真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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司馬遼太郎 「明るい明治」? 二つの事件

2017年11月27日 | 国際・政治

 先日、大連である歴史家の日中関係に関わる話を聞く機会があったのですが、その歴史家は、日清戦争における旅順攻略戦の後、旅順に入った日本兵が市内及び近郊で、無抵抗の市民を多数虐殺した旅順虐殺事件について、日本がきちんと事件に向き合っていれば南京虐殺事件は起きなかったはずだというようなことを話しました。でも、その旅順虐殺事件に関わる著書は極めて少なく、また、事件を知る日本人も決して多くありません。日本ではほとんど知られていないと言っても過言ではないと思います。それは、日本が明治以来そうした加害の事実を伏せることに腐心し、適切に対処することなく葬り去って来たからではないかと思います。

 そして、そうした姿勢が、いろいろな組織の勧告や国際世論を無視して、「従軍慰安婦」に関する記述を教科書から削除するというような方針に象徴されるように、現在の安倍政権にまで続いているように思います。

 すでに「日清戦争と旅順虐殺事件 蹇蹇録より」で一部抜粋したように、旅順虐殺事件当時外務大臣であった陸奥宗光の「蹇蹇録」には、事件に関する海外の報道を懸命に抑えようとした陸奥宗光と海外公使のやりとりが記録されています。工作資金に関するようなやりとりもありました。ところが、犯罪行為である虐殺事件対する法的な処置や対応策、関わった人間に対する裁きのようなものは何も確認できませんでした。二度と同じような事件を起こさないようにするための取り組みは、ほとんどなかったのではないかと思います。
 旅順虐殺事件は、虐殺や略奪などの態様のみならず、報道に対する圧力や工作などの面でも、事件に対する法的処置や対応策の面でも、南京虐殺事件と極めて似通っていると、「旅順虐殺事件」井上晴樹(筑摩書房)を読んで感じました。

 事件については、外国人記者の記事による海外での報道とともに、当時検閲の対象ではなかった日本軍兵士の「従軍日記」や「手記」に記録されており、

毎家多キハ十数名少キモ二三名ノ敵屍アリ白髯(ハクゼン)ノ老爺(ロウヤ)ハ嬰児ト共ニ斃(タフ)レ白髪ノ老婆ハ嫁娘ト共ニ手ヲ連ネテ横ハル其惨状実ニ名状スヘカラス(中略)海岸ニ出ツレハ我軍艦水雷艇数隻煙ヲ上ケテ碇泊波打際ニハ死屍(シシ)ノ漂着セルヲ散見セリ(中略)帰途ハ他路ヲ取ル何ソ計ラン途上死屍累々トシテ冬日モ尚ホ腥(ナマグサ)キヲ覚ユ           砲兵第四中隊縦列兵士小野六蔵

などというような文章が残されていることから、老人や女性、嬰児までもが殺されたことがわかります。
 また、とにかく事実が公になることをできるだけ抑え、公になってしまった事実については、「便衣兵が…」と巧みに言い逃れをする姿勢が、南京虐殺事件につながっていったということだろうと思うのです。

 したがって、司馬遼太郎の「昭和ヒトケタから昭和二十年までの十数年は、ながい日本史のなかでも非連続の時代だったということである」というような考え方の下記資料1のような文章は、私には理解できません。彼の「明るい明治」と「暗い昭和」の言葉で言えば、「暗い昭和」は、すでに明治時代から始まっており、明治維新以後に明文化された考え方(大日本帝国憲法・軍人勅諭・教育勅語など)や確立された組織体制の継続・拡大・強化・徹底などの結果、さらに問題が深刻化して司馬のいう「暗い昭和」に至ったということではないかと思います。

 下記に抜粋した「朝鮮王宮占領事件」に関する資料も、「明るい明治」ではなく、「暗い昭和」を連想させる事件であると思います。

 日清戦争における「旅順虐殺事件」や、下記資料2の「朝鮮王宮占領事件」に目を向ければ、「明るい明治」の言葉は出てこないのではないでしょうか。
 資料1は 「この国のかたち 一」司馬遼太郎(文芸春秋 1986~1987)から抜粋しました。
 資料2は『歴史の偽造をただす-戦史から消された日本軍の「朝鮮王宮占領」』中塚明著(高文研)から抜粋しました。日本軍の「朝鮮王宮占領」の事実も、決して無視されてはならない事件だと思います。
資料1-------------ーーー-------------ーーーーーーーーーー---------------

