日本には、池澤夏樹氏の他にも、朴裕河世宗大学教授の書いた「帝国の慰安婦」を高く評価する知識人がいると言います。重大な問題だと思います。
なぜなら、「帝国の慰安婦」には、地獄の苦しみを味わった辛い過去を勇気をもって語り、名誉・尊厳・人権の回復のために、慰安婦であったことを名乗り出た人たちを、再び地獄に突き落とすような記述や論理がみられるからです。また、不当ともいえる軍人恩給の復活を認め、日本の戦争責任の問題を不問に付すことにもなると思うからです。
軍人恩給については、<「帝国の慰安婦」 事実に反する断定の数々 NO6>でも書きましたが、GHQが「この制度こそは世襲軍人階級の永続を計る一手段であり、その世襲軍人階級は日本の侵略政策の大きな源となったのである」と指摘し、「惨憺たる窮境をもたらした最大の責任者たる軍国主義者が…極めて特権的な取扱いを受けるが如き制度は廃止されなければならない」として、廃止させたものです。
にもかかわらず、戦後日本が主権を回復するとすぐに軍人恩給を復活させました。だから、日本の戦争被害者の補償は、軍人を中心としたものになり、その支給金額も、原則として当時の階級に応じた(仮定俸給年額:兵145万円~大将833万)ものになっています。戦後も戦時中の考え方で貫かれているのだと思います。大きな戦争責任を負うべき人ほど多額のお金を受領してきたところに、日本の戦後政治の問題点が象徴的にあらわれていると思います。
したがって、同書を高く評価することは、日本国憲法に基づく日本の政治を否定し、戦争責任を回避しようとする戦前回帰の政治を追認することになると、私は思います。戦後補償はドイツのように公平におこなわれるべきだったのではないでしょうか。軍人恩給復活以降、旧軍人軍属や遺族らに対する補償、援護は累計で50兆円を超えているのに、元従軍慰安婦(日本軍慰安婦)であった人には、国による法的賠償をせず、見舞金で処理しようということに、私は賛成できません。
また、 ”「朝鮮人慰安婦」として声をあげた女性の声にひたすら耳を澄ませ”たという「帝国の慰安婦」の著者(朴裕河)が、下記のような元従軍慰安婦(日本軍慰安婦)の証言に基づいてではなく、情報将校であったという小野田寛郎氏の、”彼女たちは実に明るく楽しそうだった。その姿からは今どきおおげさに騒がれている「性的奴隷」に該当する様な影はどこにも見いだせなかった”などという証言に依拠して議論を進めることが、私には理解できません。もちろん、慰安婦の置かれた状況は、時期や、地域や、戦況によって異なり、小野田寛郎氏が指摘するようなことがなかったとはいえません。しかしながら、すべての慰安婦がそうであったかのように、また、いつもそうであったかのようにいうことは、明らかに間違いであることを、下記の証言が語っているのではないかと思います。従軍慰安婦(日本軍慰安婦)の問題は、日本政府が慰安婦であったことを名乗り出た人たちに、どのように対応するかの問題であることを忘れてはならないと思います。
だから、少々長いのですが、「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編(明石書店)から「 挺身隊から慰安婦に」を抜粋しました。
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挺身隊から慰安婦に
姜徳景(カンドクキョン)
女子勤労挺身隊一期生として日本に
私は1929年二月に、慶尚南道晋州(チンジュ)の水晶(シュジョン)洞で生まれました。父は早くに亡くなり、母が再婚したので私はほとんど母の実家で育ちました。母方の暮らしはまあまあ裕福な方でした。
水晶洞の近くにポンネ国民学校がありましたが、私は吉野国民学校(現在の中央国民学校)に通いました。三十一期の卒業生です。六年で卒業し家にいましたが、母が見かねて高等科にいかせてくれました。高等科は私が入学する頃新しくできたばかりで、まだ一クラスしかなく、学生は六十人くらいでした。
