真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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川島健三「安竜福 供述虚言・虚構論」(竹島領有権問題12)

2010年02月08日 | 国際・政治
 竹島領有権論争において、江戸時代に2度来日した「安竜福(アンヨンボク)」(川上健三の著に従い竜の字を使う)の供述が重要であることは誰しも認めるところである。日本の竹島領有権の主張をリードした川上健三は、安竜福の供述の主要部分が虚言であり虚構であると「竹島の歴史地理学的研究」の中で繰り返し書いている(資料1)。しかしながら、川上健三の虚言説を根底から揺るがす重要文書、「元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書」が、2005年5月16日に島根県隠岐郡海士町村上助九郎邸宅で発見された。それには

「一 安龍福申候ハ 竹嶋ヲ竹ノ嶋と申 朝鮮国江原道東莱府ノ内ニ欝陵嶋と申嶋御
   座候 是ヲ竹ノ嶋と申由申候 則八道ノ図ニ記之所持仕候
 一 松嶋ハ右同道之内 子山と申嶋御座候 是ヲ松嶋と申由 是も八道之図ニ記申
   候」
(http://www.viswiki.com/ja/村上家古文書) 

と記録されていたのである。安竜福の供述の疑問点がすべて判明したわけではないし、確かに官名を詐称し虚勢を張ることがあったようであるが、韓国側が主張する安竜福の供述の最も重要な部分が、日本側の記録によって裏付けられることとなった。彼は、「朝鮮之八道図」を持参し、鬱陵島だけではなく、「子山」(安竜福のいう子山は独島・現竹島のことであり、当時の日本人は松島と呼んだ)の領有権も主張していたのである。
 また、川上健三が安竜福の虚言のなかで、「そのうちでも最も決定的、かつ、明白な虚言は、彼が僧雷憲等を語らって鬱陵島におもむいたところ、同島には『倭船亦多来泊』と述べている点である。しかしこの年元禄9年(1696年)には、大谷・村川両家は、いずれも鬱陵島には渡航していないのである。」と言っている部分についても、そうではないことが、この文書からわかるという(資料2)。
 安竜福の来日の時点では、未だ渡海禁止令は伝達されていなかったというのである。資料2は「史的検証 竹島 独島」内藤正中・金柄烈(岩波 書店)から抜粋の抜粋であるが、他は「竹島の歴史地理学的研究」川上健三(古今書院)からの抜粋である。  
資料1-------------------------------
第3節 竹島一件

2 鬱陵島の所属をめぐる日鮮交渉

 鬱陵島が完全な空島と化し、朝鮮国政府によって事実上放棄されるや、同島への日本人の出漁はようやく繁きを加え、文禄役後約百年にわたって日本人の完全な魚採地と化すようになった。これに伴い、江戸時代初期以来同島の所属をめぐって日鮮両国の間で交渉が行われることとなった。その交渉の時期は必ずしも明らかでないが、慶長9年(光海君6年=1614年)7月、朝鮮国東萊府使尹守謙はわが対州藩主宗対馬守義智に書を致し、さきに宗氏が磯竹島の日本領有を主張したことに反駁して、次の通り主張した。


 ・・・

 すなわち、尹はその書において、磯竹島は来使のいうところによれば、慶尚江原両道の洋中に在るとのことであるが、それはわが国のいわゆる鬱陵島であり、載せてわが輿図にあると断ずるとともに、日鮮両国は古くからその境界には区別があり、往来あるときはただ一路をもって門戸としており、そのほかはみな海賊をもって論断すべきを警告するところがあった。
 しかし、宗氏は磯竹島が碇泊に便なることを述べて、重ねてその開放を求めた。これに対して同年9月、尹守謙に代わった新任の東萊府使朴慶業は、重ねて前府使の主張をくり返すとともに、前日の書この大概をつくしているにもかかわらず、またその船を泊し纜をとくの便をもって重ねて鬱陵島の開放を求めるは、わが朝廷をかろんじ、道理に眛いといわざるをえない、との相当強い語調をもってこれを反駁
した。
 しかしながら、この時の交渉は、この応酬以上には発展することなくして終わった模様である。
……
 その後80年近くは、別に朝鮮との間に問題を生ずることなく、大谷・村川両家による竹島(鬱陵島)出漁が平穏のうちに続けられていたところ、元禄5年(粛宗18年=1692年)に至って、同年渡海の順番に当たっていた村川の者は、多数の朝鮮人が鬱陵島に出漁しているのに遭遇した。……

