真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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旅順虐殺事件 海外の記事・日本の記事 軍の対応

2017年11月09日 | 国際・政治

 旅順虐殺事件について考えさせられることの一つに、記事が国外で問題視されていることを知った日本の報道機関が、その事実をきちんと確かめることなく、クリールマンやヴィリアースなどの欧米従軍記者の放逐や取り締まりを要求する下記のような記事を掲載したことがあります。

”…斯かる煩累(ハンルイ)を我に及ぼすべき従軍者は吾軍断じて吾軍の之を放逐し又は拒絶するの至当なるを思う。居留地の外字新聞記者が域内に於て吾軍を讒(ザン)するが如く従軍の外国記者は域外に向ひて吾軍を誣(シ)ゆる皆同一の亡状なり”(「日本」12月22日付

我輩は欧米諸国人の決してクリールマン氏の如き杜撰なる通信に信を置くものにあらざるべきを疑わざると同時に、切に我政府の外国従軍記者に対し、厳重なる取締方を設けられむことを希望するに堪へざる也”(「二六新報」12月22日

 まさに旅順虐殺事件を隠蔽するのに手を貸したというべき内容だと思います。下記に抜粋したようなクリールマンやヴィリアースなどの欧米従軍記者の記事が事実に基づくものであったことは、検閲の対象ではなかった「従軍日記」や「手記」には書かれているのです。

此日旅順ノ市街及附近ヲ見ルニ、敵兵ノ死体極メテ多ク、毎戸必ズ三四(サンシ)以上アリ。道路海岸到ル所屍ヲ以テ埋ム。其状鈍筆ノ能ク及フ所ニアラス”  砲兵第一連隊第二中隊兵士片柳鯉之助

毎家多キハ十数名少キモ二三名ノ敵屍アリ白髯(ハクゼン)ノ老爺(ロウヤ)ハ嬰児ト共ニ斃(タフ)レ白髪ノ老婆ハ嫁娘ト共ニ手ヲ連ネテ横ハル其惨状実ニ名状スヘカラス(中略)海岸ニ出ツレハ我軍艦水雷艇数隻煙ヲ上ケテ碇泊波打際ニハ死屍(シシ)ノ漂着セルヲ散見セリ(中略)帰途ハ他路ヲ取ル何ソ計ラン途上死屍累々トシテ冬日モ尚ホ腥(ナマグサ)キヲ覚ユ”            砲兵第四中隊縦列兵士小野六蔵

 下記の文章は、「旅順虐殺事件」井上晴樹(筑摩書房)から抜粋しました。
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              此の者殺す可からず、何々隊  11月24日

  1
 明け方、クリールマンは、銃声で目が覚ました。外へ出てみると、上官に率いられた兵士の一群が、三人の清国人を追っているのが見えた。そのうちの一人は、裸の赤ん坊を抱いていた。逃げる最中に、この男は、赤ん坊を落としてしまった。クリールマンは、ヴィリアースを起こしに戻り、再び現場へ行った。二人の男は射殺されており、赤ん坊の父親は背中と首を銃剣で刺され、死んでいた。その温かい血は、凍てつく寒さの中で、まだ湯気をたてていた。赤ん坊のところへ行くと、赤ん坊はまだ生後二ヶ月くらいで、これも死んでいた。別の場所では、老人が後ろ手に縛られて立っており、そのそばでは三人の男が撃たれ、もがき苦しんでいた。クリールマンが近寄っていくと、兵士が老人を打った。兵士は、横たわった老人の胸についた銃創を確かめるために衣服を引き剥がし、そしてもう一度撃った。「私たちは、その場から立ち去った。これが戦闘後三日目であったことを記憶されたい」(「ワールド」12月20日付)

