真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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ウラルの核惨事 隠蔽された事故 放射能汚染 NO2

2013年07月16日 | 国際・政治
 ウラルの核惨事に関するジョレス・メドベージェフの論証には説得力がある。そして、下記(「第13章 核惨事のシナリオ」抜粋部分)のような学者の考え方や元住民の証言が、さらにそれを強力なものにしている。メドべージェフは、事故の内容や規模、深刻な汚染の広がりを、事故後発表された数々の研究論文の分析によって明らかにしているが、なぜそれが可能であったか、という周辺事情にも、触れている。まず、

 ”事件は悲劇的なものであったけれども、さまざまな濃度レベルをもった放射性物質を含むこのように広範な汚染地帯が存在することは放射線生態学、放射線遺伝学、放射線生物学、放射線毒物学などの分野の科学研究にまたとない機会を与えてくれるものであった。1958年から1960年にかけてソ連の非常に多くの実験研究室、研究所、各種センターでは放射性同位元素や放射線の軍事利用および平和利用に関する研究が行われていた。
 これらの機関は環境における放射性同位元素の拡散、植物から動物への移動、池の藻類による種々の同位元素の吸収、そのほか放射線生物学、放射線生態学そして放射線毒物学上のもろもろの問題を──厳密に制御された実験条件のもとで──研究するために、小さな区画の土地、特性の巨大な木箱、ガラス容器、人里離れた小さな池などで実験を行った。放射能で汚染された広大な領域が突然に出現したことで、何千人もの研究者は、外国に前例のないような全く新しい機会とユニークな展望を与えられたのである。”

 と指摘している。ただ、当時ソ連ではいかなる研究論文も放射性同位元素や放射線に関係するものはすべて機密扱いであり、検閲局による、厳しい検閲があった。しかしながら、

 ”研究者にとって、自分の研究成果を公表することは重大関心事である。公表された仕事だけが満足をもたらすのだ。何等かの発見について優先権を認められたい、論文発表によって名声をえたい、という科学者の欲望を過小評価することはできない。

とも指摘している。そして事故後しばらくして、次々に検閲を通過した研究論文が公表されていったのである。当然、検閲を通過した放射性同位元素や放射線に関係する研究論文には共通の問題点が潜むことになる。こうした科学研究では欠かすことのできない研究方法の細部、特に研究の行われた場所、放射能汚染の原因、地域全体の広さなどの項目に関する記述がないのである。

 ところが、そうした検閲や対応で事故の場所や時期、規模、広大な面積の深刻な核汚染を隠せるものではない。メドべージェフは公表された研究論文が、それら余すところなくを語っているというのである。研究対象とされた動物や植物の種類が、また、集められた動物や植物の数が、さらには汚染のレベルや範囲が、また、実験したというその数値が…。 

 そして、ソ連は事故後30年以上経過した1989年にやっとその事実を認め、国際原子力機関(IAEA)に報告書を提出したのである。「ウラルの核惨事」ジョレス・メドベージェフ:梅林宏道訳(技術と人間)の著者の論証が、世界に与えた影響は計り知れない。
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             第13章 核惨事のシナリオ

いかにして貯蔵廃棄物の爆発が起こったか──再構成の試み

 ・・・

ウラルの核惨事

 私の文通相手の一人であるJ・E・S・ブラドレイ博士は、ウラルの核惨事を説明するため、また、別の仮説を提案した。

 ウラルのその地域、つまりキシュチム周辺では、それ以前に広範囲に深い掘削作業が行われていた。そして処理溶液は何らかの方法で地下のこの地質学的に複雑な地域に処分された(ウラルはヨーロッパとアジアの間の蝶番のような存在になっている)。一定時間の経過ののち溶液の中の残留プルトニウムが選択的吸着によって濃縮され(おそらく泥の地層で)、多量の水が存在するなかで連鎖反応の臨界集合体となり、爆発した(おそらくどちらかと言うとゆっくりとした、それまでの反応熱によって溶液の濃縮がもたらされるというような、自己維持メカニズムによる爆発である)。反応生成物とそれに関連した高レベル廃棄物は、多量の蒸気とともにその地域で広く連結している岩盤を通してふきだした。

