真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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シベリア出兵=シベリア戦争 目的の表と裏

2019年10月30日 | 国際・政治

 「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分で シベリアに派遣された日本軍は7万数千人の規模であったといいます。それは日本では「シベリア出兵」という言葉でよく知られていますが、その内容はあまり知られておらず、くり返してはならない問題もほとんど確認されてこなかったように思います。

 でも、「シベリア出兵」は、単に軍を派遣しただけではなく「戦争」でした。ロシアでは「シベリア戦争」と呼ばれているといいますが、その表現は間違っていないと思います。日本側が布告なしにロシアの領土で戦端を開き、厖大な戦費を注ぎ、日本側だけで3000人を超えるといわれる死者を出した武力衝突で「戦争」だったのです。それが、ロシアに対する「帝国主義的な干渉戦争」であったことは、下記の「後藤意見書」、第一部「西比利亜出兵ノ目的」の六項目や「二大利源」獲得が力説されている文章で明らかではないかと思います。

 日本の都合で、あえて「宣戦布告」なしに戦端を開き、外国の領土で武力を行使しながら、「○○事件」とか「○○事変」と呼んだ戦争がいくつかありますが、明らかな武力衝突である戦争が「出兵」と表現されている例はあまりないと思います。だから私は、帝国主義的な干渉戦争の実態を覆い隠すために、意図的に「出兵」という言葉が使われるようになったのではないかと想像します。

 また私は、軍事力で極東ロシアの要地を占領したこの「シベリア出兵(シベリア戦争)」が、明治以来の帝国主義的な領土拡張政策の一環であり、先の大戦における日本の敗戦につながる重要な問題を含んでいたのではないかと思います。
 司馬遼太郎は「この国のかたち 一」(文芸春秋 1986~1987)に”昭和ヒトケタから昭和二十年までの十数年は、ながい日本史のなかでも非連続の時代だったということである”と書いていましたが、明治維新以来の日本の戦争やシベリア出兵(シベリア戦争)の実態を考えると、とてもそうとは思えません。
 連合国が軍を撤退させた後も、日本軍だけが駐兵を続け、5年間わたって極東ロシアでやったことはいったい何だったのか、また、何をしようとしていたのか、それらを無視したり、軽視したりする歴史認識では、日本は近隣諸国はもちろん、諸外国の信頼を得ることができないのではないかと思います。

 また、310万人もの死者を出した先の大戦の過ちをくり返さないためにも、極東ロシアにおける日本軍の所業を直視する必要があると思います。

 先日、日本軍”慰安婦”の像がまた、ワシントン郊外のアナンデールに設置されたと報じられていましたが、目先の利益を優先させ、不都合な歴史の事実をなかったするような日本の政治姿勢では、日本軍”慰安婦”の像は、ますます増えていくのではないかと思います。そしてそれは、戦時中の日本を告発するのみならず、現在の日本をも告発するものとして存在することになるような気がします。
 「侵略の定義は学界的にも国際的にも定まっていない。国と国との関係でどちらから見るかで違う」などと言って、不都合な歴史の事実をなかったことにするような日本の政治姿勢は、将来世代のためにも、改められなければならないと思います。

下記は、「シベリア出兵 革命と干渉1917─1922」原暉之(筑摩書房)から抜粋しました。

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                       13 干渉構想の確立

