真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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旅順虐殺事件 「萬忠墓」の歴史 清国商船入港拒否

2017年11月14日 | 国際・政治

 日清戦争当時の海外報道記事や日本兵の「従軍日記」・「手記」、また、当時の外務大臣陸奥宗光の『蹇蹇録』などが「旅順虐殺事件」の事実を明らかにしていると思いますが、「萬忠墓」の石碑の歴史と大山巌の「清国商船入港拒否」の事実も、「旅順虐殺事件」が否定しようのない事実であることを示していると思います。

 日清戦争で勝利した日本は、1895年4月17日の下関条約によって、清国より遼東半島、台湾、澎湖諸島を割譲されますが、いわゆる国干渉によって遼東半島は清に返還することになり、日本軍は撤退します。日本軍撤退後、清国は日清戦争を振り返り、検証しつつ、それを形にしていったといいます。その一つが、顧元勲(コゲンクン)という提調官(官名)が、旅順で殉難した人々を弔うために、建てた石碑です。行政庁が死体を火葬した後に、遺灰を埋葬した場所に建てたと思われる「清国将士陣亡之墓」という木碑を取り去り、自ら筆を揮って「萬忠墓」の三文字を刻んだ石碑を建てたというのです。日本軍撤退後、清国人は、虐殺されたのは兵士ばかりではないので、木碑に墨書されている「清国将士陣亡之墓」というのは、世人を欺くものであるとして、そこを「萬人坑」と呼んでいたようですが、その思いを反映させたということだと思います。

 ところが、旅順は日露戦争後再び日本の統治下に入ります。すると「萬忠墓」の石碑が姿を消すのです。そして、墓碑のない墓となり、清明節には多くの人が集まっていた「萬忠墓」は次第に荒廃していったといいます。しかしながら、1922年旅順華商公議会の会長と清国時代の軍人が「萬忠墓」改修の募金活動をして、再び第二の石碑を建てるのです。旅順警察署は文字の一部をセメントで塗り潰させたといいますが、墓参に訪れる人は増え、春と秋には大祭も催されたとのことです。その後、軍の圧力や日中戦争の混乱によって再び荒廃し、大戦後に、第三の石碑が建てられ、盛大な式典が行われたということです。繰り返し、「萬忠墓」と刻んだ石碑を建て、旅順虐殺事件の死者を弔おとする中国の人たちの思いが、「虐殺」の事実を物語っているのではないかと思えます。

 また、下記の資料1の文章にあるように、大山巌が、国旗と赤十字旗、それに白旗を掲げた清国商船の旅順港入港を拒否したということも、「旅順虐殺事件」の事実を物語るものであると思います。

 陸奥宗光の『蹇蹇録』は、サーの称号を持つ英国オックスフォード大学国際法教授トーマス・E・ホランド(1835~1926)の論文「日清戦争ニ於ケル国際公法」を引用しています。ホランドは、「初ヨリ日本ノ行動ニ対シ毎事賛賞(サンショウ)ヲ惜マサリシ人」であると陸奥も認める人物であったにもかかわらず、旅順の事件については、資料2のように日本の将校並びに兵卒の残虐性を指摘したのです。
旅順虐殺事件を世界に知らしめたのも、不平等条約の改正に応じていたイギリスやまさに応じつつあったアメリカという日本に対して好意的な国の記者たちでした。だから、陸奥は外務大臣として国際的に苦境に立たされたことを、ホランドの文章を引いて「此事件カ当時如何ニ欧米各国ノ社会ヲ聳動(ショウドウ)セシヤヲ見ルヘキナリ」と訴えたかったのだと思います。

 旅順虐殺事件についても南京大虐殺同様、”日清戦争中、日本軍が旅順で虐殺事件を起こしたというデマ報道があった”という人たちがいます。”虐殺とは文字通り「残虐な殺害」または「理由なき大量殺戮」の意味だ。日本軍は旅順で捕虜となる資格のない中国軍お得意の便衣兵を処刑したにすぎず、旅順で戦死者は出たが、軍による組織的な虐殺など存在しなかったというのが「史実」だ”などというのですが、歴史の修正にほかならないのではないかと思います。なかには、米紙が”帝國陸軍が清帝國の非戦闘員・婦女子・幼児ら6万人を虐殺。逃げられたのは36人のみ”と、とんでもない捏造記事を報じたとして、情報源のはっきりしない記事を取り上げ、問題にしている人もいるようですが、「萬忠墓」には”官兵商民男女の難を被った者一萬八百余名”と記されているということです。

 下記は、「旅順虐殺事件」井上晴樹(筑摩書房)から抜粋しました。
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              死骸を火葬せん事頗る苦心せし處  11月26日~4月中旬