 ヴィリアースはこの日の午後、他と比較して、死体の少ない通りを歩いていた。そこで、酒に酔って手がつけられない状態の兵士三名と出くわした。兵士たちは、商店のなかですくんでいた清国人を射殺したばかりであった。この男は、21日以来、びくびくしながら隠れていたところを発見され、殺されたのであった。兵士は銃に弾丸を装填し、隣の店の戸を壊し始めた。ヴィリアースには、戸の隙間から、隅の方で母親が二人の子どもを庇っているのが見えた。兵士の足元では、老人が叩頭(コウトウ)していた。彼は観念しているようであった。ヴィリアースはこれを見てとり、兵士の背中を叩き、笑いながら一言二言、日本語を投げかけ、身振り手振りで兵士の注意を自分に向けさせた。兵士たちは、一瞬のうちにヴィリアースに関心を移し、老人のことを忘れた。ヴィリアースは、兵士たちをその場から引き離すのに成功し、話ながら別の場所へと誘導した。「とにかく、清国人とその家族は、別の射撃部隊がやってくるまで、死刑執行が延期されたのであった」(「ノースアメリカン・レビュー」同前)。
 市街地でのこのような情況は、旅順郊外でも同様であった。銃声は山野に谺(コダマ)していたのである。
 「東京朝日新聞」の特派員横川勇次(ヨコカワユウジ)(省三・1865~1904)は、この日老鐵山東麓から市街へ戻る途中、銃声を聞いた。兵士五、六人が、何者かを追っている様子なので、尋ねてみると、「敵兵一時逃散したるも多くハ皆服装を変じ近傍の村落に潜み土人に混じ居る故怪しき者と見れば之を銃殺するなり」(同紙12月2日付)と、兵士は答えた。
 今村落へ探知に行く所なりとて五六人宛(ゴロクニンヅツ)見当たり次第発砲銃殺しつつ行く様恰も兎狩りか犬狩りの如く一村挙げて蜘蛛の子を散らすが如く、山上に逃げて行く是ぞ実に天下の奇観なりし

  2
 11月21日の夕刻以降、旅順では10月に大山の発した訓令はあってないに等しかった旅順攻略の祝宴を張ったからには、第二軍は元の状態に戻る必要があった。文明側の国家と自らを位置付けた以上、旅順周辺の清国人の根絶だけは、急いで避けなければならなかった。事実、前日23日に旅順に入ったある士官の手紙によれば、「市内は日本兵士を以て充満し支那人は死骸の外更に見当たらず此地方支那人の種子(タネ)は殆ど断絶せしか」(「中央新聞」12月27日付に転載)、また、もう一日前の22日には、「余の巡視せし時の如きハ市中僅かに六七十名余名の貧民を見しのみなり」(「万朝報」12月20日付・特派員杉山豊吉「旅順通信」)というほどまでになっていた。

