真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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尼港事件の真実

2019年10月19日 | 国際・政治

 あまり問題視されず、よく知られてもいないように思いますが、五箇条の御誓文が一般に布告される前に、天皇の書簡である”御宸翰(ゴシンカン)”が披瀝され、「天神地祇御誓祭」と称する儀式が行われて、その後、五箇条の御誓文が布告されたのだといいます。
 見逃せないのは、「明治維新の御宸翰」とか「億兆安撫国威宣揚の御宸翰」とか呼ばれるという、その”御宸翰”の内容です。その中に、

”…故ニ朕茲ニ百官諸侯ト広ク相誓ヒ、列祖ノ御偉業ヲ継述シ、一身ノ艱難辛苦ヲ問ス、親(ミズカ)ラ四方ヲ経営シ、汝億兆を安撫(アンブ)シ、遂ニハ万里ノ波濤ヲ拓開シ、国威ヲ四方ニ宣布シ、天下ヲ富岳ノ安キニ置ン事ヲ欲ス…”

と海外侵略を意図するような考え方の記述があるのです。明治維新によって天皇による新政府が成立し、形式上は天皇が権力を直接行使する政治、すなわち天皇親政が行われることになったわけですが、政治の実権は岩倉具視ら一部の公家と薩摩藩・長州藩が掌握しており、五箇条の御誓文は”木戸五箇条”ともいわるものでした。また、上記の”御宸翰”も、当時十五歳の明治天皇ではなく、元長州藩士で、新政府の要職にあった木戸孝允が書いたといわれています。

 したがって、明治維新以降、日清戦争や日露戦争など外国と戦争を続けることになったのは、薩長政権による”四方ヲ経営シ”とか万里ノ波濤ヲ拓開シ、国威ヲ四方ニ宣布”するという侵略的思想によるものだったのだろうと思います。私は、そうした侵略的思想の流れのなかでシベリア出兵をとらえ、尼港事件を考える必要があると思います。

 だから、歴史の流れや当時のロシアの実態を無視し、日本軍の残した資料のみによって、尼港事件を赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件であるととらえたり、日本人犠牲者(731名)の数を強調し、ほぼ皆殺しにされたとか、建築物はことごとく破壊されニコラエフスクは廃墟となったなどと、赤軍パルチザンの残虐性や蛮行だけを指摘するのは、いかがなものかと思います。

 住民虐殺なら、他国であるロシアの領土、イヴァノフカ村その他において、「焼打ちして殲滅すべし」と、三光作戦に類する事件をくり返した日本軍の住民虐殺こそ問われるのではないかと思います。
 また、シベリア出兵による戦いは、「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分とはかけ離れたものだったことも見逃せないと思います。

 尼港が、パルチザン軍の勢力下に帰して、尼港の白衛軍がほとんど存在しないような事態に立ち至り、師団長から、”貴官は居留民保護など駐屯の目的遂行上に妨害を加え、あるいはわが軍に対して攻撃的態度をとるのでないかぎり、いかなる政治団体といえどもわれより進んでこれを攻撃すべきではない”との訓令を受信していたにもかかわらず、現地守備隊が戦闘を継続させた理由は何だったのでしょうか。もはやチェコ軍団救出作戦とは無縁の戦だったのではないでしょうか。

 さらには、宴会が終って寝静まっている赤軍本部を包囲し、寝込みを襲うかたちで、日本軍の側から戦闘の火蓋を切ったのですから、その後の報復攻撃を非難することはできないだろうとも思います。
 また、当時救援隊とともに現地入りした外務省の花岡書記官が「当地居留民ハ今春3月12日事件ノ際領事及軍隊ト行動ヲ共ニシ大部分戦死」と報告していることも見逃すことができません。”戦闘の局外にあった民間人”が、赤軍パルチザンの手で一方的に皆殺しになったのではないという側面があるからです。
 それは、尼港を出てサハリン島に帰来したアメリカ人毛皮商が、知合いの二人の日本人に避難を勧めたところ断られたということで、次のような証言をしていることとも符合します。

