真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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関東大震災 朝鮮人虐殺死体目撃の記述 田辺貞之助

2011年11月03日 | 国際・政治
 仏文学者田辺禎之助「江東昔ばなし」(菁柿堂)の中に、関東大震災関する記述がある。当時、彼は旧制第1高等学校の2年生であった。震災3日目に、「朝鮮人が横浜のほうから押しかけてくるから、みんな警戒しろ。ことに、井戸に毒を投げこむそうだから、井戸を守れ」という指令が出たという。どこから出された指令か、ということには触れていないが、ここでも「流言蜚語が伝播した」事実が分かる。流言蜚語によって、みんながそれぞれ鉄棒や竹槍を用意し、武装して夜警を始めたのである。彼も連日番小屋につめたという。そして、隣の大島町に集められた多数の虐殺死体を、誘われて見に行っている。
 「…その空地に、東から西へ、ほとんど裸体にひとしい死骸が頭を北にして並べてあった。数は250ときいた。…」とある。特に、その中のあまりにも残酷な女性の虐殺死体を見て、彼は、「日本人であることを、あのときほど恥辱に感じたことはない」と書いているのである。
 田辺禎之助の虐殺死体についての生々しい記述は、政府による事件調査の方法や内容に問題を感じさせる。「震災後に於ける刑事事犯及之に関聨する事項調査書」の第4章「鮮人を殺傷したる事犯」第3「被害人員表」では、順良にして何等非行なき者の被害者は東京、横浜、千葉、浦和、前橋、宇都宮を合わせて233人であるというのである。吉野作造は、「朝鮮人虐殺事件」の中で、挑戦罹災同胞慰問班から得た情報として、大きく横浜方面、埼玉県方面、群馬県、千葉県、長野県、茨城県、栃木県、東京付近に分け、それを、さらに細かい地域に分けて記述し、合計2613人としている。そして、「此の調査は大正12年10月末日までのものあつて、其れ以後の分は含まれていないことを注意しなければならぬ」、と書いている。「独立新聞社金希山先生」宛ての特派調査員の詳細な報告には、6661人とある。(「現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人」)
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                   江東と異変

 2 関東大震災

 新巻の匂い

 物情騒然とは、あの時分のことをいうのだろう。どこそこでは何人殺された。誰それは朝鮮人と間違えられて半殺しの目にあった。山といわれたら、そくざに川といわないとやられる。そんな話ばかりだった。小名木川には、血だらけの死骸が、断末魔のもがきそのままの形で、腕を水のうえへ突きだしてながれていた。この死骸は引き潮で海まで行くと、また上げ潮でのぼってくると見えて、私は三度も見た。
 番小屋につめていたとき、隣の大島町の6丁目に、死体をたくさん並べてあるから見に行こうとさそわれた。そこで、夜があけ、役目がおわると、すぐに出掛けた。

 石炭殻で埋立てた4、5百坪の空地だった。東側はふかい水たまりになっていた。その空地に、東から西へ、ほとんど裸体にひとしい死骸が頭を北にして並べてあった。数は250ときいた。ひとつひとつ見てあるくと、喉を切られて、気管と食道と2つの頸動脈がしらじらと見えるのがあった。うしろから首筋を切られて、真白な肉がいくすじも、ざくろのようにいみわれているのがあった。首の落ちているのは一体だけだったが、無理にねじ切ったとみえて、肉と皮と筋がほつれていた。目をあいているのが多かったが、円っこい愚鈍そうな顔には、苦悶のあとは少しも見えなかった。みんな陰毛がうすく、「こいつらは朝鮮じゃなくて、支那だよ」と、誰かが云っていた。
 ただひとつあわれだったのは、まだ若いらしい女が──女の死体はそれだけだったが──腹をさかれ、6、7ヶ月になろうかと思われる胎児が、はらわたの中にころがっていた。が、その女の陰部に、ぐさりと竹槍がさしてあるのに気づいたとき、わたしは愕然として、わきへとびのいた。われわれの同胞が、こんな残酷なことまでしたのだろうか。いかに恐怖心に逆上したとはいえ、こんなことまでしなくてもよかろうにと、私はいいようのない怒りにかられた。日本人であることを、あのときほど恥辱に感じたことはない。

 石炭殻の空地のわきに、大島牧場とかいて、丸太のかこいのなかに雌牛が7、8頭いた。そこで、生牛乳を売っていた。東京が全滅して牛乳が出せないので、臨時に店売りをしていたらしい。こいつはありがたいというので、みんなではいっていった。1合2銭だった。上着のポケットをさぐると10銭玉がひとつあったので、私は5合たのんで、ぐいぐい飲んだ。徹夜の夜番のあとの冷たい牛乳は、まさに甘露の味だった。1週間にわたる栄養の不足も、これで取りかえせるかと思った。
 だが、いい気分になって外へ出た途端に、血の匂いがむっと鼻をついた。と同時に、5合の牛乳をガッと吐いてしまった。さっきは、飲まず食わずの夜警で、鼻の粘膜がからからにかわいていたので、血の匂いがわからなかったのだろう。それ牛乳でうるおしたので、敏感に感じとったにちがいない。惜しいことをした。
 

 その翌朝だった。私はやはり風呂屋につめていた。毎日、玄米の小さなおむすびと梅干だけだったので、腹がすききっていた。そこへ、明け方の4時頃だったろうか、脂っこい、新鮭をやくような匂いがながれこんできた。いままで、あんなにうまそうな匂いをかいだことがない。豊潤といおうか、濃厚といおうか。女の肌でいえば、きめのこまかい、小麦色の、ねっとりとした年増女の餅肌にたとえたいような匂いだった。それでいて、相当塩気がきいた感じで、その匂いだけで茶漬けがさらさらくえそうだった。私は思わず生唾をのんだ。腹がぐうぐう鳴った。だが、その音は私の腹だけから出たものではなかったらしい。
「うまそうな匂いだね」と、私は思わずいった。
「まったくだ。新巻の鮭だ!」
「誰がいまごろ焼いてやがるんだろう。いまいましい奴だ。押しかけていこうか」と、誰かが真剣な口調でいった。
 私たちはたまりかねて、みんな外へ出た。まるで九十九里浜へよせる高波のように、例の匂いがひたひたと町じゅうをつつんでいた。しかも、風呂屋のなかでかいだより数倍もつよく、むっと胸にこたえるような匂いだった。
「こりゃ、鮭じゃないぞ」と誰かがいった。「鮭にしちゃ匂いがつよすぎるし、一匹まるごと焼いたって、こんなに匂いがひろがるはずはない」
 私たちはしばらく棒立ちになって、いまは不気味な気持ちで、その匂いをかいでいた。
 1人が急に叫んだ。
「分かった! あの匂いだ!」
「何の匂いだ?」
「ほら、きのう見にいった、あの死骸をやいているんだ!」
 その途端に、私はむっとなにかが胸にこみあげてきて、腰の手拭で口をおさえながら、風呂屋のうしろへ駆けこんだ。 


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