真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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チェルノブイリ原発事故汚染地域住民の手紙

2013年07月04日 | 国際・政治
NO368の 「原発事故 放射能汚染地域 対策 ウクライナと福島」に、ウクライナにおける「法に基づく放射能汚染ゾーンの定義」の表を入れた。その表では、年間被曝線量が0,5ミリシーベルト以上は「放射能管理強化ゾーン」、1ミリシーベルト以上は「移住権利ゾーン」、5ミリシーベルト以上は「移住義務ゾーン」となっていた。

 しかしながら、福島では1ミリシーベルト以上でも帰還を認め、被曝線量自己管理の提案が政府関係者から住民にあったという。除染作業は一通り終わったが、大半の地点で目標に届かず、再除染の余裕がないからであるという。住民は「目標値まで国が除染すると約束した」と食い下がったが、無尽蔵に予算があるわけではないからというのである。福島県田村市における住民説明会での話であるが、無責任といわざるを得ない。ウクライナでは移住の権利が発生する1ミリシーベルトが、福島では帰還の権利が発生する数値になるということであろう。

 低線量の放射線による被曝の人体への影響や健康被害については、どれほど低線量であっても放射線被曝は有害とする「直線しきい値無し説」がある。1ミリシーベルト以下であれば全く問題ない、とはいえないのである。

 政府は、福島第1原発事故で避難した住民が自宅に戻ることのできる帰還基準を、下記のように再編した(2013年5月25日朝日新聞)。
(1)5年以上帰れない帰還困難区域(年50ミリシーベルト超)
(2)数年で帰還を目指す居住制限区域(年20ミリ超~50ミリシ-ベルト)
(3)早期帰還を目指す避難指示解除準備区域(年20ミリシーベルト以下)

 ウクライナでは5ミリシーベルト以上が「移住義務ゾーン」になっていることを考えれば、福島の人たちのこれからの健康被害が心配なだけではなく、その精神的苦痛はいかばかりかと思う。

 下記は「チェルノブイリ極秘 隠された事故報告」アラ・ヤロシンスカヤ:和田あき子訳(平凡社)からの抜粋である。アラ・ヤロシンスカヤに助けを求める、汚染地域住民からの手紙の一部である。被曝線量にどれほどの差があるかはよくわからない。しかし、手紙に書かれているチェルノブイリ原発事故汚染地域住民の苦しみと同じような苦しみが、福島の人びとにもあることを考えれば、除染の問題のみならず、現政権の原発に対する姿勢そのものが、あまりにも無責任ではないかと思うのである。
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           第1部 わが内なるチェルノブイリ

16 「子どもたちが死にかかっています、助けてください!」

高汚染区域からの手紙──それは胸の痛む文書である。ほとんど毎日のように私はそれを受け取る。告白である。集団的な告白。くれるのは住人、市民運動グループ、地方行政当局、労働組合、社会団体である。時として絶望した人びとが心痛に満ちた詩を送ってくれることもある。日記もある。


(1)-------------------------------
 「私はまだ32歳ですが、年に数回入院します。私の4人の幼い(12歳以下です)子ども達も慢性病にかかっています。(疲れ、手足の関節の痛み、ヘモグロビンの低値、甲状腺肥大、リンパ節炎、頭痛、胃痛、慢性感冒性疾患です)
 私たちは死にたくありません。子ども達が健康に生き、成長するよう、この子らに未来があるよう願っています。でも、私たちの運命や子ども達の運命を左右する人たちの無情さ、冷淡さ、冷酷さのために、私たちは最も恐ろしい目にあっているのです。なぜなら、私たちにはそんなことはわかっているからです。わかっていないか、わかろうとしないのは柔らかい椅子に座っている官僚たちだけです。


 ナロヂチ地区では、一部の村だけですけれども、移住させると約束されていますが、私たちの地区については何も言われていません。私たちは数年も放射能を食べ、飲み、それを吸い、最期の日を待たなければならないのです。これはソビエトの国でのことなのです。人間がなにより大切だと、いつも、いたるところで(ラジオでも、新聞でも、学校でも)言われてきたのに!これは不正義ではないでしょうか。私たちは誰にも必要じゃないのです。どこへ相談したらいいのでしょう。住所がわかれば、国連に書くのですけれど。というのは地元当局は、私たちと同じように無力だからです。
 後生です、後生ですから、私たちの悲しみを救ってください。私たちの子どもを助けてください。
         4人の息子の母ワレンチーナ・ニコラーエヴナ・オフレムチュークと
         オフレスク地区のすべての母より」


(2)-------------------------------
 「お手紙させていただきますのはジトーミル州ナロヂチ地区ノリンツイ村、クローチキ村、マリヤノフカ村、ソフチェンキ村、ニヴォチキ村、スタールイ・ドロギン村、スニトゥイシチャ村の住人、ゴーリキー名称コルホーズのメンバーです。

