真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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竹島領有権問題その4(安龍福の証言ほか…)

2010年02月23日 | 国際・政治
 現在は竹島の領有権が問題になているが、歴史的には対馬藩が、鬱陵島(かつて日本人はこの島を竹島と呼んだ)の領有権を得るために画策したこともあったし、日本人が知って知らずか、約束を破って鬱陵島に侵入することが、たびたびあったようである。下記は、そうしたことに関する「史的解明 独島(竹島)」愼鏞廈<著>韓誠<訳>からの抜粋である。
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第5章 鬱陵島(ウルルンド)、独島(トクト)領土論争と安龍福(アンヨンボク)

1 17世紀末の日本による鬱陵島、独島侵奪の試み

 朝鮮の東海(日本海)と南海沿岸の漁民たちは、鬱陵島にこっそり行っては漁労や造船に励んだ。一方、徳川府は1618年、大谷と村川の両家に”鬱陵島渡海免許”を与えていたので両国の漁民は時々衝突した。
 1693年(粛宗19年)の春には、鬱陵島で魚をとっていた東萊(トンネ)、蔚山(ウルサン)の漁民40名と、鬱陵島に漁業にやってきた日本人漁民たちの間で衝突事件が発生した。
 数的に優勢であった日本人漁民たちが、朝鮮の蔚山(ウルサン)のボス格である
安龍福(アンヨンボク)・朴於屯(パクオドン)らにゆっくり話し合おうと、うまく持ちかけて隠岐島へ連行した。
 安龍福は隠岐島主に鬱陵島は朝鮮の領土であることを訴えた。そして”朝鮮人が自分の国の地に入っただけなのに何故に拉致したのか”と抗議した。隠岐島主は上司である伯藩の藩主に安龍福を引き渡した。そこでも安龍福は堂々と朝鮮領土であることを主張した。そして日本は日本人漁民が国境を越えて出漁するのを取締まるべきだと要求した。
 当時の伯耆藩の藩主は鬱陵島が朝鮮の領土であることを知っていたので、安龍福を江戸幕府に引き渡した。
 江戸幕府は審問した結果、彼の主張に一貫性があり、事実を述べていることを認め、”鬱陵島は日本の領土ではない”(鬱陵島非日本界)という外交文書を伯耆藩の藩主に書かせ、安龍福らを江戸から長崎、対馬を経て朝鮮に送り返そうとした。
 しかし安龍福らが長崎に着くと、対馬島主は彼らを再び捕縛し、対馬へ連行し、そこで鬱陵島は日本の領土ではないと書いてある外交文書を奪い、彼を、日本領土である鬱陵島を侵犯した罪人あつかいに、朝鮮の東萊府で朝鮮側に不法な要求をつきつけて彼を釈放した。
 要するに、対馬島主は安龍福を事件を逆に利用して幕府の全権大使のように振舞いながら、橘真重を使節に任命し、人の住まない鬱陵島を対馬藩所属の島にしようと画策したのである。

 対馬島主は1693年11月に安龍福らを送り返す時に、橘真重を派遣し、東萊府使を通じて朝鮮側に書状を送りつけた。 
 その書状では東海に鬱陵島ではなく竹島という日本領土が存在するかのような表現法を使い、”これからは日本領土である竹島に朝鮮の船が入るのを絶対に許さないので、朝鮮側も竹島での漁労を厳しく取り締まってほしい”というとんでもない要求をつきつけてきた。

 対馬島主は、鬱陵島がすなわち竹島であることを知りながも、朝鮮政府から竹島が日本領土であることを認める公文書を手に入れた後、鬱陵島=竹島を領土紛争地として争い、最終的には対馬島に帰属させよう、という戦略があったに違いない。

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 下記は日本側の「竹島での漁労を厳しく取り締まってほしい」との要求に対する回答であるが、竹島が鬱陵島であるということを知りながら、知らないふりをし、竹島が鬱陵島とは別の島であることにして回答したものであるという。
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2 朝鮮政府の穏健派による対応

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……つまり、朝鮮政府は鬱陵島が朝の領土であることだけを明確にして、日本側の書状に書かれてある竹島が鬱陵島であるとしりながら、知らないふりをして竹島での朝鮮漁民の出漁を禁じる次のような返事の書状を橘真重から対馬島主に伝えさせた。

 「わが国の東海沿岸の漁民に外洋に出るのを禁じたのは、たとえわが領地の鬱陵島とはいえ遠方の故、勝手に行ったり来たりするの許していないのであるが、いわんやそれ以上の遠方においては。この度、わが国の漁船が貴国の境地である竹島に入り込んだため領送(送還)という手間をとらせ、また書状まで持たせてくれて本当に隣国同士の親善の交誼に感謝するものである。」