                       この国のかたち 一

 4 ”統帥権”の無限性

 以上、何回か堅くるしいことを書いてきた。ありようは、ただ一つのことを言おうとしている。昭和ヒトケタから昭和二十年までの十数年は、ながい日本史のなかでも非連続の時代だったということである。
 たとえば戦後”社会科学”的な用語として使われる「天皇制」などというえぐいことばも、多分にこの非連続な時代がイメージの核になっている。

 ーーーあんな時代は日本ではない。
 と、理不尽なことを、灰皿でも叩(タタ)きつけるようにして叫びたい衝動が私にある。日本史のいかなる時代ともちがうのである。
 さきに”異胎の時代”ということばをつかった。
 その二十年をのけて、たとえば、兼好法師や宗祇(ソウギ)の生きた時代とこんにちとは、十分に日本史的な連続性がある。また芭蕉や荻生徂徠が生きた江戸中期とこんにちとは文化意識の点でつなぐことができる。つなぐとは単純接着という意味でもあり、また電流が通じうるという意味でもある。
 ・・・
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  
                     第一章 百年目の発見

  2 《公刊戦史》と「佐藤文庫」の『日清戦史』草案

『日本外交文書』や《公刊戦史》はどう書いているのか

1894(明治27)年7月23日早朝の日本軍による朝鮮王宮占領、景福宮(キョンボックン)の占領について、朝鮮駐在日本公使大鳥圭介から陸奥宗光外務大臣にあてた公電の第一報は、当日午前8時10分に打電された。それには、次のように述べられていた。

 朝鮮政府は本使の --- 電信に述べたる第二の要求に対し、甚だ不満足なる回答をなせしをもって、やむを得ず王宮を囲むの処置をとるに至り、本使は7月23日早朝にこの手段を施し、朝鮮兵は日本兵に向かって発砲し、双方互いに砲撃せり。(『日本外交文書』第二十七巻第一冊 四百十九号文書、「朝鮮国政府ノ回答不満足ナル故王宮ヲ囲ム処置ニ出デタル旨報告ノ件」)

 これはごく簡単な報告だけで、その状況を具体的に初めて伝えたのは、当日午後五時発信の大鳥圭介公使から陸奥外相にあてた公電、「王宮ヲ囲ミシ際ノ情況報告ノ件」(同右、四百二十一号文書)である。
 この公電の全文は次の通りである。

 発砲はおよそ十五分間も引続き今はすべて静謐に帰したり。督辧(トクベン)交渉通商事務は王命を奉じ来たりて本使に参内(サンダイイ)せんことを請えり。本使王宮に至るや大院君みずから本使を迎え、国王は国政及び改革の事を挙げて君に専任せられたる旨を述べ、すべて本使と協議すべしと告げたり。本使は外国使臣に回章を送り、日韓間談判の成り行きに因(ヨ)り龍山に在る我兵の一部を京城へ進入せしむること必要となり、しこうして龍山の兵は午前四時頃入京し、王宮の後に当たる丘に駐陣するため南門より王宮に沿いて進みたるに、王宮護衛兵及び街頭に配置しあるところの多数の兵士は我兵に向って発砲せり。よって我兵をして余儀なくこれに応じて発砲し、王宮に入りこれを守衛せしむに至りたることを告げ、且つ日本政府においては決して侵略の意なき旨を保証せり。

 つまり大鳥公使は朝鮮に駐在していた外国の外交官に対して情況説明の文書を送り、その中で、朝鮮政府との交渉の成り行きにより、日本軍が王宮の後にある丘に陣取るため王宮に沿って進んでいたところ、王宮やその周辺に配備されていた朝鮮兵の多数が日本軍に発砲した、そこで日本軍は余儀なく応戦し、王宮に入って王宮を守ることにしたのである。日本政府には侵略の意図は無い旨を保証したと言うのである。
 参謀本部が公刊した『明治廿七八年日清戦史』第一巻でも、この朝鮮王宮占領については、右の大鳥公使の公電の趣旨と同様で、次のように書かれている。

