日本軍「慰安婦」の問題に対する日本政府の対応に問題があることは、2015年3月、シカゴで開催されたアジア研究協会(Association for Asian Studies)定期大会がきっかけとなって、同年5月5日に発表され、日本政府にも送付されたという在米歴史学者や日本研究者等187人による「日本の歴史家を支持する声明」で明らかだと思います。
その声明のなかに、下記のようにあります。
”…大勢の女性が自己の意思に反して拘束され、恐ろしい暴力にさらされたことは、既に資料と証言が明らかにしている通りです。特定の用語に焦点をあてて狭い法律的議論を重ねることや、被害者の証言に反論するためにきわめて限定された資料にこだわることは、被害者が被った残忍な行為から目を背け、彼女たちを搾取した非人道的制度を取り巻く、より広い文脈を無視することにほかなりません。 ”
安倍政権は、一貫して「政府が発見した資料には軍や官憲による強制連行を直接示すような記述は見られなかった」という主張をくりかえし、それだけを根拠にこの問題を決着させることを意図して韓国と交渉しました。そして、またしても、慰安婦であったことを名乗り出た人たちに向き合うことなく、2015年12月に”最終的かつ不可逆的な解決”というような言葉を使った慰安婦問題日韓合意の発表に至ったのです。下記のような元慰安婦の証言は、事実を語ったものとして受けとめられていないのです。
それは、安倍首相がその後、日韓合意について、「戦争犯罪のたぐいのものを認めたわけではない」と言ったことが報道されたことからも明らかです。上記の在米歴史学者や日本研究者等187人による声明が完全に無視されているということだと思います。
日本軍「慰安婦」の問題を知る人たちは、日本が敗戦前後に多くの公文書を焼却したことを知っています。また、日本政府が、この問題の真相究明をしようとしないだけでなく、真相究明に必要な関係資料を、今なお非公開にしていることに不信感を持っています。
国連人権委員会より任命された女性に対する暴力に関する特別報告者ラディカ・クマラスワミ氏は、「戦時における軍事的性奴隷問題に関する朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国および日本への訪問調査に基づく報告書」のなかで、
”第2次世界大戦直前および戦争中における軍事的性奴隷の徴集について説明を書こうとする際、もっとも感じる側面は、実際に徴集が行われたプロセスに関して、残存しあるいは公開されている公文書が欠けていることである。”
と、本来あるべき公文書がないことを指摘しているのです。
安倍政権のような対応では、国際社会の信頼は得られないと思います。だから、安倍政権の意図に反して、世界中に慰安婦の少女像が設置されていくことになるのではないかと思います。過去のあやまちを素直に認めなければ、将来世代が、野蛮な軍国主義を引きずる国民として、苦しい立場に立たされることになるのではないかと思います。
積極的に真相究明をしようとせず、厖大な戦争に関わる公文書を焼却処分したり、重要文書を非公開にしておきながら、「政府が発見した資料には軍や官憲による強制連行を直接示すような記述は見られなかった」と主張し、慰安婦であったことを名乗り出た人たちの証言を受け入れないのは恥ずかしいことだと思います。また、日本軍「慰安婦」の問題は、上記声明文にあるように、強制連行だけが問題なのではないのです。本人の意思に反して拘束したこと、性行為を強要したこと、人身売買の問題なども含まれているのです。
下記は、「中国に連行された朝鮮人慰安婦」韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会:山口明子訳(三一書房)から、証言部分のみを抜粋しましたが、日本軍「慰安婦」の問題が、戦争犯罪に関わることは否定しようがないと思います。
