真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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川上健三の著書には?(竹島領有権問題11)

2010年02月05日 | 国際・政治
 川島健三は、韓国との竹島領有権論争の当初において、日本側を代表する学者であった。彼の著書「竹島の歴史地理学的研究」で、彼が竹島領有権に関わるあらゆる文献にあたっていることがよく分かる。しかしながらその内容に入る前に「竹島の歴史地理学的研究」を手にとって気になることが2つあったことに触れておきたい。
 一つは彼の経歴である。京都帝国大学文学部史学科卒、台湾で一時教職。その後、「参謀本部、大東亜省へ勤務」とある。そして戦後、外務省条約局参事官などとして、日本の竹島領有権主張をリードしたのである。彼は先の大戦における日本軍の戦争行動をどのようにふり返り、外務省条約局参事官の仕事をしたのだろういという疑問を持ったのである。
 二つめは、その彼が同書の「はしがき」で、ノモンハンやポートモレスビー、ガダルカナルその他で、作戦参謀などとして無謀な作戦指導を強要し、多くの犠牲者を出したとされている陸軍大佐「辻正信」(当時衆議院議員)とともに、海上保安庁の巡視船「ながら」で竹島を視察したことに触れていることである。彼の立場は、竹島の領有権について研究する以前に決まっていて、都合のよい資料を使い、都合のよいように解釈したのではないかと思ったのである。
 日本の竹島領有権を主張する川島健三の主な論点の一つは、資料1に代表されるような日本人による竹島(独島)認知と、「(竹島は)本朝西海のはて也」や「隠岐の松島(現竹島)」というような表現の中にある領有意識の存在の証明である。
 二つめは資料2のような「鬱陵島=于山島」の一島説で、韓国側の主張する「古来より于山島は鬱陵島の附属島として認められてきた」という二島説の否定、すなわち、朝鮮人の竹島(独島)認知と領有意識の否定である。
 三つ目は、安龍福の備辺司に対する供述は、基本的に罪を逃れるための彼の作為に基づく虚構であるというものであるが、安龍福に関わる部分は(竹島領有権問題12)とし、後で取り上げたい。「竹島の歴史地理学的研究」川上健三(古今書院)からの抜粋である。
資料1-------------------------------
第1章 歴史的背景

第2節 竹島に関する知見とその経営

1 日本人の竹島認知

(1) 文献に現れた松島・竹島


 ・・・
 また、享和元年(1801年)の大社の矢田高当の著『長生竹島記』にも、次のような一節がある。この書物は、元禄年中隠州から竹島(鬱陵島)に渡海した竹島丸の水主から伝え聞いた大社仮宮漁師椿儀左衛門の話をとりまとめたものであり、当時竹島丸の鬱陵島渡航に際しては、松島(今日の竹島)を途中の寄港地として常に利用していた様子を知ることができる。これでもまた松島をもって「本朝西海のはて也」としているのである。

 されば隠岐島後より松島は方角申酉の沖に当たる卯方より吹出す風2日2夜・り 道法36丁1里として海上行程170里程の考なり 山なり嶮岨形りと云 土地の里数5里3里にあらんと云ふ 古語のことく18公の粧ひ万里に影を移し風景他に何らす 乍去如何なる故歟炎天の刻用水不自由なるとかや 竹島渡海之砌竹島丸往き通ひにはかならす此島江津掛りをなしたると云 当時も千石余の廻船夷そ松前行に不量大風に被吹出し時はこれそ聞伝ふ松島哉と遠見す 本朝西海のはて也」
 なお 文政11年(1828年)の自序のある因府江石梁編述の『竹島考』には、「松島ハ隠岐国ト竹島トノ間ニ有小嶼ナリ 其島一条ノ海水ヲ隔テテ二ツ連レリ 此瀬戸ノ長サ弐町幅五拾間程アリト云 此島ノ広サ竪八拾間横弐拾間余アリト或図ニ見エタリ 両島ノ大サハ均シキニヤ 未ソノ精証ヲ得ス」


とあって、島の描写は一層詳しくなっている。松島の2島間の狭少な水道を、長さ弐町、幅50間としているのも実際に近い。さらに、天保7年(1836年)の竹島密貿易事件の主謀者たる石州八右衛門の聴取書にも、次のように述べられている。松島におもむくのに、隠岐から北に向かって航行したようにいっているのは若干思い違いであるとしても、松島付近に達してから西寄りに航路を転じて竹島に到ったと述べているところや、望見した島の様子の描写などからみて、これは明らかに実際にこの付近を航行したものの陳述である。

 ・・・

 このように、諸文献からみて、わが国では元禄9年(1696年)の竹島渡海禁止令以前はもちろん、その後においても、松島・竹島の名称のみならず、両島に関する正しい地理的知識も相当後年に至るまで継承されていたことが知られるのである

(2) 地図に現れた松島・竹島

 略

(3)松島・竹島の経営
  
 (ロ)竹島渡海免許  このような日本人の鬱陵島開発に一時期を画することとなったのが、元和4年(1618年)の竹島渡海免許である。この年、伯耆国米子町人大谷甚吉、村川市兵衛は、藩主松平新太郎を通じて幕府から竹島(鬱陵島)渡海の免許を受け、爾来連年同島に渡海して、あわびの採取、みち(あしか)の猟獲、檀木や竹の伐採等に従事し、その漁獲したあわびは串あわびとして、将軍家および幕閣に献ずる例となった

