」という論文さえも掲載して、誰一人苦情をいう者なき時代であったから、恐らく差支はあるまいと思うたが、予自身としては、如何に方言高論でも、日本をアメリカの一州となすなどとは、余りに甚だしいからと考え、それを掲載せずして済ませたことがある。しかるに今日この頃は、巡り巡って、また殆どこの論が、文句では同一ではないが、その精神では、相異なる所なきものを、聞くに至った事は、長生きすれば、随分世の中には、珍らしき事に逢着するものと、自分ながら聊か以外の感をなしている。
近き例を挙ぐるが、若し日本から皇室を取り除けたとしたら、陸海軍の所謂る特攻兵の如きは、今後決して出で来るべき見込みはあるまい。我が将官連中には、如何がわしい者もあり、また軍の中堅所には、甚だ不感服の徒輩も少なくなかったが、その中で陸海軍の光となったのは、この特攻隊である。しかも彼等は、何が為めに、青春妙齢の花盛かりを、欣然として死に赴いたかというに、それはただ大元帥陛下の御爲めという一点であった。「天皇陛下万歳」が、彼等にとっては、生命の糧といわんよりも、生命そのものであった。しかるに彼等から、天皇陛下を取り去る時に於ては、彼等も亦た人間である。命の惜しいことは当たり前だ。今後は彼等の前に、何人が頓首百拝しても、若くは如何なる鞭撻を、彼等に加えても、美酒や美人を御馳走しても、断じて彼等の心を動かすことは出来まい。日本から皇室を取り去れば、全く仏から魂を抜いたと同様なものである。その事を知らずして、今更事珍しく、民主的国家の新造などを、目論むという事は、浮薄性もここに至って極まれりといわねばならぬ。