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 何事も手続きが必要である。有賀長雄(法律顧問として従軍した法学者)は軍副官部が立案していた「屍體掃除手續」の諮問を受けた。有賀は仏、伊国をはじめその他の国の「戦場埋葬規則」を心得てはいたが、今回の場合、それらに則って行うには不可能なことが二点あると、まもなく気付いた。ひとつは清国人の身元の確定、所持品の収集、目録作成であり、他は、埋葬の穴を深くすることであった。前者については、清国軍兵士の多くは日給で雇われているに過ぎず、また同軍側に兵籍もなく、労力を費やして確認するだけの価値がないと判断し、後者については、衛生上の観点から埋葬の穴は深さ二メートル、一穴に死体十体までとの戦場埋葬規則を承知してはいたが、土地の気候ゆえに大地がそれを許さないほど凍結していたからで、いずれも不可能という結論になった。ともかくも、死体を埋めた格好、つまり先のとおり土砂をかけただけの埋葬になった。これは都合のいいことに、この地方の清国人は死体を火葬しない習慣にも沿っていた。それにはまた、別の理由もあった。「大連湾より當口(=旅順口)迄十餘里(ジュウヨリ)の間山丘重々(チョウチョウ)たれども総て是れ兀々(コツコツ)たる禿山(トクザン)のみにて一望数里に渉り樹木とては稀に河岸に柳の木抔(ナド)の疎々(ソソ)生長するを認むるのみに御座候(ゴザソウロウ)」(「中央新聞」12月27日付転載)と一士官の手紙にあるように、火葬しようにも燃料となる薪も不足していたのである。

 死体の始末に従事する者は、「掃除隊(ソウジョタイ)」と名付けられた。先の鮠紹武の証言によれば、清国人はそれを「擡屍隊(タイシタイ)」(=死体担ぎ隊)と呼んでいた。軍は生き残りの清国人を動員し、あるいは死体を片付けさせ、あるいは家々や道路に散乱するものを清掃させ、11月末頃には「街衢(ガイク)の光景頗る整頓したり」(「二六新報」12月27日付)といえるまでになっていたが、もちろんこれはその前と比較しての話だろう。見た目の市街は、僅かずつながらももとに戻っていった。だが、市街から外れた山野、路傍では事件の起こったままであった。それらの死体は硬直し、寒さのために腐敗せず、露はその外側全体を凍らせ、枯れ木のような姿のまま放置されていた。

 11月28日に清国商船が国旗と赤十字旗、それに白旗を掲げて旅順港に入港しようとした”出来事”があった。乗船していたのは天津の私立赤十字の人々で、公的な数々の証明書を携えており、なかには英国陸軍軍医らも混じっていた。入港の目的は、負傷した清国兵を引き取り、天津で治療したいというものであった。大山巌は、これを拒否した。このことは、一時的に陸奥をも巻き込むことになり、またのちに入港拒否の事実は欧米の新聞にも書き立てられることにもなった。大山は拒否せざるを得なかった。負傷した清国兵は存在しないのだし、市街にはまだ死者が残され片付けきれていない状態では、とても上陸を許可するわけにはいかなかった。このことは、第三者に見せられない死者があったことを傍証しているかもしれない。

 占領地の行政は、12月13日に「旅順口行政署行政管理規則」が公にされ、同16日から実施され本格的に始動した。旅順の行政庁は、李鴻章の設立になるという王成官(ギョクセイカン)と称する銀行とその隣にある大型の売薬店を庁舎にあてた。年末はここに任を命ぜられた文官、武官二百五十名が佐世保港から萬国丸で旅順に向かった。大本営はこれに先立ち、憲兵と軍夫を増員して旅順に送り込んだが、市街の跡片付けと無縁ではあるまい。
 管理体制はできても、管理する住民がいなくては話にならない。そこで行政管理規則とともに、「旅順口施米細則」が公にされ、これも12月16日から実施された。逃げ出した住民を、米の配給で呼び戻そうというわけである。市内の適当な場所に施米所を設け、30日の間、窮民に与え、その間に各自に自活を図らせるという計画であった。施米は一人一日四合であった。施米より先に給米はすでに実施されており、その助けを借りていたのはごく少数の生き残りの住民であった。行政庁は廓姓(カクショウ)、唐序五(トウジョゴ)という二人の清国人を使い、逃げ出した住民の帰来を促す仕事をさせた。
・・・(以下略)

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 当時ニ於ケル日本人ノ將校竝ニ兵卒ノ行為ハ常度ノ外ニ逸出セリ假令(タトヒ)彼等ハ都門ノ入口ニ於テ割斷(カツダン)セラレタル同胞人ノ死屍(シシ)ヲ発見シタリト云フト雖モ斯ノ如キ残忍ノ行為スラモ尚ホ彼等カ為シタル暴行ノ辯解ト為スニ足ラス彼等ハ初日ヲ除キ其翌日ヨリ四日間ハ残酷ニモ非戦者、婦女、幼童(エウドウ)ヲ殺戮セリ現ニ従軍ノ歐羅巴(ヨーロッパ)軍人竝ニ特別通信員ハ此残虐ノ状況ヲ目撃シタリト雖モ之ヲ制止スルニ由(ヨシ)ナク空シク傍観シテ嘔吐ニ堪ヘサリシ由ナルカ此際(コノサイ)ニ殺戮ヲ免レタル者ハ全市内ヲ通シテ僅(ワズカ)ニ三十六人ニ過キサリシト云フ而シテ此三十六人ハ全ク同胞人ノ死屍ヲ埋葬スルノ使役ニ供スルカタメ救助セラレタル者ニシテ彼等ヲ保護スルカタメニハ其帽子ニ「此者殺スヘカラス」ト云ヘル標札ヲ附著(フチャク)シタリトノ事ナリ(1895年3月北米評論ニ據ル)

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