真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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ラーベの日記 12月17日 南京事件

2014年12月08日 | 国際・政治

 下記は、『南京の真実 The Diary of John Rabe』ジョン・ラーベ著 エルヴィン・ヴィッケルト編/平野卿子訳(講談社)から、12月17日の記述を抜粋したものである。ラーベは友人たちから高く評価され、中国人たちからも聖人のように崇められたが、決して謙虚さを失うことのない柔和な人物であったという。そのラーベが、女性を乱暴しようとする兵士などを見かけると、日頃の謙虚さや柔和さが信じられないくらい、激しい怒りを見せたという。そして、そんな時ドイツ人であるラーベは、まるで水戸黄門の印籠のように、よくハーケンクロイツ(鉤十字。ナチ党の印)を利用したようである。下記にも「ナチ党のバッジを見せると…」というような記述があるが、いろいろな意味で考えさせられる。

 ラーベは1937年9月22日、その日記に「本日をもって私の戦争日記の始まりとする」と書いている。その時点ですでに、アメリカ人やドイツ人の多くが南京を去り、裕福な中国人も避難しはじめていたという。でも、ラーベは自分のまわりで働く従業員や使用人のことを考えると、どうしても南京を離れるわけにはいかないと考え、妻と離れて南京に留まることにしたようである。

 そして、毎日長文の「戦争日記」を書くのである。その大部分が、残念ながら日本軍の不当な指示や行いであり、日本兵の蛮行の記録であることを、我々はしっかり受け止めなければならないと思う。ウィキペディア(フリー百科事典)の「ジョン・ラーベ」に「一般的にこの日記は日本軍の南京における残虐行為を証言する内容を含むと誤解されているが…」などという文章があるが、日記を読めば、それが誤解であるとは思えない。

 また、「安全区は日本兵用の売春宿になった」というアメリカ人の言葉や「昨晩は千人も暴行されたという。金陵女子文理学院だけでも百人以上の少女が被害にあった。いまや耳にするのは強姦につぐ強姦。夫や兄弟が助けようとすればその場で射殺。見るもの聞くもの、日本兵の残忍で非道な行為だけ…」という文章は、今も議論の続く日本の「従軍慰安婦問題」を連想させる。

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12月17日
 2人の日本兵が塀を乗り越えて侵入しようとしていた。私が出ていくと「中国兵が塀を乗り越えるのが見えたもので」とかなんとか言い訳した。ナチ党のバッジを見せると、もと来た道をそそくさとひきかえして行った。

 塀の裏の狭い路地に家が何軒か建っている。このなかの一軒で女性が暴行を受け、さらに銃剣で首を刺され、けがをした。運良く救急車を呼ぶことができ、鼓楼病院へ運んだ。いま、庭には全部で約200人の難民がいる。私がそばを通ると、みなひざまずく。けれどもこちらも途方に暮れているのだ。アメリカ人のだれかがこんなふうに言った。
「安全区は日本兵用の売春宿になった」
 当たらずといえども遠からずだ。昨晩は千人も暴行されたという。金陵女子文理学院だけでも百人以上の少女が被害にあった。いまや耳にするのは強姦につぐ強姦。夫や兄弟が助けようとすればその場で射殺。見るもの聞くもの、日本兵の残忍で非道な行為だけ。
 仲間のハッツがひとりの日本兵と争いになった。その日本兵は銃剣を抜いたが、アッパーカットを食らい、吹っ飛ばされて地面に叩きつけられた。そして、完全武装した2人の仲間といっしょに逃げていった。

 きのう、岡崎総領事から、難民はできるだけ早く安全区を出て家に戻り、店を開くように、との指示があった。店? 店なんかとっくに開いているじゃないか。こじ開けられ、ものをとられていない店なんかないんだからな。驚いたことに、ドイツ大使トラウトマンの家は無事だった。

 クレーガーといっしょに大使の家からわが家に戻ってきた。なんと家の裏手にクレーガーの車が停まっているではないか。きのう日本軍将校数人とホテルにいたとき、日本兵に盗まれたものだ。クレーガーは車の前に立ちはだかり、がんとして動かなかった。ついに、中に乗っていた日本兵は、”We friend … you go!”(俺たち友だちね……さあ行けよ!)と言って返してよこしたのだった。

 このときの日本兵は午後またやって来て、私の留守をいいことに、今度はローレンツの車を持っていってしまった。私は韓に言った。「『お客』を追っ払えないときは、せめて受け取りをもらっておくように」すると、韓は本当にもらっておいたのだ。I thankk your present! Nippon Army,K.Sato."(プレゼントどうも! 日本軍 K・サトウ)

 ローレンツはさぞ喜ぶことだろう!
 軍政部の向かいにある防空壕のそばには中国兵の死体が30体転がっている(写真18)。きのう、即決の軍事裁判によって銃殺されたのだ。日本兵たちは町をかたづけはじめた。山西路広場から軍政部までは道はすっかりきれいになっている。死体はいとも無造作に溝に投げこまれた。

 午後6時、庭にいる難民たちに筵(ムシロ)を60枚持っていった。みな大喜びだった。日本兵が4人、またしても塀をよじ登って入ってきた。3人はすぐにとっつかまえて追い返した。4人目は難民の間をぬって正門へやってきたところをつかまえ、丁重に出口までお送りした。やつらは外へでたとたん、駆け出した。ドイツ人とは面倒を起こしたくないのだ。

 アメリカ人の苦労にひきかえ、私の場合、たいていは「ドイツ人だぞ」あるいは「ヒトラー」と叫ぶだけでよかった。すると日本兵はおとなしくなるからだ。きょう、日本大使館に抗議の手紙を出した。それを読んだ福井淳書記官はどうやら強く心を動かされたようだった。いずれにせよ福井氏はさっそくこの書簡を最高司令部へ渡すと約束してくれた。私、スマイス、福井氏の3人が日本大使館で話し合っていると、リッグズが呼びに来て、すぐに本部に戻るようにとのこと。行ってみると、福田氏が待っていた。発電所の復旧について話したいという。私は上海に電報を打った。

 ジーメンス・中国本社 御中。上海市南京路244号。「日本当局は当地の発電所の復旧に関し、ドイツ人技術者をさしむけてほしいとのこと。戦闘による設備の損傷はない模様。回答は日本当局を介してお願いしたい」ラーベ

 日本軍は本当はわれわれの委員会を認めたくはないのだが、ここはひとつ、円満にことを運んでおく方がいいということだけはわかっているようだ。私は最高司令官に、次のようにことづけた。「『市長』の地位にうんざりしており、喜んで辞任したいと思っています」 

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OCNブログ人がサービスを終了するとのことなので、2014年10月12日、こちらに引っ越しました。”http://hide20.web.fc2.com” にそれぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に変更しています。(HAYASHI SYUNREI)

 


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