真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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マヤーク 放射性廃液の垂れ流しや投棄による核汚染

2013年07月19日 | 国際・政治
 「核に汚染された国 隠されたソ連核事故の実態」A・イーレシュ、Y・マカーロフ:瀧澤一郎訳(文藝春秋)には驚くべきことが書かれている。ジョレス・メドべージェフが『ウラルの核惨事』で明らかにした高レベル放射性廃棄物の爆発事故以前に、原爆製造を急いだソ連では、放射性廃液の垂れ流しや湖への投棄があったというのだ。また、その数字が信じがたいほどに大きい。
 ただ、徹底した隠蔽工作とあまりに広い汚染域のためか、垂れ流され、投棄されたという放射性廃液の総量に関する数字は、その出所や根拠がはっきりしない。また、科学的論証に欠ける面があるようにも思う。

 でも、数々の証言を総合すると、大変な問題であることにかわりはない。過去の問題とせず、きちんと実態を解明し、被曝被害に対応する必要がある。

 訳者(瀧澤一郎氏)は、2ヶ月かけてロシア大陸をバイクで旅行したという。ところが、シベリアではどこでも放射能汚染が話題になったというだ。チェルノブイリ原発事故の被害を被ったのは、風向きの関係で、主としてウラルより西の地域であったのに、シベリアの奥地でなぜ、放射能汚染なのかと疑問に思ったという。さらに、レニングラ-ド(現サンクトペテルブルグ)の人びとも放射能禍に過敏になっていたという。その理由は、帰国後しばらくしてはっきりしてきたというのである。

 それは、ウラル山中にある原爆用プルトニウム製造工場(マヤーク)で、高レベル放射性廃棄物が爆発(1976年、ジョレス・メドべージェフが、イギリスの科学雑誌『ニュー・サイエンティスト』発表の論文で明らかにした)し、周辺地域を汚染する以前から、チェルノブイリ事故の際放出された放射能の量を何倍も上回る放射能が放射性廃液として、付近のテチャ川に垂れ流され、また、工場敷地内のカラチャイ湖に投棄されていたというような報道が始まったからである。
 テチャ川はシベリアの大河オビ川にそそぎ、広大なシベリアの大地を貫いて北極海に至る。北極海に流れ込んだときもまだ、川の水は強い放射能値を示していたという。そして、周辺地域の人たちが大勢被爆し、放射線障害で苦しんでいたのであるから、放射能禍に過敏になっていたのも、当然のことであった。
 
 そんななかで、イーレシュとマカーロフ両記者が困難な取材を続け、隠された国家機密を執念深く追及し、汚染原因を暴き出した労作を目にして旧ソ連の放射能汚染の全貌を知ることになったという。
 東西冷戦下、激しい対立を続けていた米国との核軍拡競争に負けじと、当時のソ連は、開発優先で環境を省みることなく放射性廃液を川や湖へ投棄していたということであろう。
 ところが、無制限に放射性廃液を投棄することに行きづまり、貯蔵タンクに閉じ込めることにしたが、それが、下記抜粋文の文末にある『「マヤーク」工場最悪の事故』である爆発に至るのである。下記は、同書の第1章から、2人の人物の証言部分を中心に抜粋したものである。
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          第1章 世界が信じなかったウラルの惨事

 「光り」はじめた灯台

 スターリンが70歳になった1949年に秘密工場は操業を開始した。まだ第1号ソ連原爆用プルトニウムをつくりだしたばかりなのに、「マヤーク」
(当初は「第10号基地」その後「チェリャビンスク40」「チェリャビンスク65」「マヤーク」とそのコードネームを変えたという)は、もう周囲に見えざる死をまきちらしはじめた。爆弾はまだ破裂していないのに、殺人がはじまった。
 工場のわきを流れるテチャ川に放射能で汚染された大量の水を浄化しないで投棄しだした。これがすべてのはじまりである。環境の保護など、だれも考えなかった。考えたくなかったのだろう。


 放射性廃棄物をなんの規制もなく棄てつづけたために、1949年から51年にかけて、テチャ、イセチ、トボルの河川系統に総量275万キュリーの放射能が流入した。ざっと12万4千人が被爆した。その後、1956年に、7万5千人が移住させられ、46ヶ所の村や町がまるごと廃墟となった。

 汚染された川を伝わって、放射能は周囲数百キロにばらまかれた。テチャ川はダムでせきとめられ、廃棄物投棄用の溜め池がつくられたが、河川敷にはあいかわらず放射能がたまりつづけた。
 そこで、廃棄物は川のないカラチャイ湖に捨てようということになった。しばらくすると、湖も莫大な量の放射能で満杯になり、湖畔に立つことさえ危険になった。