 ”在留日本人ハ全部一団トナリ日本軍ト共ニ抵抗スルノ決心ヲナシ両人亦此集団ニ加ハリ島田商店ニ立籠リタリ……3月11日12日ニ亘ル戦闘ニ於テ日本憲兵隊モ火災ニ罹リ全焼ス奮闘シタル日本軍ハ上下火中ニ投ジ在留民亦兵士ト行動、共ニ万歳ヲ叫ビ悉ク火中ニ投ゼリ

 下記は、「シベリア出兵 革命と干渉1917─1922」原暉之(筑摩書房)の「20 岐路に立つ日本」から、尼港事件に関する部分の(1)を抜粋したものですが、当時のロシア政変の状況や日露両国を中心とする様々な資料の分析・考察をもとにしたこのような歴史家による尼港事件の記述には、安易な批判を許さない説得力があるように思います。
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                          20 岐路に立つ日本

 尼港事件(1)ニコラエフスク守備隊の全滅 
 ニコラエフスクも一月末までに総勢2000というパルチザン軍(ニコラエフスク地区赤軍と称した)によって完全に包囲されていた。
 アムール下流域におけるパルチザン運動の展開は他の地域より遅れ、1919年11月2日にハバロフスク郊外アナスタシエフカ村で開かれた同市周辺の諸部隊代表者協議会がその出発点となった。この協議会はニコラエフスク解放の問題を最重要課題として取り上げ、アムール河下流方面へ向かう部隊の最編成を行ったのである。河沿いに北上した部隊は途中の村々で農民を味方につけながら勢力を増し、鉱山労働者をも加え、一月に尼港に迫ったときは大部隊になっていた。
 尼港の白衛軍は北上してきたこのパルチザン部隊を迎え撃ったが、ツィンメルマノフカ付近の戦闘で敗北を喫し、強制徴募された兵士の多数はパルチザン軍に寝返った。白衛派陣営はソフィースク、マリインスク方面を守備するヴィツ大佐麾下の部隊に期待をかけたが、ここでも同様で、同大佐は将校と一部兵士を率いてデカストリ港に逃走した。
 1月10日頃までに尼港より上流の諸部隊はことごとくパルチザン軍の勢力下に帰すると、尼港の白衛軍はまったく意気消沈し、投降者の続出でその兵力は50内外にまで減ってしまった。これを補うため自警団も編成されたが、1月中旬以降、尼港防衛戦の主役を担ったのは日本軍である。日本軍守備隊は1月11日から周辺地域に出動してパルチザン軍と交戦を開始した。激しい風雪に行動の自由を奪われ苦戦が続いた。
 日本軍陸戦隊が尼港を占領し、その約12キロ下流にあるチヌイラフ要塞を接収したのは1918年9月である。歩兵第一大隊を基幹とする守備隊が配置され、はじめは第十二師団の一部が駐屯したが、1919年6月から第十四師団の水戸歩兵第二連隊第三大隊(大隊長石川正雄少佐)に交代した。うち一中隊は要塞警備隊としてチヌイラフに駐屯した。チヌイラフには海軍無線電信隊も配置された。