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故郷の歌に悲しみをこめて…
鄭学銖(チョン・ハクス)
幼いときから他家で働いてきた
私は1925年5月24日(陰暦)、慶尚北道甘浦のチョンゴルで長女として生まれた。私の家はとても貧乏で、農地もなく、父親が日雇いで生計を立てていた。
母親は魚の加工処理をする日本人の工場で働いていたが、日本人からしじゅう虐待されて、私が七歳になった年に亡くなった。兄さんは父親と一緒に地主の家の農作業を手伝ったり、あちこちをめぐり歩いて臨時工として仕事をし、私は幼い弟妹の面倒を見ながら、家の中の仕事を主にしていた。
私が九歳のとき、父の病気のために、地主から借りた薬代を返すために、その地主の家の女中として働くことになった。幼い年齢であらゆる仕事をみんなやった。ある時には地主が私に、向かいにある日本人の工場にこっそり鉄条網を潜って入り、米をくすねて来るようにと言った。これは本当に危険を冒してしなければならないことだったが、地主がやれというので、どうしてもやるしかなかった。一度は泥棒に入ったが、見つかって急いで逃げ出すとき、鉄条網に刺されて血がたらたら流れたりした。
他の家で仕事をしてあげた時、扇子に描かれた太極旗を見たので国旗を覚えている。
ある日、外で私をよんでいると聞いて、お手洗いに行くとごまかして出てみると、父と兄弟たちが私を待っており、そのまま甘浦をたった。私たちは浦項、蔚山を経て、食べる物を求め、日雇いもしながら、釜山へ逃げた。
このような子ども時代を送ったので、学校の門の前さえ行ってみる機会がなかった。よその子たちが楽しそうに学校に通うのをみて、胸が痛かったことが思い出される。
私が十二歳ぐらいになった時には、私たちの家族はみな釜山にいるようになったが、それぞれがばらばらに働かねばならなかったので、しじゅう会うことはできなかった。どこで仕事をしても、苦労して、希望がなかった。
日本人の軍人に捕まって
そうしたある日、私が働いていた家の主人の息子が私を強かんしようとし、私は死にもの狂いで反抗して、やっと逃げ出した。無我夢中で逃げ出して、一人で釜山の海辺に来て、涙を流しながら「連絡船は出て行く…」という歌を歌って自分の身の上を嘆いていた。その時、突然、後から数人の日本人軍人が現れた。私は反抗することもできず、口と目を押さえつけられたまま、軍用トラックに乗せられた。その時、私は十四歳(1938年)だった。
すぐに釜山駅に連れて行かれ、軍用列車に乗せられた。汽車の中はほとんど軍人だったが、私たちの車両には朝鮮の女の子がたくさんいた。お手洗いに行くときまで、軍人たちがついて来て監視をし、汽車の中から外を見ることもできないようになっていた。汽車の中では朝鮮の女の子同士で自由に話をすることも出来ないまま、自分たちの境遇を嘆きながら数日間を過ごした。食事は一日三食くれたが、簡単な握り飯だった。
ついに汽車はどこかに停まり、降りる時に、そこの人たちが話していることを聞いて私が今着いたのは満州のハルピンだということがわかった。
その時一緒に来た女の子たちは、十四歳からニ十歳くらいまでで、その中でも私はいちばん若い方だった。多くの女たちは、大邱、慶州、釜山の地域から捕まって来た。
部隊について行って慰安婦生活をした
私のいたハルビンの慰安所は軍隊内にあって、一階だけのテントのようなところの小さな部屋に布団と布団入れ、洗面器があった。
慰安所には全部で二十人の朝鮮人慰安婦がいた。髪の毛を強制的に短く切れら、日本の着物を着て、日本語と日本の歌を覚えた。私たちを管理する主人は日本人夫婦だった。