 実際、科学的想像力(あるいはお望みなら”サイエンス・フィクション”の能力といってもよい)が、爆発の正確な原因についての仮説をつくるためには必要である。少なくとも当時のソビエト原子力センターの直接責任者が事実を明らかにするときまではそれが必要であろう。しかし、現実に爆発が起こり、多数の犠牲者を生み、広大な領域を汚染し、そしてその爆発は原子炉からの産物の適切でない貯蔵によって発生した-このことは疑いのないところである。


 犠牲者の数

 ウラルの核惨事における犠牲者に関しては、いまだにその正確な数も関連情報も与えられていない。ソ連では地震の場合でさえも犠牲者の数はまったく報告されない。このことは、現政権がもはや決して非難されることのないような30年前の地震に関してもそうである。大ソビエト百科事典の改訂版は”地震”の項に、1948年10月にアシュハバドで起こった地震は、有史以来最悪のものであると記述している。そこには、トルクメン、ソビエト共和国の首都であるその都市が完全に破壊されたとある。地震は誰もが眠っている午前4時に起こった。アシュハバドの人口は1948年には約200,000人であった。1959年の人口は約170,000人であった。他の大地震の場合(日本、アメリカ、トルコなど)には、記事に犠牲者数が示されているがアシュハバドの場合は国家機密になっている。鉱山、鉄道、高速道路、飛行機の事故もすべて秘密にされている。原子力事故も例外ではない。


 ウラルの惨事を論ずるとき、私たちはそれが人口密集地帯で起こり、しかも大きな領域をおおうものであったことを銘記しなければならない。強制退去は時機を逸して行われ、数千人の人びとに影響を与えた。この参事の医学的な処置に関する細部については、私は2つのことを知っているだけである。
 チェリャビンスク地域で研究をし、1965年にオブニンスクの放射線医学研究所の副所長に任命されたG・D・バイソゴロフ教授と保健省次官のA・I・ブルナチアンが、放射線病の有効な治療法を開発したことに対してレーニン賞を受賞した。この受賞は新聞には発表されなかった。集団としてこの賞を受賞した人びとのなかには、他にも科学者や医療関係者が含まれていたのは明らかである。次官がなにか小規模の医療作戦でレーニン賞を受けることはなかったであろう。
 放射線病という場合には、間違いなくこの病気の中でも最も悪い容態、のものを意味する。ひどくない形のものは検出されないままのことが多い。内部被曝にしろ外部被曝にしろ最悪のものは犠牲者を即死させるが、それほど明らかに致死的でない場合、影響は数週間、数ヶ月、そして数年間も持続し、それは次の世代にも引き継がれる。これについては、統計的な評価しかできないけれども、それすらもついになされないかも知れない。ソ連ではこの種の研究は秘密にされているどころか全く禁じられているので、原子力工業が集中している地域に発生する染色体異常の比率を知っている者は誰もいない。地域的なガン死亡率の比較も秘密にされているが、他のさまざま原因による死亡率の比較に関しても同様である。


 いきおい噂や推測がゆきわたり、もちろん誇張が可能になる。しかし本当のことが専門家からさえ隠されてしまうとすれば、二次的な証拠からでも真実を知ろうとする者を、誰が非難しえようか。

 既に述べたCIAの情報提供者がキシュチムの爆発で大量の犠牲者が生じ、1-2年後にもチェリャビンスクやスベルドロフスク地域の病院は患者で一杯であったと証言していたが、最近それとは別に、自主的な証言者がもたらされた。キシュチムの爆発についての番組をつくっているイギリスのテレビ会社グラナダが、最近ソ連からイスラエルに移住した人びとの中から、南ウラルと中央ウラルに住んでいた2人の証人を見つけ出したのである。1977年11月に英語に翻訳されて放送された証言は次の通りであった。