 「マヤーク」ができてから数年間に被爆した人の総数をくらべると、移住者の数は極めて少ない。その人たちは安全地帯に移ったのだから、運がよかったというべきだろう。そういう人たちのひとり、アニーサ・ミネーエワの証言がここにある。


「私たちのチシマ村(チシマとはタタール語で泉)はウラル山地の南側にあります。村民400名。そのうち98名が移住者です。生産コンビナート『マヤーク』がテチャ川に投棄した放射性廃液のせいで、流域のアサノボ、ダウトボ、イサエボ、ナズィロボ各村から移させられたのです。

 移住はどちらかといえば、人目をそらすために実施されたのです。村民救済策がなにもなされていないということを話されては困るからです。実際は、川からほんの十数キロばかり運んでもらっただけ。家畜用の草刈場や放牧地は河川敷にあったまま。引越しを手伝ってもらったといっても、全部で5,6家族。ほかの人たちは各人各様に独力で移りました。多くの家族は1960年代中ごろまで半地下小屋に住んでいました。地面に穴を掘り、そこにモグラのように暮らしていたのです。 

 移り住んだものも前からそこにいた人も被爆をのがれられませんでした。まもなく、村から8キロのところに秘密工場『ロドン』がつくられ、医師たちが反対したのですが、村道をまともに抜けて放射性廃液が運ばれたのです。
 私たちの地区の放射能状況は、ウラル南部では最悪です。住民の被爆度は限界にきています。最近自営の医師グループが、近隣数ヶ村を合わせた集団農場で医学調査を実施しました。900人のうち、600人が重病。3人に2人ですよ!


 私の親戚の人たちも、中年組のなかに、放射能が原因の病気で死んだものがもう何人もいます。目のない赤ちゃんを産んだ若い女性は血液ガンで死亡。赤ん坊もすぐに死にました。子供はみんな病気。たいていの子は、鼻血、貧血、聴覚・視覚低下に悩まされています。知能障害児のための寄宿舎に7人入りました。こういう災難は、何もないところから起こりません。放射性物質で川が汚染されことや、近くにあのコンビナートがあることが原因なのです。被爆で病気になったのは、人ばかりではありません。家畜もそうです。とくに白血病が多い。私は獣医なので、うけあいます。

 文明国ならどこでも、放射能汚染の被害者は国家や直接責任者から補償金を払われるのがふつうです。それで栄養のあるものを食べ、よい治療を受けるわけです。私たちには薬も、まともな食品もくれません。子供にさえもらえないのです。自然に対しても、国民に対しても、あいかわらず国家の横暴はつづいています。私たちはだれにも必要でなく、苦しみながらただゆっくり死んでいくしかないのです。これは耐えられないくらいつらく、くやしい……」



 スヴェルドロフスク(いまのエカチェリンブルク)の近くのベルフネ・イビンスクという小さな住宅地にスチェパン・ドルギフという温厚な年金生活者がいる。釣りが趣味で、孫を相手に遊ぶのが楽しみというごくふつうの年金生活者の日常。しかし、まさにこの人が、長年秘密の煙幕にさえぎられてきたことのかなりの部分を知っているのだ。世界中にとって秘密であったことをスチェパン・ドルギフはよく知っている。12年間「マヤーク」で秘密警備部門の責任者として勤務した。

 軍事機密を守るという一札をいれていたため、彼は、長いことだまってきた。だから、本書の取材に際して、いままで知られていなかった「マヤーク」の企業活動の細部をわれわれは彼の口からはじめて知ることができたのである。ほんのしばらく前なら、こんなことを暴露したら、彼は自由を失っていたことだろう。
スチェパン・ドルギフの話


「……運命のいたずらで、27歳で私は、原爆と水爆の弾頭をつくっている、当時国内でただひとつの工場の保安部長に任命された。その前は、プルトニウム239を精製する原子炉で同じ役職についていた。われわれの工場では、第1号原爆用のプルトニウムも蓄積されていた。1号原爆の実験は、1949年8月29日にセミパラチンスク郊外の実験場でおこなわれた。

 工場のなかはもとより、そばにできた都市にも厳重きわまりない警備体制がしかれた。特別の許可証がなければ、市内にはだれも入れなかった。住民は休暇中でさえ市外に出ることは許されなかった。工員が近親者の死亡を伝える電報を受け取ったときだけ、閣僚会議全権代表員の手から許可証をもらい、葬式に行くことができた。