軍人たちは慰安所に入って来る時に主人に金を渡すので、軍人たちがいくらの金をだしたのかはよくわからない。私は主に将校たちの相手をした。一日にニ、三人の将校を相手にすることもあり、もっと大勢のこともあった。軍人たちはほとんどサックを使った。私が初めて相手をした将校は「マモル」という名前だった。おかみさんが私の部屋に連れて入って来て、「こわがることはないよ、何でもないから」という冷たい言葉を残したまま部屋の戸を閉めて出て行ってしまった。私は恐ろしくて、部屋の隅に身を縮めていた。軍人が近付いてきて強かんしようとしたので、私は彼の顔や腕に噛みついて抵抗した。けれど、それ以上は抵抗できなかった。
ある将校は、言うことをきかないといって、縛っておいて、自分たちのやりたいままに欲望を遂げた。あらゆる手段と方法を尽くして、自分の野望を満たす野獣のような軍人を見ると、歯の根が合わないほど震えた。私はしじゅう反抗したので、たくさん殴られた。私が殴られて気絶すると、主人は冷たい水を吹き掛けて正気づかせた後、しばらくの間閉じこめて、ご飯もくれなかった。
食事は三度くれたが、ゆっくり食べられるときは稀だった。休日はなかった。日曜日も外出は禁止されて外出出来なかったが、時々、日本の軍人が宴会をするときには宴会の場所について行き、酒を注いでやったり、歌を歌ったり踊ったりして、興をそえた。
ある軍人たちは時々、少しのお金をくれた。その金で主に化粧品や日用品を買った。主人からは月給や金を貰ったことはない。
私たちは、しじゅう反抗し、機会があれば逃げ出そうとしていたため、ある日、主人は私たち全員を集合させた。私たちをハルビンのある工場の庭に連れて行った。しばらくすると、日本の軍人たちが、たくさんの中国人の女たちを縛って連れて来た。女たちの着ているものを脱がせた後、手足を板に縛りつけておいて、凶悪な日本の兵士たちが輪かんした。大勢の兵隊が列を作って自分たちの番を待った。あらゆる方法で輪かんした後、その女たちを拷問した。とうがらし水を下半身に注いだり、長い刀で所かまわず刺したりしながら、苦しみもだえる姿を見て喜んだ。ある者たちは石油を振り撒いて火をつけたり……、到底、想像もできない方法で拷問すると、中国の女たちは、一人、また一人と死んでいった。この光景を見た私たちは、これ以上反抗する気持ちも出ないまま、毎日の生活を続けるほかなかった。
一週間に一回ずつ病院に行って性病検査を受け、性病にかかっている人は606号の注射を受けなければならなかった。兵士たちの相手をする女たちは性病にかかることが多くて苦労した。
私たちは客を迎える前に、液体の避妊薬を茶わん一杯ずつ飲まなければならなかった。それでも、ある女は誤って妊娠し、子どもを分娩したが、嬰児はすでに性病によって腐って死んでいた。赤ん坊を産んだ女はある日行方不明になった。
ある者は死んで出て行き、ある者は売られて出て行き、またある者は部隊について移動していったために、しじゅう慰安婦はかわって友だちと親しく付き合う暇もなかった。ただ、毎回、同じ運命におちいった他の慰安婦たちと出会った。
当時の私の日本名は「モリヤ・スズコ」だった。後では「カネコ」とよばれた。慰安所では特に親しい友人もなく、毎日一人で自分の身の上を嘆きながら、故郷を懐かしく思い、父親を怨んだ。「私たちが釜山に来ないで、甘浦にいさえすれば、こんなことはなかったのに、なぜアポジは私たちを連れて釜山に行ったのか?」日帝を怨むことができないで、父親を怨んで怨んだ。