 最近、イスラエルでロシアについて新しい情報提供者が増えつつある。しかし移住を許された数千人のロシア系ユダヤ人の中にもスペルドロフスク地域からきたものは極めて少ない。”行動する世界”は2人をつきとめることができた。まだソ連に家族を残しているので彼らは名を明かすことを望まなかった。

 第1の証人は1970年代はじめにロシアを離れた。彼は次のように話した。
 私は1948年にチェリャビンスク郊外のコバエスクという村で両親と一緒に住んでいました。多くの人びとがキシュチムから追い出されてチェリャビンスクやコバエスクに移ってきはじめました。やがて、私たちは秘密の軍事工場ができるので、キシュチム住民が追い出されているのだという噂を耳にしはじめました。私たちは工場の名はチェリャビンスク40と呼ばれるのを知りました。


 1954年、私はスペルドロフスク工業専門学校に入学しました。できるだけしばしば、時には毎週末、私は両親に会いにスペルドロフスクからコバエスクに帰ったものです。私はバスや車や列車でキシュチム周辺の地域をぬけるルートを通って旅をしました。その辺は緑が多くたくさんの村がありました。おそらく20ないし30キロメートル毎に村があったでしょう。

 1957年の終わり頃、私たちは、チェリャビンスク40でひどい事故が起こった、ひどい核爆発が起こった、工場の放射性廃棄物の貯蔵から起こった事故だ、というような噂を耳にし始めました。やがてスペルドロフスクとコバエスクの間の道路が閉鎖されました。私は1年間ほど両親に会えませんでした。

 またその年に、私は何人かの医者の友人と話をしました。一度私はスペルドロフスクの病院にイボを取りに行きましたが、友達の一人の医者は、病院中がキシュチム大惨事の犠牲者ですし詰だと私に語っていました。彼はスペルドロフスクだけではなく、チェリャビンスクでも、すべての病院が同じように満員だと言っていました。病院はかなり大きく、数百のベッドがあります。犠牲者はみんな放射能の汚染を受けたのだと、医者は言っていました。驚くべき人数でした。多分数千人はいました。私はほとんどの人は死んだと聞きました。



 第2の証言は再建されたキシュチムに1967年に引っ越した。ほとんどの放射能は町の東に吹き寄せられたが、住民は10年たっても後遺症をかかえて生きていた。
 今はイスラエルの看護婦として、彼女は英語の話せる友人と一緒に証言を記録した。破壊の形跡はなかった。彼女たちが市場で買うものはすべて、森へいってきのこを採ってきても放射線計で測定されなければならなかった。彼女たちのほとんど誰も放射線計をもっているものはいなかったのに。
 そこにやってきたとき、”彼女”は妊娠した。医者は彼女に放射能がこわいから子供を産まない方がよいと話をした。彼女たちは何か異常なことが起こるかも知れないと思って中絶しなければならなかった。


テレビの解説

 これらの証人は目に見える事故の後遺症をもう一つ語っている。郊外に表土を積み上げて柵をめぐらせた場所が多くあった。その上にありふれた雑草が歪んだ形や大きさをして生長していた。土地の人々はこの場所を、”地球の墓場”と呼んでいた。

 この2つの証言の確度はいくつかの方法で確認されている。この情報は直接CIAにつながってはいない。にもかかわらず、ここでも原子力センターの住所が”チェリャビンスク40”と示されている。ソ連では私書箱番号が秘密施設の場所を表す普通の方法になっている。オブニンスクの原子力研究所でさえも、オブニンスク市が公式に存在するようになる1968年までは私書箱番号で呼ばれていた。

…以下略

 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したり改行したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「……」は、文の省略を示します。 

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