 ・・・

 右の顛末は直ちに藩庁に報告されたが、藩丁はまた事の重大なるを慮ってこれを幕府に報告し、その指示を仰いだ。しかし、この度は特に日鮮間に問題をひき起こしたわけではなく、幕府としては、朝鮮人も船の修理ができ次第鬱陵島より早々に退去したものと判断し、取り立ててこれを問題とはしないことに決した。

 ・・・

 さて、翌元禄6年(1693年)には、前年の村川家に代わり大谷の手代等が、3月17日に鬱陵島に渡航したところ、すでに多数の朝鮮人が来島して魚猟に従事しているのを発見した。大谷家の漁夫たちは、そのままに捨ておくときは、ついにこの所務の地を彼等によって奪われることをおそれて、漁猟をせずに専らその動静を探り、安龍福、朴於屯の両名を質としてとらえ、18日に鬱陵島を退去、4月27日には米子に帰着した。

 ・・・

 米子の家老荒尾修理より報告に接した藩丁は、とりあえず事の趣を江戸に報じてその指示を仰ぐとともに、その指示あるまで安龍福等2名の朝鮮人は米子の大谷九右衛門勝房方にとどめ、大和組のうちより作廻人を申し付け、足軽両名を附添わせて警固に当たらせた。

 ・・・

 5月29日に至り、江戸より飛脚が到着、両名を長崎に護送するように指示があったので、陸路これを送る手筈を定め、5月29日に米子を発足、6月1日には鳥府に到着した。同日米子城主荒尾大和の別宅に一泊、翌日からは本町二丁目の会所に移された。次いで6月7日、山田兵衛門、平井甚右衛門を護送役として鳥府を出発、6月30日に長崎に到着し、翌7月1日には無事長崎奉行所に両名を引き渡した。
 長崎奉行所に引き渡された安龍福および朴於屯の両名は、対馬藩留守居役浜田源兵衛に預けられ、同地で取調を受けた後、8月14日対馬よりの使者一宮助左衛門に引き渡され、9月3日対州に到着、府中「御使者屋}に宿泊した。続いて、以下述べる竹島一件の交渉の使者正官多田与左衛門の一行に帯同されて釜山着朝鮮側に引き渡された。
 
(2) 元禄6年以降の交渉

 今回の事件について、幕府は安龍福、朴於屯の両名を、朝鮮に送還するとともに、自今朝鮮漁民の竹島(鬱陵島)渡海禁制を朝鮮政府に要求することとし、対馬藩主宗義倫に対してその交渉を命じた。宗氏はこの命を領し、多田与左衛門を正使として釜山に派してその交渉を開始せしめた。


 ・・・

 すなわち、前年来朝鮮漁民は日本側の制止を聞かずに竹島に入漁したので、そのうち2名を捕らえて一時の証としたことを告げ、今後は朝鮮政府においてこれを制禁にすべきことを求めた。
 この宗氏の書契に述べられている竹島が鬱陵島を指していることは明白であったが、朝鮮側は、議政府左議政睦来善、右議政閔黯黯の意見に基づき、鬱陵島はもと朝鮮の版図ではあるが、事実上放棄されている現状であり、かかる空島の問題で日本と隙を生ずることは長計ではないとして、日本領たる竹島には出漁を禁ずる旨の返書を発することに決した。


 ・・・

 すなわち、この書契では、一応竹島と鬱陵島とを区別して、漁民の「貴界竹島」に入るのを禁ぜんといい、表面上は宗氏の要求を容れたようであるが、他方「敝境之鬱陵島」と雖もまた遼遠の故を以て任意性を許さず、況んや其外をや、との一句で鬱陵島が朝鮮領土であることを暗示し、あたかも日本領竹島と朝鮮領鬱陵島とが別にあるかのごとくに故意にみせかける苦肉の策をとったのである。
 多田与左衛門は、これを不満として強硬にその刪改を求めたが、朝鮮側はこれに応ぜず、交渉は蔚4ヶ月に及び、ついに解決をみないままに与左衛門は帰国した。