こうして悲しみに浸っているときは、故郷の歌を歌った。「アリラン、アリラン、アラリヨ、アリラン峠を越えていく」、「泣くな、福南よ、故郷を離れて行くとき、雨が降ろうと雪が降ろうとよく働くから、母さんどうか安心なさい……」、「汽車は出て行く、黒い煙と残る煙が、私を泣かせる」、「いつの日帰るふるさとか、父母いずこ、はらからいかに、姉は満州にいるのです」、「情にほだされ、金に泣く、ああわが身の上、ああ…ふたたび来られぬ…」
1940年のある日の朝、私は軍隊について移動して、山東省にある棗庄へ行った。基本的な環境と生活はハルビンにいたときと変わらなかった。ここでも軍隊の中にある慰安所に寝泊まりした。主人も日本人夫婦だった。私は折りさえあれば、逃げ出そうとした。ここでも反抗的だという理由でよく殴られ、ひどい拷問を受けた。
ある時は、顔をちゃんと化粧もせず、日本人軍人に反抗したという理由で、殺気立って殴られた後、また狭い監獄のようなところに閉じ込められた。
ふだん、慰安所で雑役を手伝ってくれていた中国人の老人李さんが、私の置かれた境遇があまりにも気の毒だといって、私が逃げるのを助けてくれた。漆のように真っ暗な夜、カチャッ、カチャッという音が聞えてきて、私ははじめは、ねずみが走っているのかしらと思った。しかし、まもなく、煉瓦が外されて、おじいさんの声がした。「娘さん、早く出なさい。私はあなたを助けに来たよ」。おじいさんは私を民家に連れて行ってしばらく隠しておき、服を着替えさせて、中国のお金を少しくれ、中国の名前を李天英とつけてくれた。私はこの老人への感謝を忘れないために、今もこの名前を使っている。
おじいさんは私に山の方へ逃げろと言った。そして、山の方に逃げて行くと二人の女と出会った。私はあまりびっくりして、また、警戒する気持ちで、お互いに身分を聞いたところ、彼女たちも朝鮮人慰安婦で逃げ出してきたところだといった。
私たちはおなじ身の上なので、ずっと一緒に逃げたが、間もなく、出動した日本軍たちが私たちを追い掛けて来た。二人は射殺され、私は手榴弾の破片が当たって捕まった。今も私の左ふくらはぎには、そのとき手榴弾に当たった傷痕が残っている。
私は捕まって拷問された後、再び監獄に入れられた。私を売り払ってしまおうという軍人たちもいたが、日本軍の必要によって、私をまた河北省石家庄に連れて行った。石家庄での生活環境もハルビンと似たりよったりだった。
石家庄で数ヶ月過ごした後、部隊の移動について山西省臨汾に戻って来た。私が香港にいた時、初めて東京と北海道から来た日本人慰安婦たちにあった。
国民党、共産党部隊の看護婦として
1944年末、米軍が日本を爆撃し始めた。追い詰められて行く日本軍の戦況によって日本の軍人たちと慰安婦たちは悲観的な日々を送っており、防空壕に隠れてばかりいた。
多くの人たちは遺書を書き、手当たり次第に食べたりして、死ぬ日を待っているありさまだった。こうした混乱の隙に乗じて私はまた逃げ出す冒険を選んだ。
九死に一生を得てやっとのことで脱出して、ある小川のそばで釣りをしている五十歳ぐらいの男の人に出会って助けを求めた。その人の説明どおりに尋ねて行くと若い夫婦がいた。彼らは私の服を着替えさせてくれた後、部隊のいる山の方へ登って行けば助けてもらえるだろうと言った。その山に登って行ってみると、そこは思いがけないことに、国民党の軍閥の一つである閻錫山の部隊であった。日本人の走狗(手先)部隊だと言われていたので、私もこの部隊のことは知っていた。この部隊で私は慰安婦の頃に習った簡単な看護の技術で、看護婦生活をした。
1945年日本軍が降伏した後、中国は共産党と国民党部隊が対立する緊張した状態に入った。私がいた閻部隊が共産党八路軍部隊に負けたので、私はまた共産党部隊で看護婦生活をすることになった。後には後方部隊に輸送されて、「闘争」病院でも看護婦生活をした。
1946年春頃、中国共産党と朝鮮共産党の協定ができて、「朝鮮人は祖国に帰って国家に忠誠を尽くせ」というスローガンの下に、朝鮮人に故国に帰る道が開かれた。
