「帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い」(朝日新聞出版)の著者(朴裕河)は、いろいろなところで、具体的に例をあげ、日本政府は、韓国に対し日本軍「慰安婦」の問題について、反省と謝罪を繰り返してきたと書いています。でも、その反省と謝罪の内容については、問題にされていません。逆に、大統領と首相が顔をあわせるたびに謝罪があったのに、韓国側がそれをきちんと受け止めてこなかったことが問題であるかのように書いています。私は、それが受け入れ難いのです。
国際法律家委員会(ICJ)の「最終報告書」作成に関わったウスティニア・ドルゴポル(南オーストラリア・フリンダース大学)教授は、被害者に対する日本政府の「民間基金」の対応について痛烈に批判し、”お金を民間基金から出すということは、政府が道義的にも法的にもまったく責任を拒否することです。”として、”非常に侮蔑的なものであり、被害者のことをまったく考えていません”と断じています。
また、国連人権委員会オランダ政府代表のテオ・ファンホーベン(リンバーク大学)教授は、この問題に対する日本政府の意見を悉く法的に批判されています。日本政府の意見は国際社会で通用しないものであり、日本政府の意見では、この問題の根本的解決はできないということだ思います。
日本政府の意見は下記の8項目ですが、教授の批判を読むまでもなく、日本政府の責任回避の姿勢が明らかだと思います。ドイツの戦争犯罪に対する姿勢を見習うべきだと思います。
a 現在の段階で、人権の分野においては一般的に個人は国際法上の主体として認められいない
b 個人の被害者は、国際法のもとでいかなる被害回復を受ける権利も持たない。国家の責任は国家間の関係に限定される
c 種々の法律システムの間にある差異が充分に念頭におかれなければならない
d 「人権と基本的自由の重大な侵害」という概念は、法律概念として空疎である
e 何が「国際法の下における犯罪」を構成するかについての共通の理解は存在せず、違反者を訴追し処罰する義務は、国家の普遍的な義務ではない
f 「刑事免責」(impunity)の概念が明らかでない
こウスティニア・ドルゴポル教授やテオ・ファンホーベン教授の判断を踏まえると、日本政府が繰り返したという反省と謝罪が、韓国で受け入れられないのは当然ではないかと思います。日本の首相の反省や謝罪は、あくまでも個人的なものであり、日本は、戦争責任に関する法的な判断、戦争犯罪に関する捜査・訴追をまったくしていないのです。
下記は、「中国に連行された朝鮮人慰安婦」韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会:山口明子訳(三一書房)から抜粋したのですが、「いちばん辛かった長沙の慰安所」の文章の中に、”慰安所にいる時、朝鮮人の軍人が来ると、二人で抱き合って泣いたものだ。”とあります。朴裕河教授はどのように受け止められるのか、と思います。
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家の中でも、外に出てもみじめだ
洪江林(ホン・ガルリム)
幼いときから、苦労がはじまった
私は1922年、7月23日生まれ、今年で満七十二歳になる。小さい頃、故郷の慶尚北道金泉で暮らしていたときから、ずっと苦労の続きだった。
私の父は農地がなくて百姓ができないので、竹の籠を編んで売る商売をしていたが、うまく行かなかった。その上もっと悪いことには、母は弟を産んでから足を悪くして、歩けなくなった。だから、私は弟を負ぶって炊事をした。兄がいたけれども、ご飯の支度や弟の子守は私の仕事だった。
私はもちろん、兄も学校の近所までも行くことができなかった。私は今も読み書きができない。暮らしが苦しいので、十二歳のときから日本人の家に働きに行った。
朝行って、そこの家の子どもの守りをし、仕事もした後、夕方には家に帰って家族のご飯をつくらねばならなかった。その家で働いている間、苦労も苦労したが、食べることもろくにできなかった。その家には五十歳くらいの元気なあばあさんがいたが、ある日うちの両親に話もしないで、私を連れていって、汽車に乗ろうとした。
私が汽車に乗って出発しようとしたとき、どうして知ったのか、兄さんが動きはじめた汽車に駆け寄って泣いていたことが思い出される。後で知ったことだが、私がたったあと母は娘をなくしてしまったとたいそう泣いたのだという。後で奉天から手紙を出したが、両親はその時になって、私がどこに行ったのかやっと分かったのだという。
そのおばあさんは私を奉天に連れて行った。私が数えで十七歳の時(1938年)だった。
あそこが小さいとメスで切られて