 アムール河は11月18日頃まで氷結し、翌年5月初頭ないし中旬まで航行不可能となる。その間、尼港との連絡は尼港・ハバロフスク間の有線電信によるか、チヌイラフ要塞の無線通信所を経由するほかないが、前者はアナスタシエフカ協議会の数日後に切断され、不通となっていた。1月中旬以降の戦闘にはチヌイラフ要塞系部隊からも一小隊だけ残して兵を出動させたので、外界との唯一の連絡路の警備は手薄となった。
 日本軍は治安維持の面でも白衛軍に代わって前面にでた。石川守備隊長は市民と周辺住民に夜間外出を禁止し、これに違反した場合は即刻死刑に処するとの布告を1月10日づけで発している。
 1月24日にパルチザン軍の使者が日本守備隊にきて、和平を提議した。ところが守備隊長はパルチザン軍を「一ノ強盗団体ト目シテ」その提議を峻拒し、軍使の身柄を憲兵隊に留置した。そして衛戍司令官メドヴェーヂェフ大佐から要求されると、これを白衛軍の防諜部に引き渡した。白衛軍はこの軍使を殺してしまった。
 一年前、脱営して保護を求めたカルムイコフ軍の兵士を収容して身柄引き渡しに応じなかった米軍司令官の気骨と比ぶべくもないが、軍使を拘束の上、易々として処刑を許した日本軍守備隊長の政治的見解の狭さ、それ以前のルール違反は大方の認めるところであろう。もっとも日本軍のパルチザン軍に対する蔑視と過少評価は石川少佐に限った話ではない。チタ特務機関長の黒沢準中佐がヴェルフネウヂンスク周辺のパルチザンを「大部分ハ地方民ニシテ固ヨリ団体的訓練ナク所謂百姓一揆ノ類ナリ」とみていたのもその例である。
 29日、尼港・チヌイラフ間の電信電話線が切断された。
 2月2日、チヌイラフの無線電信所は武市の白水第十四師団長から守備隊長宛ての訓令を受信した。貴官は居留民保護など駐屯の目的遂行上に妨害を加え、あるいはわが軍に対して攻撃的態度をとるのでないかぎり、いかなる政治団体といえどもわれより進んでこれを攻撃すべきではない、という趣旨である。この訓令にもかかわらず、守備隊長は戦闘継続の方針をとった。これに対してパルチザン軍はチヌイラフ要塞を占領し、赤衛隊が退却時に隠しておいた砲の閉鎖器を掘り出して日本軍兵舎に砲撃を浴びせた。
 6日夜、日本軍はチヌイラフ要塞と海軍無線電信所を放棄した。これで尼港は外界から完全に孤立した。
 21日、パルチザン軍のトリャビーツイン司令官はハバロフスクの日本軍司令官宛てに電報を送り、無益の犠牲を避けるめ、外界と遮断されて日本軍の局外中立方針を了知していない尼港守備隊に所要の指示を与えるよう提議した。これをうけて白水師団長の再度の訓令が23日づけで打電された。わが軍はロシアの内政に干渉せず、アムール州からは近日中に撤退する。浦潮、ニコリスク、ハバロフスクでもわが軍は同じく中立の態度をとり、すでに革命政府の樹立をみている。