 ……大鳥公使は韓廷に対する秕政(ヒセイ)改革談判のたやすく進捗せざるのみならず、ちかごろ韓廷とみに強硬に傾き我が要求を拒否せんとし、人民は清兵増発もしくは入京の風聞に依頼してようやく不遜となり、事態すこぶる容易ならざるをもって、更に旅団の一部を入京せしめんことを請求するに至れり〔第一章参照〕。因って旅団長は歩兵第二十一連隊第二大隊(釜山守備隊たる第八中隊欠)及び工兵一小隊を王宮北方山地〔此高地中玉瀑壇と称する地点あり、当時号砲の如きもの有りて我が公使館に対す、よってこれらの監視を兼ねこの地方を選定したるなり〕に移し幕営せしめんとし、人民の騒擾を避けんがため特に23日払暁において右諸隊を京城に入れ、その進んで王宮の東側を通過するや、王宮守備兵及びその附近に屯在せる韓兵突然たって我を射撃し、我兵も亦匆卒(ソウソツ)応射防御し、なおこの不規律なる韓兵を駆逐し京城以外に退かしむるにあらざればいつ如何の事変を再起すべきも測られざるに因り、ついに王宮に入り韓兵の射撃を冒してこれを漸次北方城外に駆逐し、一時代わりて王宮四周を守備せり。すでにして山口大隊長は国王雍和門内に在るの報を得、部下の発火を制止し国王の行在(アンザイ)に赴けり。しかるに門内多数の韓兵麕集(グンシュウ)騒擾するの状あるをもって、韓吏に交渉しその武器を解いて我に交付せしめ、ついで国王に謁を請い両国軍兵不測の衝突に因り宸襟(シンキン)を悩ませしを謝し、且つ誓って玉体を保護し決して危害なからしむべきを奏せり。
 龍山屯在諸隊はこの報を得一時入京せしも、すでに平定の後なるに因りその一部をもって京城諸門を守備して非常を警(イマシ)め、他はその幕営に帰らしめたり。しこうして午前十一時大院君参内し、ついで大鳥公使、韓廷諸大臣及び各国公使相前後して王宮に入る。この日午後大鳥公使は韓廷の請求により王宮の守備を山口少佐の率いる大隊に委嘱す。午後五時旅団長その幕僚を従え騎兵中隊に護衛せられ、入りて国王に謁し宸襟を慰安する所あり。(『明治廿七八年日清戦争史』第一巻、東京印刷株式会社、1904年3月発行、119~120ページ)

 わずかに八〇〇字たらずの叙述である。また、 『明治廿七八年日清戦争史』第八巻の「付録第百二十二
」として「日清戦暦」があり、日清戦争中の諸戦闘に参加した兵力を日付順に記載しているが、この朝鮮王宮占領については、戦闘名は「京城における日韓両国兵の衝突」、参与した兵力は「歩兵三中隊、工兵一小隊」ときわめて小規模な戦闘であったかのように記録されている。
 日本政府は、日清戦争が始まった後、この朝鮮王宮占領から約一ヶ月の八月二十日、朝鮮政府と「日韓暫定合同条款」を結んだが、そのなかで、「本年七月二十三日王宮近傍において起こりたる両国兵員遇爾衝突事件は彼此(カシ)共にこれを追究せざるべし」との一項を朝鮮政府に認めさせた。朝鮮政府が事件の真相を口外するのを防ぎ、王宮占領の事実に蓋(フタ)をしてしまったのである。

 要するに、日本政府の公式見解として、大鳥公使の公電の趣旨が貫かれ、王宮占領は、最初に発砲した朝鮮の兵士と偶発的な衝突から始まり、日本軍はやむを得ず応戦し、王宮に入り、国王を保護した、小規模な衝突事件に過ぎないということに終始したのである。この見解は現在に至るまで日本政府から公式には修正されていない。
 日清戦争当時の新聞報道や巷間に流布した戦記類はもちろん、第二次世界大戦後に刊行された戦記の類でもこの見解は踏襲され、また最近の日清戦争研究でも、なおこれによっているものもある。

 従来の研究では

 しかしこうした日本政府や日本軍の公式見解に疑問を持ち、真相究明にメスをふるった歴史家がごく少ないながらいた。もちろん第二次世界大戦後のことであるが、朝鮮人としての鋭い歴史感覚から、この王宮占領の歴史的な意味を初めて系統的に論じたのは、在日朝鮮人の歴史家、朴宗根(パクジョングン)熊本学園大学教授であった。朴教授によれば、日本軍の朝鮮王宮占領の目的は、「第一に、国王が王宮から脱出することを防止して、これを『擒(トリコ)』(=虜)にすること、第二に、朝鮮政府から清軍の『駆逐依頼』を要望させるためであり、第三には、閔(ミン)氏政権を倒して親日的な開化政権を樹立すること」の三つであった(『日清戦争と朝鮮』、青木書店、1982年、63ページ)
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                     第二章 朝鮮王宮占領の実相

2 王宮占領計画
 ※「王宮威嚇」の目的
 大鳥公使が最後通牒を朝鮮政府につきつけ、「王宮威嚇」のことが現実の問題になった。大鳥公使の意を受けて、七月二十日午後一時、本野一郎参事官が第五師団混成旅団長大島義昌少将を訪ねて、朝鮮政府を威嚇するため王宮を囲むことを提案するのである。
 『日清戦争』の草案は、本野参事官の申し入れを次のように書いている。(以下、『日清戦争史』草案からの引用は、福島県立図書館「佐藤文庫」所蔵の『明治廿七八年日清戦史第二冊決定草案
自第十一章至第二十四章』による)