 ・・・(以下略) 

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3 安竜福問題

(1) 安竜福の因伯渡航

 しかるに、多田与左衛門に伴われて元禄6年(1693年)に朝鮮に送還された安竜福は、同9年(1696年)初夏に至り、母を省せんがため蔚山におもむき、たまたま行き逢った僧雷憲等に頃年往来した鬱陵島の海産豊富なことを告げて、彼等を誘って同島に渡り、次いで隠岐を経由して伯耆国に渡来した。
 『因府年表』、『御在府日記』、『竹島紀事』等の日本側資料によれば、安竜福等の一行は、この年5月20日隠岐国に突如現れた。代官後藤角右衛門は、その手代中瀬弾右衛門、山本清右衛門等をして渡来の仔細を尋ねしめたところ、この度朝鮮の船32隻が竹島に渡海し、そのうちの1隻が伯耆国に訴訟のため渡来したとのことであった。


 ・・・

 安竜福等の因幡渡来の報を受けた対馬藩は、通詞派遣の命によって、鈴木権平、阿比留惣兵衛、通詞諸岡助左衛門等を因幡に派遣することとしたが、宗氏としては、他方この年の1月に、幕府の方針として竹島渡海禁止を決定したことについて朝鮮側にまだ通告していないことが憂慮された。すなわち、朝鮮側でこの竹島渡海禁止を安竜福の訴訟の結果、幕府が聴許したとみなすことともなれば、将来重大な禍根を残すこととなるのはもちろん、日鮮間の交渉は一切対馬を経由して行うとの従来のしきたりを破ることとなるおそれももあった。このため、宗義真は急使賀嶋権八を江戸に派して、大久保加賀守、阿部豊後守に対して対馬の立場を説明するとともに、意見を具申するところがあった。ここにおいて幕閣では評議の結果、朝鮮人を長崎に回送せしめ、その訴えるところを調査せしめようとしていた当初の方針を改めて、直ちに帰国せしめることに決し、この旨を7月24日付をもって、松平伯耆守に通達した。

・・・

 かくて安竜福の一行は8月29日に帰鮮し、江原道襄陽県に到着しとらえられた。江原道監司の報告に接した政府は、事、辺情に関するのみならず、またみだりに日本に渡海したというので京獄に拿致し、備辺司において事情を査問せしめた。……

(2) 安竜福の供述に関する検討

 さて、韓国政府は、前掲の『粛宗実録』および『増補文献備考』の安竜福の言動に関する記事を引用して、彼は「朝鮮の版図の不可分の一部である鬱陵島及び独島(今日の竹島)の水域を日本国民が侵犯しないように護った。」と称し、また、「前記の一連の事件の後当時の日本政府は、古来から于山国の領土として韓国に属していた鬱陵島及び于山島(日本人は松島と呼んでいる。)に対する韓国の領有権を固く確認した」と断じているのである

 しかしながら、その論拠となっている備辺司の取調べに対する安竜福の供述について検討するに、はなはだしく虚構と誇張に満ちている。そのうちでも最も決定的、かつ、明白な虚言は、彼が僧雷憲等を語らって鬱陵島におもむいたところ、同島には「倭船亦多来泊」と述べている点である。しかしこの年元禄9年(1696年)には、大谷・村川両家は、いずれも鬱陵島には渡航していないのである。

 ・・・

 さらに元禄9年(1696年)には、正月28日付奉書をもって竹島(鬱陵島)渡海禁制が在府中の松平伯耆守に達せられ、大谷・村川両家はもとより、他の漁民竹島には全然出漁していない。