十六歳になった1944年六月頃、女子勤労挺身隊一期生として日本に行きました。吉野国民学校高等科一年生のときです。高等科一年の日本の担任の専制が家庭訪問に来て、挺身隊に出るように言われました。勉強もできるしお金にもなるという話でした。先生が帰った後、私にだめだと言って母が泣いたりわめいたりして大変でしたが、私は行くことにしました。私のクラスから級長と私の二人が行きました。級長だった友だちはクラスで一番勉強ができ、家も金持ちでした。
晋州から集まった隊員は五十人でした。馬山(マサン)からさらに五十人が汽車に乗込み、釜山に行ってみると他からも五十人来ていて全員で百五十人になりました。出発の前にみんなで道庁に行きました。道知事も参席して道庁前の広場で開かれた「壮行会」で、私の友達が出挺の式辞を述べました。晋州では壮行会はありませんでした。
釜山から連絡船に乗って朝出発しましたが、船に乗ると涙がでました。船の両側には軍艦が二隻、飛行機が二機ついて来ました。船は三階建てで、私たちは一番下の階に乗りました。
飛行機工場で──空腹の記憶だけが
下関に到着した後、汽車に乗って富山県の不二越飛行機工場に行きました。工場に到着すると年配の男性と女性、二人が迎えに出ていました。
到着するなり真っ先に工場をぐるりと見学させられ、旋盤をどういうふうに扱うのかも教えてくれました。工場はどれほど大きかったでしょう。その敷地は当時の晋州よりももっと広いように感じられました。とにかくたくさんの人がいました。四方に塀があり門番もいて、寄宿舎からかなり歩かないと工場には着きませんでした。
工場では胸に女子挺身隊と書かれたうす黄色の服と帽子をくれました。寄宿舎に帰れば家から持ってきた服を着ましたが、工場ではその制服ばかり着ていました。仕事のときは必ず帽子を被っていました。帽子を被っていなかったために髪の毛が機会に巻込まれて死んだ人もいました。
寄宿舎は正門の近くにありました。寄宿舎の寮長は男性で、私たちを指導する女性たちもいました。仕事を本格的に始める前に女性の指導員が遠足に連れていってくれましたが、そこが新湊と伏木の境界付近でした。海がありその近所には朝鮮人がたくさん住んでいました。私たちが水を汲みにいくと、朝鮮から来たのかととても喜んでくれ、私たちも本当にうれしくて抱き合って喜びました。寄宿舎の食べ物は味がうすすぎて困っていたので、塩を一かたまりだけほしいと頼みました。そしてそのあたりをよく見ておいたのです。
勤務時間は十二時間で早番、遅番を一週間ずつ交代でしました。そこでの仕事は旋盤で機械の部品を削ることでした。部品は非常に精巧に削らねばなりませんでしたが、材料が固すぎるときにはバイトが焼けてしまい、一日を棒に振ることもありました。晋州から一緒に行った隊員たちは全員旋盤で部品を削る仕事をしました。全羅道から来た隊員たちは鉄を切断する仕事をしていましたが、削った小さな鉄がとてもきれいだったので寄宿舎に持ち帰ったところ、スパイ容疑がかかると言って指導員が持っていきました。月給は貯金してやると言われたような気がしますが、実際に見たことはありません。
工場では仕事もきつかったけれど、とにかくお腹がすいて我慢できませんでした。ご飯と味噌汁それにたくあんがせいぜいで、ご飯もほんの少ししかくれません。ご飯を大事に食べようと一粒ずつ数えながら食べたり、箸についた飯粒もきれいに食べました。そのご飯も食べずに隠しておいて、あとで食べる子もいました。昼食は小さな三角の豆餅三つでしたが、お腹がすき過ぎて昼食時間の前に全部食べてしまっていました。夜勤のときは、仕事が終わって寄宿舎に戻ると朝食をくれるだけで、夜まで何もくれませんでした。それで他の部屋の食事をこっそり持ち出して食べたりもしたのです。そうすればその部屋の人たちが食べられなくなるということもわからずに。とにかくあまりにお腹がすくので家に葉書を送ったところ、塩と豆を送ってくれたのでお腹の足しにしたりしました。家にいるときには食が細く、おばあさんに心配をかけたことを後悔したものでした。