 貴官ハ従来ノ関係ニ拘束セラルルコトナク我居留民ヲ害シ若クハ我ニ対シ攻撃的態度ヲ執ラサル限リ中立ヲ保持シ事ヲ平和的ニ解決スルニ努メ大勢ニ順応スヘシ

ようやく日本軍守備隊は和平交渉に同意した。しかし26日に石川少佐の名で提示された日本軍側の和平条件は、すべての砲を日本軍に引き渡せとか、入市するパルチザンの人数を制限せよ、新政権と意見の合わない将兵は日本軍および日本領事館の保護をうけ解氷に伴う航行開始後妨げられずに出国する権利が保障される、といった項目が並んでいた。
 パルチザン側はこれを突っぱねた。結局日本側は右の条件を取り下げ、白水中将の宣言を実施すること、白衛軍は完全に武装解除されること、などを盛り込んだ和平協定がまとまった。28日、これに日本側から塚本中尉と河本中尉、パルチザン側からトリャピーツイン司令官、ナウーモフ参謀長以下が署名し、軍事行動は停止された。 

 29日にパルチザンは労働者・市民に迎えられて市内に入った。目撃者の証言によると、入市に際して掲げていたプラカードには、「資本に死を」「国際強盗団打倒」「ブルジョイに死を」「将校団に死を」などと書かれていた。「将校団、ブルジョアジー、ユダヤ人を殺せ」のスローガンを掲げて入ってきた、との証言もある。白衛隊は戦々兢々としていた。市内の監獄にいる政治囚を殺さないように求めたパルチザン側の勧告を黙殺して少なからぬ政治囚を銃殺刑に処し、軍使まで殺害した彼らが報復を恐れたのは当然である。資本家も報復を恐れたが、彼らの恐怖にも理由がなくはなかった。この点についてはあとで述べる。

 パルチザン軍は尼港に入ると直ちにソビエトを組織して、臨時執行委員会を設置し、サハリン州ソビエト大会の招集を準備し、労働者・市民から志願兵を募集した。オムスク政府の官吏と将校、資本家に対しては逮捕と審理を実施した。印刷所は接収され、既存の新聞を廃刊にして『ウスチアムールスカヤ・プラウダ』紙が発刊された。その第二号、3月5日づけには白衛軍の武装解除と処分についての記事が載っている。                        

 白衛軍部隊は完全に武装解除され、まず銃約300梃、三インチ砲二門と付属の弾丸、探照灯3個が引き渡された。降伏した大隊の残部の中から中隊を編成中である。主な反革命分子とすべての将校は逮捕され、そのうち3名は銃殺された。主たる犯罪人のメドヴェーヂェフ大佐は服毒自殺していた。

 行方不明となっていた軍使の消息についてはこう書かれている。

 日本=白衛軍により拷問をうけた軍使オルロフ同志の遺体は変わり果てた姿で発見された。眼球はえぐられ、鼻と踵は焼かれ、背は切り裂かれていた。遺体は日本軍が軍使について取り決めた国際法に違反して犯した残虐行為を記録にとどめるため、諸外国領事館代表者の立会いのもとで解剖された。この残虐行為の犯人に対しては審理が行われるであろう。

 赤軍が白衛軍将校・資本家らを逮捕・銃殺し(最初の数日間で400人以上が逮捕され、革命法廷の審理ののち数十人が一夜にして銃殺されたという説がある)、しかも市内の中国人、朝鮮人、下層労働者を部隊に編成しているのをみて、日本軍幹部は憤慨し、次は自分たちの番だとみて戦慄したに違いない。参謀本部編『出兵史』によれば、石川少佐は3月7─8日頃、こうした点についてトリャビーツインに詰問した。しかし赤軍本部は内政問題だとしてとりあわなかった。次いで11日午後、ナウーモフ参謀長が守備隊本部にきて12日正午までの回答期限つきで武器弾薬の引き渡しを要求したという。
攻撃を秘かに準備してきた日本軍は、ここにおいて12日午前2時を期して攻撃を開始することに決した。
 この点についてソ連側の文献は武器弾薬引き渡しの最後通牒を発したことにはふれず、パルチザン入市後の日本軍との関係が友好的であったことに言及する。しかしその友好が実は表向きのものであり、警戒心を緩めさせるための欺瞞であったと主張する。ニコラエフスク地区赤軍本部の公式声明はこう述べている。

 日本軍は 武装したまま自由に市内を往来していた。関係はきわめて友好的なものに思われた。……彼らの将校たちはしばしばわれわれの本部に訪ね、実務的な会話のほかに仲睦まじい話合いも交わし、ソビエト政権に共感をもっているといい、自分はボリシェヴィキだと称し、赤いリボンをつけたりした。武力でも、できることなら何でも赤軍を助けたいと、約束した。だがのちに判明したように、これは準備されていた裏切りを隠すために着せた仮面にすぎなかったのだ(『ウスチアムールスカヤ・プラウダ』3月30日づけ所載)