私は、共産党が書いてくれた紹介状と銀貨をもって、汽車に乗り乗り換えるために河南省安陽に行った。その時私は共産軍の服装をしており、胸に毛沢東勲章をつけていたために、安陽一帯を掌握していた国民党三二軍にスパイの嫌疑で捕まった。私が持っていたものは全部没収され、ちょっとでも夢見ていた帰国の希望は消えてしまった。
国民党の軍人は私を拷問したが、特別な情報は得られなかったので、釈放させ、新郷にある日本人の拘留所に送って雑役を手伝わせるようにした。
ある日、私が国民党三二軍の輸送部隊に行ったとき、故国に帰ろうとする何人かの朝鮮人と出会った。私はその時、故国へ帰りたかったのだが、周囲の人たちは、「あんた、今出て行ったら、外にいる人たちに売り飛ばされるだろうよ」というので、出ることをためらった。その時まで経験してきたことを考えると、恐怖感に襲われて、どうしていいかわからなかった。でも、結局、世の中があまりにも恐ろしくて、こわくなってそのままそこにいることにきめた。
平坦でなかった結婚生活
国民党部隊の移動について河南省鄭州に到着した。軍隊の垣から逃れ出られないので、失意に陥った日々を送っていたが、周囲の人たちが三二軍砲兵隊の運転手を紹介してくれて彼と結婚した。それ以前よりは生活も安定したため、しばらくでも新婚の幸福を感じることができた。
1948年頃、だんだん国民の支持を得ていた共産党と戦闘力が衰退しつつあった国民党三二軍が徐州で対決したが、ついに共産軍が優勢を占めるようになった。私の夫もこの戦争に参加した。当時の共産党の寛大な政策のおかげで国民党部隊の運転手であった夫もひどい拷問を受けることなく釈放され、一般人の生活をすることができた。
1949年から後、私たちは夫の故郷である安徽省舒域県に定着した。この時、共産党の土地改革政策で茶を栽培できる小さな土地が配分され、しばらく平穏な暮らしをした。
六・二五韓国戦争が勃発したとき、私は看護婦の資格で参戦を志願して、自分の故国に行ってみたかったのだが、家族たちの反対で夢を実現できず、夜を明かして泣いた。
しばらくして夫は、仕事のために六安市へ行き、私は残って婚家の家族たちのために尽くした。六安市へ行った夫はしばらくたって行方をくらませてしまった。私がそれを知って、私たちの関係は終わりになった。その後少しして私に子どもがいないという理由で強制離婚された。
離婚後、独り身で、あちこちを転々としながら、仕事をした。一時は建築現場で荒仕事もしたが、「生活態度不良」という罪名で労働教養所にに入った。
労働教養所は、強制集団労働収容所のような所で、私はそこで豚と牛を飼った。私はそこで自分の人生をあまりにも惨めだと感じるたびに故郷の歌を歌った。一般の中国人は私が中国のどこか方言で歌っているのだろうと思って、別に気に留めなかった。しかし、私が歌っている故郷の歌と私がふだん頭に物を載せて運ぶ習慣に目を留めたある女性幹部が私を事務室によんだ。この女性幹部は韓国戦争のとき戦争に行ったので、朝鮮の習慣をだいたい知っていた。
この時初めて、私の経歴が調査され、私の個人記録カードには、朝鮮人だということと慰安婦生活をしていたということが記された。私は労働教養所では、熱心に働いた結果、二十人の労働班の班長役をしたりした。
1961年頃、労働教養所で一人の中国人男性と知り合い、1964年頃に再婚した。私は世間の暮らしに疲れていたので、人間不信におそわれていた。それで、身体はたいへんでも、心だけでも安まる農村で気楽に余生を送りたかった。だから、夫の故郷である安徽省の太和県の農村に帰ろうと言い張った。
農村での生活は容易ではなかった。何もかも初めから覚えなくてはならなかった。私が労働教養所に行っていたことを知っている夫の親戚は私に対してひどく冷たかったし、私が子どもを産めないので、いっそうひどくいじめられた。