工場では私たちより年上の三人の日本人女性も一緒に働いていました。彼女たちは弁当を持参して出退勤していました。時には家から洗濯石鹸を送ってもらってそれを日本人女性に渡し、ご飯や塩にかえてもらって食べたりもしました。工場での生活がつらく、とにかくお腹がすくので、全羅道から来た一人の子は気がふれてしまいました。するとその子は工場から故郷に送り返されました。後に他の子も道でひっくり返って、気がふれたふりをしましたが、嘘をつくなと言われて家に送ってもらえませんでした。
工場で一冬過ごしました。屋根が見えなくなるくらい雪が積もり、寄宿舎から工場までの道には屋根を被せました。夜勤の時には日本人は時間通りに食事をしましたが、私たちは夕方前に豆餅を食べ終わっていたので、食事時間には溶鉱炉の横で泣きながら縮こまって眠ったりもしました。
寄宿舎の部屋は十二畳ほどの広さでしたが、十二ないし十三人が一つの部屋で暮らしました。布団は毛布も含めそれぞれ三枚ずつくれました。寄宿舎はかなり広くて全部見て回れないほどで、誰がどこにいるのかもわかりませんでした。寄宿舎では日本人を見ることはなく、朝鮮人は晋州、馬山、全羅道等同じ故郷出身同士がそれぞれの班に分けられていました。
晋州の人の中では私の友だちが大隊長、私が中隊長でした。だれがそういうふうにつけたのか思い出せません。中隊長といっても一度友だちと歌の歌詞をつけた以外に私がしたことはなく、その歌は今でも覚えています。学校で習った日本の軍歌に歌詞をつけて日本語で歌いました。
ああ山こえて海こえて
遠く千里を挺身に
はるかに浮かぶ半島の
母のお顔が目にうかぶ
雪がこんこん降るなかを、晋州から来た者はみんなその歌を歌って通いました。
あるとき私たちの班の隊員たちがストライキを起こしました。朝布団に入ったまま起きないように約束したのです。女の指導員が起こしにきた時、全員布団をかぶって最後まで寝たふりをしました。その日は結局時間が過ぎても仕事に出かけませんでしたが、そのことでご飯ももらえず、ひどく叱りつけられました。
不二越工場に到着してから二ヶ月ほど経った頃、お腹がすいて明け方に逃げ出したことがあります。以前に行ったことがある新湊の家に班長の友だちと一緒に逃げました。その家に隠れていたのですが、どうしてわかったのか寄宿舎から捕まえに来ました。工場に引っ張って行かれ何度もぶたれました。模範を見せなければならないおもえたちがこんなことをして、と怒鳴りつけられました。
その後晋州からさらに五十人が来ました。その中に私より一歳年下で親戚の姜ヨンスクがいました。私は彼女に、こんなひどいところになんで来たのかと叱りました。そしてどうにかして抜け出そうと工夫し、しばらくしてから再び友だちと一緒に逃げたのです。
逃げ出したが軍人に連行され
夜でした。鉄条網を持ち上げ抜け出して、前に逃げたのとは違う方向に行きました。が、工場からいくらも離れていないところでうろうろとまよっているうちに軍人に捕まってしまいました。友だちとは死んでも手を放さないでいこうと言っていたのに、捕まってトラックに乗ってみると私だけでした。トラックは憲兵、運転兵と私の三人だけでした。
私を捕まえたのは赤池に三つの星の階級章をつけた憲兵でした。最初は名前も階級もわからなかったのですが、後で何度も見るとわかるようになってきました。その憲兵は自分の名前を「コバヤシ・タテオ」だと言っていました。
運転兵の横に座らされましたが、そのコバヤシは途中で車を止めさせ、私に降りろと言って山影に連れてきました。天と地の区別もつかないような真っ暗な夜でした。そこで彼は私におおいかぶさってきました。男の相手をするということがどういうことかも知らず、怖ろしくて抵抗もできずじまいでした。今なら舌をかんで死ぬところですが、その時はただ恐くて悲しくて呆然とするだけでした。