 私たちはあらゆるお役所に相談いたしましたが、私たちの不幸、私たちの子どもたちの運命に対して相変わらず、どこも無関心です。3年がたち、チェルノブイリの悲劇のこだまは、ますます大きく子どもたちの健康に影響を及ぼしています。私たちはみなチェルノブイリから60キロのところにいます。子どもたちを見るたびに、母たちの胸はえぐられる思いがします。最近子どもたちの健康はとみに悪化しています。子どもたちはよく疲労、不調、慢性的な頭痛、視力低下に見舞われ、失神もよく起こり、手足の骨折も頻発しています。子どもたちの学習能力はひどく低下しました。出席簿には大量の欠席が記録されています。生活の喜びは消えてしまいました。こうしたことは全部、たった3年で起こったことです。この先5年、10年後にはどうなるのでしょうか。これからこの世に生まれてくる者たちを待っているのは何なのでしょうか。

 年に二度、子どもたちは検診を受けていますが、(それが検診と呼ぶことができるとしての話ですが)、私たちはまったく何も教えてもらえません。私たちが持っているデータだけからでも、私たちは不安にかられています。ノリンツイ中学校の生徒132人とラタシ中学校の生徒65人のうち、42人が検診を受けました。うち39人が健康に障害があったのです。その子たちは、精密検査のために共和国放射線診療所に送られました。このことは私たちを緊張させました。私たちは川や森に子どもたちをやるのを恐れていますが、こうしたもののすべてが子ども時代をなしているのです。区域を『きれいな』ゾーンと『汚染した』ゾーンに分けることができるのは役人だけです。状況は正常だ、人間は生涯に、つまりこれは70年間のことですが、35レム取り込むのだといった言動に、私たちの心は穏やかではありません。でも、誰かさんには実験用ウサギが必要なのだということは私たちにはわかっているのです。検査が行われたたった一つの村でも、1年間に1,08レムが体内に蓄積された例があったのです。私たちの健康に誰が責任をとってくれるのか、私たちの子どもに何が起こるのかという疑問がわきます。ほとんどすべての子どもには、甲状腺肥大が現れています。多くの子どもたちの肝臓は肥大していますし、心臓循環器系障害も増加しています。

 大人の住民たちには、腫瘍系の病気の増加が見受けられます。診療所での今期の腫瘍病患者登録は40人になっています。私たちのコルホーズではこの2年間だけで──1987年と1988年──14人が登録されています。地区にキエフから検診のための医師班が出張してきましたが、今年の3月のことですけれども、その出張期間では私たちの子どもたちにはとても足りませんでした。私たちのコルホーズでは、病気の子どもの数は厳重管理村より少なくありません。この問題では、私たちは再三、ソ連邦保健省、閣僚会議、放送番組『ペレストロイカの探照灯』編集スタッフに相談しましたし、ウクライナ共和国最高会議の同志カチャロフスキー(われわれの代表団は彼のところで応対を受けた)には個人的に相談しましたが、役所からは直接一通の返事も来ませんでした。

 起こってしまったチェルノブイリ事故の後で、私たちが望んだことは、州においても、共和国においても私たちに理解をもって対してくれることでした。しかし、現実はその反対でした。すでに3年も、われわれに注意を向けてくれる人はいません。州の役所は、われわれを移住させようと努力だけはしていますが、他のすべての事柄に対しては目をつぶっています。誰もわれわれの状態に立ち入りたがりません。われわれは不幸を背負ったまま一人ぼっちにされています。そのために私たちは、ソ連邦人民代議員としてあなたが次の問題の解決に関心を向け、介入してくださるようお願いする次第です。問題とは、賃銀に対する割増しの問題を解決すること、家族の一人ひとりにきれいな食べ物代として30ルーブリ支払うことです。きれいな農産物の供給のこともあります。

 母親として、私たちの状態をわかってください。孫のことは言うに及ばず、自分の子どもたちに、私たちは5年─10年先にどう言うのでしょう。われわれも子どもたちも未来を考えることはできないのです。私たちのコルホーズの住人の署名を添えます」
 この手紙のしたには約600の署名が並んでいる。


(3)-------------------------------
 「私たち、ジトーミル州ナロヂチ地区マリヤノフカ村民は、あなたのお力添えをお願い申し上げます。全員がそれぞれ自分の不幸を背負ったままでおります。

 1986年4月を、私たちはいつも思い出しております。まだ3年しかたっておりませんが、それでもチェルノブイリ原発事故は、どんどん私たちを不安にしていきます。それはどんどん子どもたちの健康に影響を及ぼしております。私たちは涙なしに子どもたちを見ることができないのですが、助けてやるすべがございません。子どもたちが以前のようでないことは、すでにはっきりしております。溌剌さ、喜び、笑いはどこへ行ってしまったのでしょう。彼らはよく病気をします。そしてそれは個別的なことではないのです。私たちはまだ、自分と子どもたちのために自家菜園でできたもので食事の用意をしております。そうしてはならないことは知っておりますが、でも別のやりかたはできないのです。すべてのコルホーズ では牛乳の汚染は最も高く、許容基準を数倍上回っております。売店へは野菜、果物はまったく届きません。牛乳はごくまれに届く程度です。ソーセージや肉が来るのは、『きれいな』農産物が配達される村で残ったときだけです。これらの村は私たちの周辺3-4キロのところにあります。

 私たちの村は小さな村でございます。住んでいるのはほとんどコルホーズ員で、仕事はそんなになく、そのために稼ぎも低いのです。平均して月60-70ルーブリほどです。家族がおり、子どもは3-4人ずつございます」

 手紙の下にはマリヤノフカ村コルホーズ員13人の署名がある。


http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。 

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