奉天のその慰安所は、軍の近くにあった。慰安所として使っていた建物は、もともと中国人が住んでいた住宅だったが、日本の軍人が家の持ち主を追い出して、慰安所として使うことになったのである。軍人たちが来て、部屋に間仕切りをしていくつもの部屋を作った。家は平屋建てでたいへん広かった。十五人くらいの女たちがその家にいた。
初めて軍人の相手をさせられたときは、とても痛くてワァワァ泣いた。その後も本当によく泣いた。逃げようとは思いもしなかった。慰安所の外に出ることさえ出来ず、出たとしても、どこがどこだか分からないのにどうして逃げ出せるだろうか。がっくり気落ちして泣いてばかりいた。私があまり泣くので、主人は、ちょっと休んでまた軍人の相手をしろと言った。
しばらくして、また軍人の相手を始めた。それからいくらもたたないうちに、定期検査をしながら軍医が、あそこが小さいからだと、私の膣の入り口をメスで切り裂いた。麻酔もしないで、その痛さは口で言い表せないほどだった。身体が小さい私は、下半身も小さかったのか、軍人たちを何人か相手をするともう痛くてたまらなかったので、その軍医は、いっそ切って大きくしてしまえばすむと考えたようだった。
慰安所での私の名前は、「ユキエ」だった。私のいた部屋は小さかった。主人が布団をくれたが、それをかけただけでは寒いので、金のある人は自分でも布団を買った。朝と晩にご飯を二度食べた。お腹が空いているのか空いていないのかも分からなかった。一週間に一度ずつ慰安所に軍医が来て、女たちを検査した。主人からサックをもらって使った。
慰安所で私は病気にかかり、治療をうけたことがある。肋膜に水がたまって注射器で黄色い水を抜いたのだが、がまんができないくらい痛かった。その後、一月ばかりは軍人の相手はできなかった。
「お客さま」(私たちは、相手の軍人をこう呼んだ)をたくさんとれば、主人は喜んでご飯もたくさんくれ、よくしてくれるが、お客がすくなければ、雑言をあびせられた。身体の丈夫な女は、お客をたくさんとり、身体の弱い女はお客を少しかとれなかったが、私は身体が弱かったので、お客を少ししかとらなかった。お客が入って来ても、身体の具合が悪いからだめだといって、主人が知らないうちにそのまま追いだしたりもした。そうしなければこっちの身がもたないのに、どうしろというのだろうか。ある軍人はそのまま出ていってくれたが、ある軍人は「ばか野郎」と悪態をつきながらでていった。そうすると主人は私に「なぜ客を帰したんだ」と文句を言って殴り、ご飯もくれなかった。私が夜も昼も泣いてばかりいるので、主人は上海に売ってしまった。
上海に売られて
奉天の慰安所の主人は、上海に私を連れだしたまま行ってしまった。また、売られてしまったのである。上海の慰安所の主人もやはり、朝鮮人の夫婦だったが、奉天の主人にくらべて、人がよかった。上海は家がたくさんあって、賑やかだった。
この慰安所には、朝鮮の女たちが十五人ぐらいいた。 女たちの年は十五歳からニ十歳ぐらいだった。
上海で一年ぐらい過ごした後、上海の主人は、私たち女たちを連れて南京に移った。ところが南京には、この主人が経営するのにちょうどいい慰安所がなかったので、再び、湖南省の長沙にいった。南京にいる間は、旅館ではなく、他の人が経営する慰安所に泊っていたが、そこでも軍人を客として迎えた。
いちばん辛かった長沙の慰安所
湖南省の長沙には、日本の軍人がとても大勢いた。そこでの生活は本当に窮屈だった。そこでは、女たちは、代わるがわる一ヶ月ずつ小隊の軍人たちの相手をしに行かなければならなかった。大きな部隊の近所に慰安所があり、その周辺には小隊が散らばっていたのだが、その小隊に女たちが交替で行ったのである。
主人が私に、ある部隊に行けというと、中国人の人夫が曳くそりについて、小隊に行かねばならなかった。そりには布団を一組積んで行くのである。
私はそりについて歩いていくのだが、小半日歩き続けた。部隊の前の小さな小屋で一か月間、私一人でその部隊の軍人たちの相手をしなければならなかった。一日に何人もひっきりなしに来るので、数えきれないぐらいほんとうにたくさんだった。一人が出ていくと、すぐにまた入って来る、出ていくとまた入って来るというように、昼も夜もやってきた。入り口の前に軍人たちが列を作って待っていた。
食事は一日二度ずつ、部隊から軍人たちが食べる茶わんに入れて持ってきてくれた。休める日もなかった。どのくらい痛かったかわからない。あまりたいへんなので、自分の身の上が悲しくて、ご飯も食べずに、山に行って泣いたこともある。そうすると、金をもらっている中国人の人夫が登って来て、軍人たちが探しているといって私を連れ下りた。だから、しかたなく下りてきて、また相手をした。話をすればたくさんあるけれど、とても全部は話しきれない。帰って来るとき、余り痛くて私が歩けないでいると、布団を積んでいく中国人が見兼ねて、そりの上に座れといって乗せてくれたりした。