 労働者や技師は、職場に着くまで二ヶ所、あるいは三ヶ所の関所を通過しなければならなかった。仕事の配置は、1つの部屋で働いているものものが隣の部屋でなにをしているかわからないようになっていた。こういうことを全部監督していたのが、私の保安部であった。
 秘密都市には、ベリアの個人崇拝がうえつけられた。中央通りは、ベリア通りになり、大型核反応炉のひとつは『ЛЪ(エルベ)(ベリヤのイニシャル)』と名づけられた。ベリアの来訪はいつも市民の迷惑であった。


 1952年に、モスクワでベリアのでっちあげ事件の犯人として、いわゆる『ユダヤ反ファシスト委員会』のメンバーが裁判された。裁きの反響はこの都市にまで届いた。ユダヤ人はすべて家族といっしょに移住させよ、という命令がきた。その結果、多くの工場の重要部門から人がいなくなってしまった。部長とか学者はたいていユダヤ人だったのだ。こういう気まぐれや無法の例はたくさんある……。

 市内でも工場内でも人びとがどんな恐怖心理状況におかれていたかをわかってもらうために、こんなエピソードを紹介しよう。
 完成した核弾頭の引渡しは、たいてい午後におこなわれた。あるとき、決められた時間に引渡し側と受取り側の委員が集まったが、弾頭保管責任者のアナトーリイ・ベネジクトフだけがいなかった。警備兵の報告によると、彼は午後2時頃すべての検問所を通過して、工場の外にでたまま、もどらなかった。信じがたい事件だった。弾頭は正確無比の予定表にしたがって出荷されていたのである。ベネジクトフが家にも病院にもいなかったので、荷受け手続きは翌朝に延期された。だが、その日の夕方、立木で首を吊ったベネジクトフが発見された。
ポケットに書置きがあった。
『小生の不注意で、製品、”M24”の製造工程が乱れ、それが製品劣化の原因となったようです。お許し下さい』


 専門調査の結果、製品劣化はベネジクトフのせいではなく、まったく別の原因であることがわかった。しかし、彼は捜査の手がのび罰せられるのを恐れたあまり、命を断った」

 恐怖心理をひろげても、製造工程の乱れはなくならなかった。その結果、危険な放射能漏れが起きた。そういう非常事態の実例をスチェパン・ドルギフは話してくれた。
「あと1時間あまりで新年を迎えるというとき、調整係が第1作業場の爆発を工場の管理部に報告した。そこでは、放射性物質を扱っていた。住宅地からわずか2キロのところにあった。爆発は要員交代の合間に起きた。あちこちの製造室には多数の所員がいた。彼らは全員被爆した。
 建物内部の放射能測定値は高かった。場所によっては、測定器の指針は振りきった。まったく同じ危ない状況は、作業場の周辺地域でも観測された。少しでも放射能を減らそうと、備えつけや予備の換気扇が動員された。
 爆発事故はその作業場の室内で発生し、そこには技師以下4名の労働者が高濃縮度放射能溶液を扱っていたことがわかった。被爆者たちはすぐに病院に運ばれた。


 爆発の原因を立証するには、すべての作業が実施順序にしたがって記入してある交代日誌を、室内からなんとしても取り出す必要があった。私はこれを命令された。壁、床、天井、窓などは放射能まみれであり、文書類も当然そうだった。私が日誌を運び出すと、それは、小型の鉛の箱にいれられ、護衛つきで別棟に移された。私自身はその後、3ヶ月半モスクワの特別病院に入院した」

 爆発の翌日、必要なデータを集めた専門家たちは、事故原因は製造マニュアルの指示を守らなかったからであると結論した。放射性の液体製品を別の容器に移す際、作業員がホースを使わずに容器の縁から注ぎ移したのであった。被爆した本人たちの説明では、家で新年をむかえたかったので、あわててそうしてしまったという。彼らは全員頭髪が抜け落ち、重体で病院に運ばれた。その後、彼らにあったものはいない。

 ところで、強力な換気扇は、汚染された作業現場から放射性の空気を吸い出した。その空気は風にのって隣接の住宅団地に飛んでいった。朝には、早くもその一帯の放射能レベルは標準値をはるかにこえた。もちろん、事故はひた隠しにされたから、爆発については、一般市民はもとより、市の幹部たちでさえ知らなかった。
 しかし「マヤーク」工場最悪の事故が起きたのは、その後のことであった

 
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。

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