再び車に乗ってある部隊に到着しました。部隊の横に見張りが二人立っていました。その部隊の後ろにテントのような家があり、しばらくここにいろと言われました。そこにはすでに五人の女性がいましたが、彼女たちは何も言わずにただ私を見るだけでした。到着してからすぐに夜が明けました。
テントのような家は布でできた仕切りのいくつかの部屋に分けられていました。私がいた部屋は大きさが畳一枚半ぐらいでしたが、畳は敷かれていませんでした。夜は軍用の簡易ベッドで寝ました。そこにいるほとんどの人たちは私より年上でした。最初は恐ろしいし心の余裕がなく話もできなかったので、そこで何をするのかも知りませんでした。
三日ほどしてそのコバヤシが来てまた同じことをしました。それから軍人たちが来はじめたのです。
そこでは日に十人位の相手をさせられました。昼間来る軍人はなく、土曜日の午後からたくさんやってきました。私のところにはコバヤシという憲兵が頻繁に来ました。彼の他には泊っていく人はいませんでした。夜は主に女の子同士で寝ました。軍人に比べて女の数が足りず、休める日はありませんでした。恐さもあり、またとにかく陰部がほてって痛く、まともな状態ではありませんでした。
よそから軍人が来れば夜どこかに連れだされることもありました。私はそこで「ハルエ」と呼ばれました。軍人たちに名前を呼ばれたら、その女性は敷布団を持って軍人について出て行かなければなりませんでした。真っ暗な山影で人数もわからない軍人たちに輪姦されました。足の付け根があまりに痛くて歩けないので、軍人たちに引きずられるようにしてテントに戻りました。その時の何とも悲惨な気持ちは本当に言葉では言い表せません。
服はコバヤシが持ってきてくれたものと、工場から逃げ出すとき小さな風呂敷包に入れて持ち出したものとを着ていました。食べ物は軍隊から持ってきてくれましたが、握り飯を食べたのを覚えています。土の上にちゃぶ台を置いてうずくまって食べました。コバヤシがこっそり握り飯や乾パンをを持ってきてくれることもありました。彼も最初は非常に恐かったけれど、後には少しましになりました。そこでは診察のようなものは受けませんでした。
そこにしばらくいてから部隊が移動しました。高級タクシーのように車体の長い国防色の自動車一台とトラック二台に分乗し、女たちは軍人と一緒にトラックに乗って暗いうちに移動しました。
どうにかして逃げ出せないものか
二度目の場所には丸一日もかからずに着いたようでした。車に乗って移動する時片側にはずっと海が見えていて、はんたい側には山がありました。到着すると近くに池のような川のようなものがあり、大部分は畑でしたが、周囲は森のように木が繁っていました。雪がたくさん降っていました。部隊はとても広く、平べったくて屋根の平らな建物が何カ所かありました。前のところとは違って民家もかなりありました。
私たちが入った家も屋根が平たく、扉を開けて入って行けば前に廊下があり、部屋がいくつかありました。各部屋に入れば後ろに窓がありました。部屋には畳が敷かれていました。
私たちが到着したときは二十人くらい女がいたでしょうか、がやがやと結構賑やかでした。しかし先にいた女たちがどこかに行ってまた戻ってくることもあり、日によれば五、六人しかいないこともありました。
部隊は大きかったけれど、軍人はそれほど多くなく一日に数人の相手をしました。そこでは泊って行く人もいました。お金や券のようなものはありませんでした。
ドアの左側に大きな部屋があり、その右側に小さな部屋がありました。私たちは主に大きな部屋にいましたが、軍人たちは外で待機してから入ってきました。軍服を着た人に呼ばれて向かい側の小さな部屋に入って行きました。その部屋は二人が寝れば少しの隙間しかないほどでした。敷き布団と毛布があり湯たんぽがありました。湯たんぽは足元においたり、抱いて寝るように言われましたが、冬がものすごく寒かったという記憶はありません。