中国人の男は軍人から金を受け取って主人に持ってきてやった。小隊にいるときにも、一週間に一回ずつ、性病検査をしに医者がきた。私はサックを使わない客はとらなかったからか、性病にはかからなかった。私が帰ってくると、他の女の子が交替して出掛けて行った。このように長沙にいちばん長くいたけれど、何年になるのか分からない。
一度は酒に酔った軍人が刀を持ってきて、乱暴を働くので、手洗いに逃げ込んで中から鍵をかけ、息を殺していたこともあった。
慰安所にいる時、朝鮮人の軍人が来ると、二人で抱き合って泣いたものだ。朝鮮人の軍人の中には私と同じ故郷の金泉の人もいた。彼は、関係しないで、主人にこっそりと私にお金をくれた。また、全羅道出身の運転兵がしょっちゅう私のところに訪ねて来た。
口のきけない人のように
日本が戦争に負けたあと、主人は荷物を風呂敷に包んで逃げ出してしまった。日本人たちも、風呂敷包みを背負って車に乗り、行ってしまった。戦争に負けて何もかも大混乱だった。
中国人たちは私たちを日本人であると思って、着物も全部奪い、やたらに殴った。私も殴られた。中国人たちが食ってかかり、殴るので、女たちはおじけづいて、車の便があるとそれに乗って、ばらばらに散っていった。
慰安所に訪ねてきた朝鮮人の運転兵が私に武漢の積慶里に行けと教えてくれた。そのころは武漢へ行く船に乗る朝鮮人が男も女もとてもたくさんいた。自動車に乗ったり、船に乗ったりした。
私をいれて四人の女は武漢へ向かう小さな櫓で漕ぐ舟に乗った。舟に乗せてくれた中国人はずいぶん年よりだった。他の女たちは私と同じ慰安所にいた人たちではなく近所のほかの慰安所にいた人たちなので、だれがだれなのか分からなかった。そして、なかの一人は舟に乗るときから病気だったが、結局、舟の中で死んでしまった。舟の持ち主がその人を河の中に投げこんだ。
武漢で舟を降りた後、一緒に来た人たちはまたばらばらになった。その時は中国語もできなかったので、恐ろしくてぶるぶる震えていた。
武漢に来て、積慶里にいる朝鮮の女たちが鞭で打たれている声が外に聞こえてくるという噂を聞いたので、私はそれを信じて、私も打たれるのかと恐くなって、そこへは行かなかった。後で李鳳和ハルモニから聞くと、そのころ積慶里では阿片を吸う朝鮮の女たちを別に集めていたが、その女たちの叫ぶ声だったという。
私は日本租界の酒を売る店で、おかずを作ったり、雪掻きをする仕事をした。
ある寒い日に、酒屋の前に出て座り、行くこともできず、帰ることもできない自分の身の上を考えて泣いていた。その時、通りかかった一人の男が、あんたはなぜ泣いているのか、どこから来たのかと聞き、かわいそうだと私を自分の家に連れて行った、その家に行ってみると、金もなければ、食べるものもない、もっとひどいことには着るものや布団もなく、何もなかった。それでも、しかたがないじゃありませんか。その家に暮らすほかに、どうすることもできないのだから。彼は二十三歳の独身の男だったので、私は彼とすぐ結婚した。その家には夫の祖母もおり、父親もいた。私は口のきけない人のように言葉もしゃべれなかった。飯を食べろと言われれば食べ、座れと言われれば座り、寝ろと言われれば寝た。ことばが聞き取れないので、どこがどこだかも分からなかったから、夫がしろというままにするほかなかった。その苦しみも口では言えない。
結婚していくらもたたぬうちに、私はまたある中国人に捕まった。私を日本人だと思って、風呂屋に閉じこめておき、飯もくれなかった。恐ろしくてことばも出なかった。どれくらい泣いたか分からない。夫も外で泣いた。そうしたら、半月ぐらいで釈放された。
一時、子どもができなかったので、夫は子どもも産めない女だと私を殴った。考えてみると、故郷でも苦労し、慰安所でも苦労し、この家に来ても苦労して、飯もろくろく食べられないのだから、こんなところで生きていたくない、いっそ死のうと、家を出て河のそばに行った。生きていてもしょうがないと思った。ところが、夫が駆けつけてきて、家に連れもどされた。
その後、二人の息子を産み、最初の子は生まれてすぐ亡くなり、二番目が今、四十六歳にさる。息子は前には食品工場に勤めていたが、その工場がなくなったので、今は家でぶらぶらしている。
夫とけんかをすると、夫はお前は朝鮮人だからそうなのだという。私も本性が出て悪態をつくと、私が慰安婦だったということを言い出して、殴ったこともあった。
その夫も一年前にあの世へ行ってしまった。私は三十歳を過ぎてからは、武漢紅旗太白粉倉で働いていたが、退職した。今はその会社から毎月出る退職年金で暮らしている。