こうした生活の難しさとともに、慰安所時代によく殴られて苦しんだためか、病気になって手術を何度も受けねばならなかった。私を追い出そうとする親戚たちのため、そこに留まっているのがあまりに辛くて、私は一人で他の地域に行って働いた。
そこでも大病を患って労働も出来ず、飯が減るだけ仲間の労働者の負担になると非難されたので、とても辛かった。行くところもないのでまた夫のもとに帰ったが、だれも喜んで迎えてくれなかった。それからはずっと我慢してきた。
1966年から1976年まで続いた文化大革命によってそれまでに分配されていた土地は全部人民公社に渡って国有化された。それまで少しあった土地もなくなって人民公社で一日中働かねばならなかった。この期間には、私が外国人の身分だということで、行動上の制約をたくさん受け、定期的に政府の人がやってきて、私の思想と態度を記録した。まちがっていると、公開非難の対象とされた。
その頃、私が暮らしていた家は、雨が降れば雨が漏り、雪が降れば部屋に雪が吹きこみ、風が吹けば屋根が飛んでしまうような窓もない草ぶきの家だった。
寝台もなく、凍てついた床に綿もない布団を広げて座り、寒い冬をすごさなければならなかった。雪の降りしきるある寒い冬の日、薪を探しに素足で外へ出て凍傷にかかり、足の踵が二センチぐらい割れて、冬じゅう苦しんだこともある。
1971年頃、中国で北朝鮮の映画「花売る乙女」が上映されたが、その時私は合肥の病院で手術を受けて休んでいる時だった。医者は私に動いてはいけないと言ったが、私はその映画をどうしても見たくて、こっそり抜け出してその映画を見た。この映画を見たあと私は精神錯乱におちいり、野原に飛びだして「祖国へ帰るんだ、祖国へ帰るんだ」と泣き叫んで、気を失った。
たまたまこのニュースを知った中国の青年が私を訪ねて来て、自分が私の息子になるからお互いに助けあって暮らそうといった。私たちはその日に母子の関係を結び、ずっと連絡をとりあって暮らしてきた。
現在は国の保護対象者として、国から出る一月二十五元(韓国の金で2500ウォン、日本円で320~330円程度)が私の生活費である。二十五元で夫と私が一月暮らさなければならないので、食べたい物も思うように食べられず、病気になっても病院に自由に行けない。こんな切り詰めた暮らしの中でも、私の養子が一月120元の月給の中から私によくしてくれているので、なんとか生活している。
息子が韓国と中国が国交を結んだということを知って、私たちは書類などを準備して北京にある韓国大使館に行ってきた。それから後、私のいろいろなことが世間に知られた。南京にいる韓国と日本の留学生たちの募金で、その間借金をしていた薬代も返すことができた。
その後、韓国に行ってくる機会もできた。ソウルの上道教会の招きで1994年6月10日から21日まで韓国を訪問して、私の故郷にも行ってみたし、親戚たちにも会った。今は死んでも思い残すことはない。それでも、残る人生を本当に私の祖国で、私の身内のものたちと生活して一生を終えることができたらと思う。
私は日本のために、暗く悲惨な一生を送って、今はシベリアのような安徽省の田舎の村で病気だらけで苦しい生活をしているのに、日本政府はなぜ、まだ自分たちのしたことを認めていないのか。私がこのように生きた証人となっているにもかかわらず、なぜ、否認しようとするのか。
私はれっきとした韓国人である。韓国政府は私が韓国でくらすことができるようにしなければならない。
私の戸籍も韓国にあり、私の身内もみな訪ねたのに、なぜ、私が今も中国で暮らさなければならないのか。到底理解できない。発展した私の国でいつまでも暮らせればよい。