 ・・・

 一体、安竜福としては、彼の鬱陵島渡航がそれ程重大問題となることは予想もしていなかったが、彼の送還を契機として対馬藩と朝鮮政府との間に竹島(鬱陵島)の領有をめぐって交渉が開始され、当時の朝鮮政府としてその処理に苦悩していることを帰国後初めて知ったわけである。ここにおいて彼は、さきの元禄6年の来日の際の知見や今次の体験等真偽をおりまぜて、自己の再渡航の非をつくろうとともに、政府に迎合するような作為をした供述を行ったのである。……
 次に彼はその供述の中で、鬱陵島から玉岐島(隠岐島)を経由して因州に渡航した旨述べているが、これについては、わが方のの記録とも一致している。しかしながら、続いて彼は、隠岐島主に対して先年入来の節、鬱陵于山等島をもって朝鮮地界と定め、それについて関白の書契を受けたにもかかわらず、さらにまたわが境を侵犯したことについて難詰した、と陳述しているのは、なんら根拠のあるものではない。

 ・・・

 その関白書契自体が安竜福の作為である以上、彼が鳥府において島主(伯耆太守)と庁上に対座して島主の問に答えて、さきの関白書契を先年来日の際に対馬の島主によって奪取されたので、今回対馬の罪状を関白に上疏しようとするものであると述べたところ、島主(伯耆太守)はこれを許したが、対馬島主の父が懇請したので目的を達することができなかった、しかし日本側は、さきに朝鮮の国境を犯した日本人15名を処罰した、と供述していることは、すべて虚構であることは明白である。

 ・・・(以下略)

 なお韓国政府は、「この朝鮮人は、朝鮮の版図の不可分の一部である鬱陵島及び独島の水域を日本国民が侵犯しないように護ったものである」と主張して、あたかも元禄9年の安竜福の来日によって幕府が日本人の竹島(鬱陵島)渡海禁止を決定したかのごとくに述べているが、一行の来日の5ヶ月も以前にすでにその措置がとられていたことは、さきに指摘したとおりである。 

 ・・・

 以上検討してきたとおり、安竜福の備辺司に対する供述のうちで、彼が鬱陵島から隠岐を経由して因伯に渡航したこと、および加路から鳥取に行く際に轎に乗り、その他のものが馬に乗ったことだけは日本側の記録と一致しているが、他はいずれも彼の作為にかかる全くの虚言にすぎないことが了解される。
 ・・・(以下略)
資料2-------------------------------
第2部 独島の歴史

3 安龍福のための解明

2 元禄9年の調査記録(「元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書」のことである)で確認された内容


 また、この文書は、1969年の鬱陵島における安龍福(「史的検証 竹島 独島」は龍の字をつかっている)らと日本人漁夫の遭遇の真偽についても明らかにしてくれる。1696年1月28日付で鬱陵島への渡海が禁止された。その日から日本人は鬱陵島に渡海していない、それなのに安龍福は鬱陵島で日本の漁夫に会い、彼等を懲らしめたという、だから安龍福の話は全くの虚構だ、というのが日本の学者の主張である。しかしこの文書はよく見てみると、それが妥当性を欠いた主張であることがわかる。幕府の奉書は確かに1月28日付のものだが、禁止令が鳥取藩に伝達され、大谷・村川両人が請書を提出したのは8月1日であった。したがって、禁止令のために、1696年には日本人は一人も鬱陵島に渡海していなかったとする説は成立しないのである。当然に安龍福らが隠岐に来た5月には、そうした禁止令がだされていることは代官役人は誰も知っていなかったのである。もし隠岐島にも渡海禁止を知らせる奉書が伝達されていたら、取調べの報告書に「安龍福らが竹島と松島を朝鮮の地だと言っています。それで、これらの島はすでに1月28日付の奉書をもって渡海が禁止されていたので、そのような事実を教えてやりました云々」といったくらいの記述が入るのが自然ではなかったろうか。
 ・・・(以下略)
----------------------------------
 資料2について付け加えるならば、もし、安龍福の言うとおり日本人が鬱陵島に渡航していたら、渡海禁止令に違反していることになり、渡海した者は処罰の対象となる。しかしながら、安龍福の証言にかかわらず、取り調べ後も安龍福が鬱両島で遭遇したという日本人漁夫の処罰のことが問題にされた様子はない。したがって、安龍福が自ら来日した時点では、代官役人はもちろん、大谷・村川両家も渡海禁止について知らされておらず、出漁をくり返していたと考えるのが自然であろうと思う。「元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書」の発見は、安龍福の証言が虚言でないことを裏付けるものになったようである。


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コメント (2)
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