 そこで、第二軍司令部は、生き残っている清国人を取り調べた上、刃向かう心配のない者には、安全を保障するものを与えることになった。それは、この24日以降のことと思われる。安全を保障するものとは、文字を墨で書き入れ検印を押した、一枚の白い布、7あるいは一片の紙であった。文面は統一されておらず、そこにこれが軍の緊急措置であったことを窺わせている。
  「順民を證す第二軍司令部」(「中央新聞」12月9日付)
  「商人なり害すべからず軍司令部」(「東京朝日新聞」12月7日付)
  「順民なり殺す勿(ナカ)れ」(「日本」12月9日付)
  「何大隊本部役夫(エキフ)」(同前)
  「此者殺すべからず」(「郵便報知新聞」12月7日付)
  「良民」(「郵便報知新聞」12月30日付)
  「此者不可殺(コノモノコロスベカラズ)」(「讀賣新聞」12月2日付)
  「此の者殺す可からず、何々隊」(「萬朝報」12月20日付)
  「順人なり殺す可からず、何々隊」(同前)
 生き残った清国人は、これらを胸に貼り、首に掛け、腕に巻き、日本人に出合ったら指し示し、殺害から免れるようにした。
 また、家々には兵士が押し入らぬよう、門柱に貼り紙がなされた。
  「この家人殺すべからず」(「東京朝日新聞」12月7日付)
  「此家男子六人あるも殺すべからず」(「日本」12月9日付) 
 住人が逃げ出して空になった家から、兵士や軍夫が分捕をしないよう、注意を促す貼り紙も憲兵の手によってなされた。
  「家人の外入るべからず」(「東京朝日新聞」12月9日付)
 日本軍によるだけではなく、生き残った清国人自身も貼り紙をし、さらなる難を逃れる努力を払った。そのなかには、赤い紙に墨書し正月に門口に貼る聯のようなものもあった。因みに、第二軍のその後の遠征先となった復州では、住民が戸に「大日本順民」と書き、難を逃れる措置をとっていたという(「二六新報」
 旅順ではその後清国人の胸の札はその職業を示すようになり、例えば造船所の職工は「造船部雇入(ヤトイイレ)」という札をつけていた。(「時事新報」1月27日付)有賀長雄の『日清戦争国際法論』には、有賀自身が旅順で目撃した「二三の事実」のなかに、これらのことが触れられている。それによれば、清国人が首に掛けているのは第二軍士官の名刺で、これに「此者ハ何々隊ニ於テ使役スル者ナリ殺スヘカラス」と書かれていたという。また、「此ノ家ニ居ル者殺ス可カラス」との札が門に掛けられているのは、戦闘後に市街に戻り食料酒類などを売る清国人の家であったことを記している。こうしたことについては、ヴィリアースも、「ノース・アメリカン・レヴュー」(同前)で触れている。というより、清国人の生命の象徴的なしるしとして、原稿の締めくくりに使っている。
これらの生き残った清国人は死んだ同胞の埋葬や軍隊の水運びとして使われた。彼らの生命は、  帽子につけた白い一片の紙きれによって守られていた。紙きれには、日本文字で次のような文が  記されていた。「此ノ者殺ス可カラズ」。
 このような措置の一方で、銃声が市街や周辺地域に響いていたのだから、犠牲者は増えこそすれ、減ることはなかった。新聞にみられる旅順の様子は、22日朝の状態と変わっていないのである。変わりようがない上に、さらに悪くなっていた。この日の旅順の様子を、「めさまし新聞」の特派員光永規一は、「新領地の光景」(12月8日付)のなかに記している。「満街の人民已(スデ)に離散し去(サッ)て街上唯到處(イタルトコロ)に屍を横へ、臭気は廓中鼻を劈(ツンザ)く計(バカ)り」であり、「碧血(ヘキケツ)處々(ショショ)に土沙(ドシャ)を染め出して殺気満街の天地に充々(ミチミチ)たり」。また、「石垣の崩頽(ホウタイ)せしもの亦た其處此處(ソコココ)に飛び散り、毀(コボ)ち放たれたる戸柵(トハイ)は無作業に散乱し、焼失せる数戸の家は家具
已(スデ)に焼き尽くして壁柱の猶ほ微かに火煙を帯びて屹立したる為体(テイタラク)中々惨状を極む」とあって、占領後の暴行は、小火(ボヤ)まで出していたようだ。

 旅順港では、水雷の撤去作業が続いていたが、同時に「沈滞物引揚げの如き後掃除」(「郵便報知新聞」12月6日付)も行われていた。「沈滞物」とは、21日以降に海で死んだ兵士や住民の死体、および船の残骸、破片などを指していると思われる。水雷は、前日夕方からこの日にかけて右岸側を掃海し水雷を十個ほど爆発させ、午後遅くなって港の出入りに支障がいない程度になった。死体もある程度は引き揚げられたと思われる。
市街の死体も、放置しておくわけにはいかなかった。これらは、誰が片付けたらいいのか。兵士か、軍夫か。もちろん彼らも、そうしたことであろう。軍司令部が出した結論は、清国人捕虜であった。先の鮑紹武や王宏照らは、これにあたったのである。
 ちょうどこの日、龜井茲明に同行していた龜井家家扶の宮崎幸麿らは、旅順北方の郊外に散乱する死体を埋葬する光景に出くわし、これを写真に収めた。この写真は、『明治二十七八年戦役冩眞帖』の一頁として入っているが、これをよく見ると、日本軍兵士に混って清国人がいる。いずれもその左腕には白い布が巻かれており、これが件の布きれではないかと思われる。
 夜には、水雷艇を水先として郵船長門丸が港内に入ってきた。そしてこの日、旅順占領の電報が転送を重ね、広島の大本営に達したのである。 

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