 出兵目的の表と裏
 形式上連合出兵、実質上日本の主導権確保という参謀本部が先鞭をつけた出兵方式は、新外相後藤新平の下で公式に承認を与えられた。連合軍隊の参加に「異議ヲ有セス」という新外相の見解に、英仏伊各国はもとより、アメリカのランシング国務長官も満足した。石井菊次郎駐米大使は5月6日の国務長官との会見で、「出兵決行ノ際多数ノ軍隊ヲ出ス可キ日本ニ於テ命令統一ノ見地ヨリ指揮権ヲ執ルノ必要アルベキハ寧ロ当然」との言質をとった。
 後藤の考え方は外相就任後間もない頃の起草と考えられる覚書にすでに明確な形をとっており、「独勢東漸」に対しては「攻守両全」の見地から「黒竜浦潮方面ニ於ケル軍事的防衛」の必要なること、さらに両方面の治安を維持するため、ハルビンおよび「イルクーツク若クハ貝可爾以東ニ於ケル各地」に日本軍を進駐させること、ハルビン占領は中国軍を排して日本が独力で当たるべきであること、などの構想が記されている。
 当然、緩衝国擁立構想にも積極的であった。珍田大使に宛てた6月6日づけ電報の中で、後藤は極東地方で「自治又ハ独立」を志向する政治団体に援助を与え、「以テ露国復興ノ基礎ヲ作ラシム」との方針を述べ、さらに「『ホルワット』将軍『セメノフ』大尉等ノ一致団結ヲ図り之ト連絡ヲ保チテ行動スルコト適当ナルカ如し」とまで、具体的に言及している。「本野に劣らぬほどの、強硬な出兵論者」と評される所以である。
 後藤はまた、前任者と同様、外務省きっての強硬派若手官僚たる木村鋭市(政務局第二課参事官)および松岡洋右(外相秘書官)を重用した。
 6月中旬に作成されたといわれる後藤の長文の意見書「西比利亜出兵問題ニ関スル意見」の起草にも、彼ら強硬派若手官僚が当然参画している。もともと本野が引退間際に閣議に提出した意見書「西比利亜出兵問題ニ関スル卑見」は、松岡が首相と外相に提出した覚書を下敷きに木村が起草したものだが、後藤は木村に命じて本野意見書の新装増補版を作成させた。それが、後藤意見書である。
 後藤意見書は三部より成り、第一部「西比利亜出兵ノ目的」は本野意見書を整備して次のような六項目の箇条書きにしたものである。
 一「帝国自衛ノ必要独逸勢力東漸ノ危険」
 二「帝国ノ国際政局上ノ地位確立ノ必要」
 三「講和会議ニ於て発言権確立ノ必要」
 四「米国ノ西比利亜活動対抗策」
 五「帝国民心振興ノ必要」
 六「我対支政策上ノ必要」
 松岡、木村、本野の手を経て後藤が仕上げた日本政府の出兵目的綱領の輪郭がここに示されている。
 次に第二部「西比利亜出兵反対論ニ対スル弁妄」と、第三部「西比利亜独立援助ノ形式ニ依ル出兵ノ現下ノ最良策タル所以」は、本野文書にはなく、後藤が新たに展開した部分であり、とくに後者は政府上層部が軍部の推進する緩衝国擁立工作を一定の政治的判断の下に是認し、それに理論的正当化を与えたものとして重要である。
 その政治的判断とは、「独立援助」方式こそ、一「出兵論ノ目的ノ大部ヲ達し」、二「露国民ニ対シテモ其ノ反感ヲ招カス」三「出兵反対論者ノ憂慮スル危険ヲ除去シ」、四「連合諸国ノ要望ニモ副フ」、というものである。
 本野─後藤意見書は比較的早く(といっても20年後のことだが) その全文が世に知られたので、つとに歴史家の関心を引いた。中でも井上清氏はそれを分析することによって、極東ロシアにおける革命の打倒と傀儡政権の樹立、資源支配、対米対抗の基礎の確立、対列強対抗力の強化、ロシア分割の分け前確保、「満蒙」完全支配と中国における日本の圧倒的優位の確立、の諸点を抽出し、「これが当事者の告白するシベリア出兵の当初の真意であった」との重要な指摘を行った。

 ここでさらに一点、見落としてはならぬ、しかし両意見書で十分に意が尽くされていない出兵目的を補足しておく。それは「資源支配」や「ロシア分割の分け前確保」とも関連するが、端的にいえば中東鉄道全線およびサハリン島北半の「二大利源」獲得である。
 後藤が引き継いだとみられる一連の書類の中に「西比利亜出兵ノ急務」なる長文の文書がある。本野の意見書提出後、引き続き起草されたもの、といわれ、やはり松岡か木村の起草になるものとも考えられる。「二大利源」獲得が力説されている部分は是非とも引用しておかなければならない。