ここに来てからは知恵も働き、私に親切なポクスン姉さんとコバヤシにいろいろ尋ねてみました。ポクスン姉さんは同じ建物に暮らしていましたが、一番長くいるということで三十過ぎに見えました。私はポクスン姉さんに、ここから富山県まで遠いのか、ここはどこなのか聞きました。ポクスン姉さんは富山は知らないといいました。私たちがいた地名を聞いた気もしますが、思い出せません。そして「私たちのお金はあいつら(軍属)がみんな持っている。私たちにはくれずにやつらがみんな持っている」と言っていました。また私に「おまえは軍人につかまって連れて来られたのに、お金ももらえずにかわいそうだ」とも言っていました。
またコバヤシをやんわりとだましてみようとしました。「この人をうまくだませれば逃げられる」と思ったので、最初は笑顔まで作って「富山県まで遠いの?」と聞いてみました。初めは何も教えてくれず、「軍事秘密だ。そんなことを知ってどうするんだ」などと言っていましたが、「ここに天皇陛下の御所がある」とか「ここに来られる」とか言ってたことがありました。「ここがどこかは教えられないが、すぐに家に送ってやるから」と言いました。そして私が不二越にいたことに気づいたようで、「おまえは工場にいたのか?」と聞かれました。軍人の中では主にコバヤシとだけ話をしました。体の具合がひどくあまりに悲しくて、鉛筆を借りて「ああ山越えて海越えて/上等兵に捕まって/私の体は引き裂かれた」という歌詞にして、工場にいるとき歌った軍歌につけてみました。ある日その歌をコバヤシに聞かせてやると、彼は私の口に手を当てて歌をやめさせました。そしてだんだん最初の頃のようには来なくなりました。
ポクスンとコバヤシ以外の人とはほとんど話をしませんでした。一緒にいた女たちとも目があえば見つめあって首をたてに振るだけでした。彼女たちの名前も軍人たちが「メイコ」「アキコ」と呼んでいた記憶しかありません。私はひたすら身をちぢめて歩いていました。
そこには階級章のない国防色の服を着た何人かの男がしょっちゅう出入りして、その人たちがご飯を運んでくれました。食事はみな一緒ではありませんでした。中味もまずしく、味噌汁とたくあん、たまにはごぼうの煮物がありました。一度コバヤシが酒に酔っていなり寿司を持ってきてくれたことがありました。ポクスン姉さんはどこに行くのか、夜出かけて外で食事を食べてきたりしました。誰かにどこに行ってきたのと聞かれて、「あっちの家」と答えていました。畑に行っておかずになりそうなものを取ってきたりもしました。
ここでもコバヤシが服を持ってきました。着物は着たことがありません。ブラウスにスカートを着ていました。
私は体が辛いので、横になっている方がよくて、近くでも外にはほとんど出ませんでした。陰部が痛くてまっすぐに歩くのもたいへんでした。ポクスン姉さんは「南から軍人がいっぱい来るよ」と教えてくれましたが、私は土曜日が来るのが死ぬほど恐く、本当に逃げ出したくてたまりませんでした。
悲しみを抱いて故国に
ある日あまりに静かなので変に思い、同僚の一人と部隊まで行ってみると、見張りもおらず軍人たちが皆かがみこんで泣いていました。わけがわからず通りの方にでると、路上で「万歳(マンセ)」という声が聞こえました。朝鮮人のおじさんがトラックの上で旗を持って行ったり来たりしていました。徴用で来た人のようでした。あちらこちらから人が出てきて騒々しくなっていました。私はその人をつかまえて「どこにいかれるのですか、私も連れて行ってください」と言いました。おじさんは「どうしたんだい」と驚きながら聞きましたが、慰安婦生活をしていたことは言いませんでした。ただ富山県まで連れて行ってほしいと頼みました。そのとき日本には新湊にしか朝鮮人がいないと思っていたのです。おじさんが大坂までなら連れて行ってやれると言うので、あわてて風呂敷包を抱えてトラックに乗りました。その時おそらくそこにいたニ、三人の女も一緒に乗ったと思います。ほかの朝鮮人女性たちとはばらばらに別れてしまいました。