 ・・・ 
 東萊倭館(トンネウェグァン)で待機していた橘真重は”貴国の境地である竹島……”と書いてある回答文で半分、目的を達成したのも同然であったが、”わが国の境地である鬱陵島”という字句が、鬱陵島の侵奪の妨げになると考え、”書状に竹島という名だけで済むことなのに、鬱陵島という名があるのはどういうことか”と抗議し、鬱陵島の名を削除することを要求した。

 橘真重は回答文の受け取りを15日間、拒否し続けたが、結局断念してそのまま回答文を携えて対馬に帰国した。その時、もし朝鮮政府が”わが国の境地である鬱陵島”という字句を削除していたら、日本は鬱陵島を竹島の名で自国の領土に組み入れられる朝鮮政府の書状を手に入れることができたというものである。
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3 強硬派の執権と日本の侵略企図撃退

 対馬からの使者・橘真重が、朝廷からの回答文に不満を抱き、相当ごねた挙げ句、帰国したという噂が朝鮮朝廷に伝わると、穏健派に対する批判と糾弾の声が一挙に高まった。
 そして、ついに穏健派は退陣し、南九万(ナムグマン)らの強硬派が執権するに至った。


 ・・・
 粛宗国王も領議政・南九万(ナムグマン)の意見を取り入れ、前回の回答書(上記)を取り戻すように命じた。
 ・・・
 ……そこ、南九万(ナムグマン)領議政は前回の回答書を取り消し、新しい回答書の作成に取りかかった。その要旨は鬱陵島がまさに竹島であり、朝鮮の領土であると明確にしたことであった。
 また日本人が鬱陵島に入り込み、安龍福らを日本に連行したことは、朝鮮領土への侵入であり干渉である(侵渉)とした。
 また朝鮮人を朝鮮の領土から連行(拘執)したのは重大な過ちであると指摘し、このことを江戸幕府に伝え、二度と日本人が鬱陵島に入り込まないように対策を講じてほしいと要求した。
 対馬の使節は、この修正された回答書を受け取り、”侵渉”と”拘執”を他の表現に直すことを要請し、また対馬島主の2回目の書状に対する返書を要求したが、これらすべてを朝鮮朝廷は拒絶した。
 朝鮮朝廷は三陟僉使(サムチョクチョムサ)(従三品の武官)・張漢相(チャンハンサン)を1694年9月から10月にかけて鬱陵島に派遣し、そこを調査させた。張漢相の報告を受けた領議政・南九万は移住政策を実施するより、1年から2年に一度ずつ島に対する探査をするのが賢明であると進言し、王から許しを受けた。之によって1694年以降は、朝鮮朝廷の定期的な探査(捜討)政策が実施された。

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4 徳川幕府の将軍による鬱陵島、独島の朝鮮領土再確認

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 1696年(粛宗22年、元禄9年)1月に(対馬島主宗義真が)将軍に対面した時、伯耆藩藩主ら4名が居並ぶ中、将軍から鬱陵島問題について宗義真に質問があびせられた。
 
将軍以下、幕府の協議を重ねて検討した結果、鬱陵島を朝鮮の領土と認めざるを得ない結論に達し、日本人の鬱陵島出漁を以後一切禁止することに決定した。
 その時の質疑応答と将軍が最終的に下した結論と、対馬島主に命じた事柄の要旨は次のようなものである。


① 鬱陵島は日本の島根県から160里の距離であるのに対し、朝鮮からは40里
  ほどの距離で朝鮮に近いことから、朝鮮の領土とみなす方が自然であること
② 日本人の鬱陵島への渡航を禁止すること

③ このような内容を対馬の島主が朝鮮に伝えること
④ 対馬島主は対馬に戻れば、刑部大輔(裁判官)を朝鮮に派遣し、この決定を朝
  鮮に知らせた後、その結果について将軍することであった。
 
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5 安龍福の活動

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 《粛宗実録》によると、安龍福は1696年(粛宗22年)の春に万全の準備をして蔚山に行き、そこで鬱陵島に行けば海産物がどっさり手にはいると宣伝し、順天の松慶寺の商僧・雷憲と李仁成、劉日夫(船頭)、劉奉石、金吉成、金順立ら16名とともに鬱陵島に船を向た。
 鬱陵島には、すでに日本の船がたくさん停泊していた。そこで安龍福が彼らに怒鳴りつけた。