 独逸東侵ノ手先タル露国トノ接触地点ニシテ帝国国防上及経済的発展上ノ要衝タル北満ノ地ハ此ノ機ヲ利用シテ露国ノ手ヨリ脱出セシメ少クトモ自由競争地帯ト為サハ帝国ノ勢力当然ニ此ノ地ニ確実ニ扶植セラルヘク……而シテ出来得ヘクンハ満州横断ノ東清鉄道全部ヲ我カ出兵ノ報償トシテ樺太北半ト共ニ取得スルノ素地ヲ造ルノ要ナシトセス特ニ樺太カ帝国海軍カ保持ニ必要ナル石油ノ有望産地タルコトヲ忘ルヘカラス此ノ二大利源ヲ我手ニ収ムルノ必要ハ多年朝野ノ知悉セル所ニシテ実ニ帝国国防ノ独立及帝国ノ東亜ニ於ケル優越ノ地位ヲ確実ニ保持スル所以ナリ

 北進プログラムが垂涎の的としてきたものが「出兵の報償」の形で明記され、しかも中東鉄道についていえば、長春・ハルビン間取得の宿願が、いまや北満横断全線の野望にまでエスカレートしているのだ。
 中東鉄道の利権獲得は部分的にはすでにホルヴァートとの交渉の俎上にのぼっていた。日本軍の鉄道輸送と専用電信線使用をめぐる現地交渉は早くも3月26日から開始され、参謀本部が4月21日づけで外務省に提出した極秘文によれば、日本がホルヴァート支援の代償として取得した利権は、鉄道と通信に関する事項のほか、「秘密図入手」、「松花江、黒竜江船舶業」、「東清沿線森林及鉱山業」、「東清沿線土地家屋」など多岐にわたった。
 このような利害で結ばれている以上、ホルヴァートへの援助の打切りはありえず、彼の逡巡に業を煮やした中島が4月24日づけで進言した援助一時打切り案は陸軍首脳部の容れるところとはならなかった。5月4日づけで政府に提出された参謀総長名の建議において、「『ホールワットゥ』擁立ニ努力スヘキナリ」との方針が再確認され、その理由づけとして、「軍事上東支鉄道ノ我有ニ帰シアルコトノ絶対ニ必要ナルノ一事」が挙げられているのは特徴的である。
 東支鉄道全線取得の野望にはさらにその先がある。中島がまだ浦潮に滞在中だった3月初頭、彼は対米対抗策として次のような構想を田中に進言した。すなわち中島によれば、戦後は英米同盟して極東に勢力を拡張し、日英同盟は生ける屍と化すかもしれない。いまのうちに沿海・アムール両州に日本の勢力を伸ばし、時機をみてウスリー鉄道を買収するか、またはハルビン・ブラゴヴェシチェンスク間の鉄道敷設権をえて長春に接続し、アメリカが東から西に向かって伸ばす勢力を遮断する必要を感じる、というのである。

 ところで、以上で明らかにしてきた出兵の真意は、出兵を推進する勢力にとって裏面に伏せられるべきものであり、表面に掲げる名分たりえない。名分たりえるのはただ一つ「ドイツ東漸ノ危険」なるものであるが、よく考えればその根拠の薄弱性は目にみえている。「独逸東漸」説の虚構なることが誰の目にも明らかとなれば、出兵論はその依りどころを失うことは避けられない。ところが、ザバイカル戦線の状況はこの説にひとつの有力な補強材料を提供する。セミョーノフ軍と対抗しているソビエト軍の中に多数の「武装セル独墺ノ俘虜」が混入し、その活動が5月半ばから6月初めにかけてのセミョーノフ軍退却の主因をなしている、というのである。さらに決定的な材料として、6月から7月にかけて、今度は彼らいわゆる「武装独墺俘虜」がチェコスロヴァキア軍団を圧迫し、その東進を阻害している、との情報が浮上した。これらの情報の真偽はなお検討を要する問題であるが、(次の二つの章でそれを検討する)、いずれにしてもこれらの情報を操作することで右に述べた名分は保たれた。こうして、「武装独墺俘虜」からチェコスロヴァキア軍団を「救援」することが表向きの名目となったのである。
 真意と名分(ホンネとタテマエ)の、この埋めがたい隔たりこそ、これからはじまろうとする干渉戦争の性格をよく物語っている。
 

 


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