 事件参加者の一人、ドネプロフスキーの回想によれば、3月11日の夕刻パルチザン本部では宴会が催され、石川少佐、石田領事も出席した。やがて日本人は帰り、パルチザン側でも帰った者がいたが、多くは残って度外れに飲んでいたという。これが事実とすれば、その直前に重大な内容の最後通牒をつきつけたりしているだろうかという疑問がわく。敢えて挑発しながら本部員多数が泥酔、とは考えにくいのである。日本軍守備隊に対する武装解除要求というのが、作り話ではないにしても、誤ってまたは故意に曲解した筋書きだった可能性は否定できない。(香田一等卒の日記では「武器弾薬ノ借受ヲ要求」とある)。
 ともあれ日本軍は12日午前1時30分に行動を起こし、宴会が終って寝静まっている赤軍本部を包囲して戦闘の火蓋を切った。本部は火焔に包まれ、トリャピーツインは炸裂した手榴弾で足に負傷、ナウーモフは窓の外に飛び降りたところをつかまって瀕死の重傷を負った。しかし突如の闇討ちをうけて狼狽した赤軍側は間もなく盛り返した。その抵抗は予想外に頑強であり、日本軍は守勢にまわった。
 ここで中国砲艦の動向が戦闘の帰趨を決する重要な意味をもった。尼港には松花江の防備のため上海からハルピンに赴く途中で冬籠りを余儀なくされた四隻の中国砲艦が停泊中であった。中国砲艦はパルチザンの入城に先立つ尼港の攻防戦で中立の姿勢をとっていたが、3月12日の戦闘ではパルチザン側を擁護して市有桟橋付近の日本軍に猛射を浴びせ、その敗北を決定的にしたのである。乗組員は中国人居留民と結びついており、彼らのパルチザンへの加担は自発的な行為であった。
 1919年1月の調査によれば尼港には2329人の中国人、916人の朝鮮人が居住し(日本人は291人、総人口1万2248人)、周辺の金鉱に出稼ぎにくる中国人、朝鮮人労働者も多かった。白衛軍が組織した自警団に中国人、朝鮮人の参加はみられなかった。逆に市を包囲したパルチザンには中国人、朝鮮人が加わっており、やがて彼らは同胞に迎えられて市に入ったのち市内の同胞の応募者をえて勢力を増した。参謀本部編『出兵史』によれば、3月12日の時点で旧兵営とライチェン家に各600と300の中国人部隊、リュリ兄弟商会に約500の朝鮮人部隊が宿営していたとされる。彼ら武装した中国人、朝鮮人に対する日本軍の敵愾心が3月12日決起の一動機をなしていたことは疑いない。
 ハバロフスクでも2月20日のパルチザン入城後ただちに市長とブルジョアジーが逮捕された。これは尼港と同様だが、異なるのはハバロフスクの場合、中国人居留民が釈放要求に立ち上がり、パルチザン側は激論ののちに要求をいれて釈放した点である。ハバロフスクの中国人企業は要求がみたされなければ活動を停止すると宣言した。「商業の75パーセントは中国人の手中に握られていたのでこの威嚇はきわめて重大だった」という。
 一方尼港では3月16日に開催されたサハリン州ソビエト大会の席上、中国領事が韓民会代表とともに挨拶を述べている。尼港の中国人居留民はハバロフスクの同胞と比べるとはるかにパルチザンに好意的な態度をとっており、尼港の日本軍と日本人居留民は完全に孤立していたといえる。
 日本人居留民の多くは決起の巻添えを食って戦死し、一部は捕虜となった。この点について参謀本部編『出兵史』は、「敵ハ我夜襲隊ノ大部ヲ撃退スルヤ直ニ市内ノ我居留民ヲ襲ヒ老若ヲ問ハス虐殺シテ其財貨ヲ奪ヒ辛ウシテ難ヲ免レ中隊兵舎ニ入リシ居留民僅ニ十三ニ過ス」とし、戦闘の局外にあった民間人が敵軍の手で皆殺しになったような書き方をしている。
 たしかに3月の戦闘時点で尼港日本人居留民の一部が略奪されたリ殺されたりしたことは否定できない。しかし全体としては、のちに救援隊とともに現地入りした外務省の花岡書記官が報告したように「当地居留民ハ今春3月12日事件ノ際領事及軍隊ト行動ヲ共ニシ大部分戦死」したとみるのが至当であろう。3月末に尼港を出てサハリン島に帰来したアメリカ人毛皮商は知合いの二人の日本人に避難を勧めたところ断られた。彼はこう証言している。