 ちかごろ朝鮮政府はとみに強硬に傾き、我が撤兵を要求し来り。因(ヨ)って我が一切の要求を拒否したるものとみなし断然の処置に出(イ)でんがため、本日該政府に向って清兵を撤回せしむべしとの要求を提出し、その回答を二十二日と限れり。もし期限に至り確乎(カッコ)たる回答を得ざれば、まず歩兵一個大隊を京城に入れて、これを威嚇し、なお我が意を満足せしむるに足らざれば、旅団を進めて王宮を囲まれたし。然る上は大院君(テウオングン)〔李昰応(イハウン)〕を推して入闕(ニュウケツ)せしめ彼を政府の首領となし、よってもって牙山(アサン)清兵の撃攘(ゲキジョウ)を我に嘱託せしむるを得べし。因って旅団の出発はしばらく猶予ありたし。

 つまり、この王宮占領は、朝鮮の国王高宗(コジョン)を事実上とりこにし、王妃の一族と対立していた国王の実父である大院君を担ぎだして政権の座につけ、朝鮮政府を従属させて、清朝中国の軍隊を朝鮮外に駆逐することを日本軍に委嘱させる。つまり「開戦の名義」を手に入れる、さらにソウルにいる朝鮮兵の武装を解除することによって、日本軍が南方で清朝中国の軍隊と戦っている間、ソウルの安全を確保し、同時に軍需品の輸送や徴発などすべて朝鮮政府の命令で行う便宜を得る。こういう目的で遂行しようというのである。

 作戦計画の立案
 大島旅団長は、翌二十一日、大鳥公使を訪ね「一個大隊」で威嚇するという公使の提案を改め、「手続きを省略して直ちに旅団を進めてこれに従事せしむること」にした。そして歩兵二十一連隊長武田秀山中佐に作戦計画の立案をひそかに命じた。
 作成された「朝鮮王宮に対する威嚇的運動の計画」は、草案によると次のようなこのであった。日本軍の行動が『日本外交文書』や《公刊戦史》の言うところと、どんなに違っているかを知る上で、詳しくなるが全容を紹介する。

   朝鮮王宮に対する威嚇的運動の計画・・・略

計画の精神
 以上の計画の精神を案ずるに、歩兵第二十一連隊長の直接率うる同連隊の第二大隊(第八中隊欠)及び工兵一小隊より成る一団を動作の核心とし、これをして不意に起こりて王宮に侵入し、韓兵を駆逐し国王を擁し(第三草案の原文では、「国王を擒(トリコ)にし」となっていた--(中塚)これを守護せしむるに在り。〔国王を擁するは当時日本公使の希望する所なりしも、これが逃走を拒まんがためその身体を傷害するがごときこと在りては容易ならざる大事を引き起こすの恐れあるに因り、公使はたといこれを逸するもその身体に加害なきことを旅団長に要求したり。これ公使の意はもし国王にして逃走したる場合に遭遇せば、李昰応(イハウン)を摂政となし仮政府を組織するの考案なりしによる。すなわち王宮威迫の際、彰義門を開放し在らしめしゆえんなり。--- この割注は、第三草案修正の過程で新たに書き加えられたものである--中塚)。しこうしてその他の諸隊は外部の動作に任じたるものにして、すなわちその一部は主として京城諸営の韓兵を監視し武器を奪取して王宮に赴援(フエン)するあたわざらしめ、もって核心をして目的を達するに容易ならしめ、且つ日本及び欧米の官民ならびに李昰応一派の者に危害を及ぼさざらしむるに任じ、他の一部は万一の場合をおもんばかり京城に対して旅団幕営地を守護するに任じたるものなり。

 「核心部隊」である「歩兵第二十一連隊長の直接に率うる同連隊第二大隊」に「工兵一小隊」が同行したのは、王宮を囲んでいる塀あるいは門を破壊するには、爆薬の取り扱いに慣れている工兵部隊が必要だったからである。
 七月二十三日の王宮占領事件が「日韓両国兵士の偶然の衝突」といったものでは決してなく、日本公使館・日本陸軍の混成旅団が一体となって、事前に周到に準備した作戦計画に基づくものであったこと、そしてその作戦は王宮とその周辺のソウル中枢地域の全面占領であったことは、右の参謀本部自身が書いた記録によって今や明らかであろう。

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