 ”鬱陵島はもともとわれわれの島であるのに、日本人がなぜ国境を越えて入ってくるのか。お前たちは皆、捕らえられるべきだ”と
 日本人がこう答えた。
 ”われわれはもともと松島(于山島・独島)に住む者だが、たまたま魚を追ってここに来たのであって、すぐ帰るつもりだ。”
 安龍福はこれに対して
 
”松島は于山島で、やはりわれわれの島だ。どうして松島に住んでいるのか”(松島即于山島比亦我国地汝敢住比島)と言い返した。
 そして次の日、于山島に行ってみると、昨日の漁夫たちが釜で魚を煮ていたので棒切れで追っ払ったところ、皆、船に乗って日本へ帰って行った。


 安龍福らは彼らを追って日本の隠岐島に上陸した。隠岐島主が安龍福に渡航理由を尋ねると彼は大声で怒鳴った。
 ”何年か前、私が日本に来た時、鬱陵島、于山島などの島は朝鮮の領土の境界に決まり、将軍の書状まで頂いたのに、日本は分別もなく我が領土を踏みにじるのか”
 (傾年吾人来比処以鬱陵島・于山島等島定以朝鮮地界至有関白書契而本国不有定式今又侵犯我境是何道理云爾)

 これに対し、隠岐島主は彼の抗議の内容を伯耆藩主に必ず伝えると約束した。しかしいくら待っても何の消息もなかった。
 安龍福はこれに憤慨し、船で伯耆(島根県)に向かった。


 ・・・
 
 伯耆藩主はこれを承諾したので、安龍福は李仁成をして上訴文を書かせて将軍に手渡すよう求めた。
 この時ちょうど対馬島主の父親が伯耆藩主を訪れて、”もしこの上訴文が将軍のもとに届けば私の息子は必ず処罰され、死を免れないので絶対にこの上訴文を受け取らないでほしい”と要請したのである。そのため、安龍福の上訴文は将軍のもとに届かなかった。
 しかし
伯耆藩主は、鬱陵島に侵入した漁民たちを15名を捕らえ、処断した上でこう約束した。
 ”2つの島はすでに朝鮮の領土なのだから、今後、国境を越え、侵入する者があったり、また対馬島主が不法に侵奪しようとした時は、朝鮮側が国書を携えて訳官(通訳)をめて日本に派遣したらよろしい。そうすれば必ず厳罰をもってのぞむつもりである”

 (両島既属爾国之後或有更為犯越者島主如或横侵竝作国書定訳官入送則党為重処)


 ここで注目すべきは、安龍福の談判でもって1696年に伯耆藩主が”2つの島、つまり(鬱陵島と于山島・竹島と松島)はすでに朝鮮の領土である”とはっきり認めていることである。
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6 17世紀末に鬱陵島、独島領有権論争は集結した

 韓国側と日本側の資料の日付が正確であれば、安龍福と伯耆藩主との談判は、江戸幕府が鬱陵島問題対して、鬱陵島が朝鮮の領土であることを認め、日本人漁民の鬱陵島への渡航を禁じた1696年1月以降の何ヶ月間の間にあったものと考えられる。
 この時点で日本側は独島を鬱陵島の付属島とみなし、将軍の1696年1月の鬱陵島問題に対する決定と命令は、鬱陵島と付属島の独島を含めてのことであり、安龍福の活動によって文書化されている。つまり”2つの島(鬱陵島と独島)はすでに朝鮮の領土である”という記録が残されている。

 ・・・(以下略) 
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7 徳川幕府の古地図には鬱陵島、独島が朝鮮領土と表示してある

 ・・・
 ここで注目すべきこは、江戸時代の代表的地図(三国接壌地図と総絵図)が鬱陵島と独島を朝鮮の領土であると明記し、それも”朝鮮ノ島”とせず、朝鮮ノ持ニと記したことである。これは17世紀末の朝鮮と日本との”鬱陵島、独島論争”が解決し、”朝鮮の島に”確定したという徳川幕府の、1696年1月の最終決着がこれらの地図に反映したものとみることができる。
 ・・・(以下略)

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1 コメント

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元禄9年、鬱陵島のみご禁制 (竹島学者志望者)
2017-03-05 20:00:20
・現竹島=松島は「隠州視聴合記」にも、磯竹島と同等に固有名詞、方向、海路行程日数を以て登場しており、鬱陵島=磯竹島の附属島嶼とは描かれていない。
対であっても、対等・並列であり、附属ではナイ。
・故に、元禄9年「竹島一件」における”渡海ご禁制”の該当範囲は、「松島」の記載が見られぬ以上、(磯)竹島=鬱陵島のみ。
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