 在留日本人ハ全部一団トナリ日本軍ト共ニ抵抗スルノ決心ヲナシ両人亦此集団ニ加ハリ島田商店ニ立籠リタリ……3月11日12日ニ亘ル戦闘ニ於テ日本憲兵隊モ火災ニ罹リ全焼ス奮闘シタル日本軍ハ上下火中ニ投ジ在留民亦兵士ト行動、共ニ万歳ヲ叫ビ悉ク火中ニ投ゼリ

 もっと悲惨なケースとして、楼主の手にかかって次々殺されたという十数人の薄幸な酌婦たちの話すら伝えられている。この楼主は「女たちが足手まといになるのを恐れて」ピストルで次々と殺し、自分は助かろうとしたということである。これは極端な話としても、日本人居留民の全滅は敗戦の過程での集団自決を抜きにしては考えられない。しかもこのことは、居留民保護の衝に当たるべき石田虎松副領事が自ら領事館に火をつけて妻子を道連れにし、三宅駸五海軍少佐と刺し違えて自刃してしまったのを思えばなおさらである。
 戦闘は二日目に概ね終わった。12日の戦闘における日本軍兵力は陸軍戦闘員288、同非戦闘員32、海軍無線電信隊43、ほかに在留民自警団・在郷軍人からなっていたが、13日に残った兵力は100(うち居留民13)、ほかに陸軍病院に院長以下8、患者18を数えるだけであった。しかし中隊兵舎に立て籠った兵士は抵抗をやめなかった。17日午後五時に在ハバロフスク歩兵第二十七旅団長山田少将と杉野領事の戦闘中止勧告が伝えられて、18日朝ようやく日本軍は降伏し、残存する兵士と居留民は俘虜として収監された。
 救援隊はまだ小樽を出港していない。すでにふれたように尼港救援隊の編成は2月21日に下っている。これを受領した第七師団長は直ちに部隊の編成に着手し、部隊は3月1日に小樽に集合、3日に乗船を終って出港命令を待ったが、現地における和平成立の情報に基づく出発見合わせの命令が6日に出て、部隊はいったん旭川と札幌に帰還していた。しかし、仮に3月初頭に出発しても厚い氷に阻まれて目的地のはるか手前で立往生したであろう。
 19日、カムチャッカにあるペテロパヴロフスクの日本領事館は前日尼港からの来電を本省に打電した。

 3月18日「ニコライエフスク」来電ニ依レバ同市ニ於テ日本軍ト過激派トノ間二昼夜ニ渉ル激戦アリ其結果同地駐屯軍隊及ビ在留民約700名ハ殺害セラレ残リ約百名負傷シ司令部領事館其ノ他邦人家屋ハ全部焼キ払ハレタル趣ナリ

 外務省はこの電報を29日接受する。各紙は「過激派ト我軍の衝突 我軍の損害多くニコラエウスク
の我領事館は焼かれ副領事石田虎松氏は生死不明」(『大阪朝日』3・29夕刊)などの大見出しのもとに事件をとりあげ、この日から「尼港の惨劇」の悲報で日本中が大騒ぎになった。1─2月にみられた撤兵世論の盛り上がりはいまや鎮静化した。背信的な奇襲をかけた結果の自殺行為に近い全滅だったとは知らされず、世人はただ同胞の悲惨な運命に同情し、パルチザン=「過激派」の暴虐に憤慨した。この状況下で、日本軍が沿海州で惹き起こした第二の冒険的事件に世人の関心はほとんど向けられなかった。


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