大阪に到着するとそのおじさんが握り飯をくれました。それからほかの人に私を紹介して、トラックと汽車に乗って新湊まで連れて行ってくれるようにしてくれました。
不二越工場から最初に逃げ出したとき、ご飯を食べさせてくれたことのあるパンさんの家に行きました。今までどうしていたのか話してみなさいと言うので全部話しました。すると朝鮮に帰るまで自分の家にいるようにと言ってくれました。それでその家でご飯をもらい洗濯もしてもらいながら過ごしました。四、五ヶ月してから寒い冬の日にパンさん一家と一緒に大阪まで出て、ヤミ船に乗りました。
パンさんの家にいるとき、そのおばさんも私が妊娠していることに、私より先に気づきました。私が日本の軍人に連行されたのは初潮の前でした。最後の慰安所にいたとき血がうっすらにじんでいたのを見たのですが、その直後に妊娠したようでした。それで私は玄界灘を渡る船の中で海に飛び込んで死のうと思いました。しかし私の様子がおかしいのに気づいたおばさんが死なないように横にぴったりくっついていました。
パンさんの故郷は全羅道だったようで南原(ナムウォン)に行きました。日本から来た帰郷民たちの宿舎は日本人が経営していた菊水旅館でしたが、一軒には国防警備隊、もう一軒には帰郷同胞たちが泊まっていました。1946年一月頃に赤ん坊を産みましたが、そのおばさんが取り上げてくれました。そこに何ヶ月かいたのですが、好きな男について異国にひょいと出てきたものの、生活も不安で思いどおりにならないので、おばさんは日本に戻ることになりました。おばさんは船に乗るために釜山に行くついでに、私を晋州まで連れて行ってくれました。
満身創痍の体をひきずって
家に行くと母が「子どもまで作って、そんな娘は家に入れられん」と言いました。そして知り合いのおじさんに頼んで、私を釜山に連れて行かせました。結局私は釜山鎮(オウサンチン)にある、天主教が運営する大きな孤児院を紹介され、子どもを孤児院に預けることになりました。そして草梁(チョリャン)にある平和食堂で働くようになりました。そこで働きながら毎週日曜日に孤児院まで子どもに会いに行きました。ある日私の子どもの服をほかの子が着ているので尋ねてみると、肺炎で死んだと言われました。四歳のときでした。子どもの死体をこの目で見られなかったのでとても信じることができませんでした。それで私は一生結婚しなかったのです。
その後食堂の仕事、家政婦、下宿の管理人など何でもやりましたが、運が悪いのかお金がたまりかけると失敗したり、体がだめになったりで現在は家一つ借りられない状態です。
慰安所に行ったため特に体全体が痛むのです。若いときは毎月生理が来るたびに痛みがひどくて、二日ほど部屋中をころげ回っていました。あまりの痛さに注射を受けなければなりませんでした。またしょっちゅう下血をしました。漢方薬局に行ったり、産婦人科に行ったりしました。この痛みさえとれれば、裸になって踊り出したいほどでした。病院では子宮内膜炎、卵管の異常だと言われました。
解放後帰国して十八歳になってようやく生理がきちんとくるようになったのに、四十前には終わってしまいました。それからはなんともなかったのですが、膀胱がおかしくなって最近まで何回も入院を繰り返しました。
こうして証言するようになったのは、思いっきり身の上話をしてみようと思ったからです。いままでのことを書きつけてみたこともありましたが、何度も引っ越したりしているうちになくなってしまいました。私たちのような経験を二度とさせてはならないと思ったので証言しました。そしてどうせなら私たちががんばって日本に謝罪、賠償、すべて引き出せるものは出させなければなりません。
いまだに韓国の恥だという人がいます。いくら事実を知らないとしてもあまりに無知すぎます。