 大谷九右衛門の『竹島渡海由来記抜書控』『大谷家由緒実記』その他の大谷家文書によれば、米子で廻船業を営んでいた大谷甚吉は、元和3年(1617年)越後から帰帆の途次難風に遭って竹島(鬱陵島)に漂着し、同島を踏査したところ、無人の孤島で天与の宝庫であることが判明した。
 あたかもこの年7月、それまで米子城主であった加藤左近大夫偵泰は、伊予国大州に転封となり、松平新太郎光政があらたに因幡伯耆両国をあわせ32万石を賜り、国替の際であったので、阿部四郎五郎正之が幕府からの監使として米子城に在番中であった。このため甚吉は、阿部四郎五郎に対して同人と懇意であった村川市兵衛とともに竹島の状況を上申するとともに、同島への渡海免許を賜るようその斡旋を依頼したが、その尽力によってあらたに領主となった池田新太郎光政を通じて、大谷、村川両名に対して、幕府から竹島渡海免許の奉書が下された。


 従伯耆国米子竹島江先年船相渡之由に候 然者如其今度致渡海度之段米子町人村川市兵衛大屋甚吉申上付而達上聞候之処不可有異儀之旨
被仰出候間被得其意渡海之儀可被仰付候 恐々謹言  
                                       永井信濃守
                                       井上主計守
                                       土井大炊頭
                                       酒井雅楽頭

   松平新太郎殿
 
 かくて日本人による竹島(鬱陵島)の開発は、幕府公認の下に本格化することとなるが、この竹島への渡航の道筋に当たっていたのが、当時松島の名で呼ばれていた今日の竹島で、同島が竹島往復の途次の船がかりの地として、またあしかやあわびの魚採地として利用されるようになったのは、当然のなりゆきであった。
 (ハ) 松島渡海免許 この松島に対しても、竹島の場合と同じく大谷・村川両家が幕府から渡海免許を受けたことは、先に掲げた延宝9年の大谷九右衛門勝信の請書元文5年および寛保元年の大谷九右衛門勝房の文書等からも明らかである
。……
 ・・・(以下略)     
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 川上健三は、日本人の竹島(独島)認知が正確であったことを、「隠岐州視聴合記」や松平伯耆守綱清が「竹島の所属」に関して幕府の問い合わせに答えた回答書なども取り上げて詳しく解説している。たしかに、竹島(独島)認知に関してだけを考えれば、朝鮮人よりは日本人の認知が正確であったかも知れないと思う。また、上記「長生竹島記」「本朝西海のはて也」という言葉があることや、「竹島図説」などに「隠岐の松島」と呼ばれていたことが記録されていることなども明らかにしている。しかしながら、それらをもって日本の竹島(独島)領有権の根拠にするには無理があると思われる。なぜなら、鳥取藩の幕府にたいする回答書には、「竹島は因幡伯耆の附属ではありません」という文言があり、わざわざ、「竹島松島其外両国の附属の島はない」と言い切っているのである。そして、それが幕府の渡海禁止令に至ったことを考えれば、竹島(独島)を認知していた日本人が、「本朝西海のはて也」と表現したり、「隠岐の松島」と表現したとしても、それは私的な意識を表現したものと考えざるを得ず、領有権に関わる判断では、幕府の決定が重いと考える。1837年(天保8年)の2回目の渡海禁止令には「…以来は可成たけ遠い沖乗り致さざる様乗り廻り申すべく候…」とあり、竹島渡海を禁じるのみならず、 遠い沖乗りも禁じている。これは、上記の「竹島松島其外両国の附属の島はない」から考えて、当然松島付近を含むと考えるのが自然であると思う。竹島は渡海禁止になったが、松島渡海は禁じていないと解釈することには無理があろうと思う。

 川島健三は、大谷・村川両家の渡海免許が「幕府から官許を得たというよりは、むしろ公務として命ぜられたというべきものであった。鳥取藩としては、その経営には直接参加しておらず、したがって、両人の参府拝謁のことも、藩を経由せずに寺社奉行の手を経て行われていた。……
 
・・・
 この故に鳥取藩としては、竹島については次のように述べて、それが同藩の所属でないとしているのも、けだし当然であった。
……と、いかにも苦しい説明をしている。また、「(2)地図に現れた松島・竹島」では、いくつかの地図をもとに、日本人の竹島(独島)認知が正確であったことを印象づけているが、鬱陵島と竹島(独島)を朝鮮領土に色づけした地図は問題にしていない。
資料2-------------------------------
2 朝鮮側古文献にみる今日の竹島

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 以上通覧してきたように、鬱陵島は李太祖の時代までは、芋陵、羽陵、蔚陵、武陵等種々に呼ばれていたが、その使用の文字のいかんにかかわらず、もっぱら一島名として伝えられ、その国名としては、「于山」として知られていた。しかし太宗時代になってそれが島名に転用されて、于山島なる呼称が行われるようになるとともに、于山武陵(茂陵)と重ねて呼ばれることになった。この場合于山の漢字音が武陵、茂陵、鬱陵等のそれと異なっていたところからそれが地理的知識の欠乏と相俟ち、やがて『世宗実録地理史』にあるような2島説を生むことになったものと思われる。

 ・・・

 これを要するに、前掲の崔南善氏の論文にもあるとおり、鬱陵島については「最初は、国名として于山、島名として欝陵が『三国史記』に載録されただけであったところが、降って高麗時代に至り、同一の原語に対する異形の対字と雅称とが種々に使用され、武陵、羽陵、陵、・陵、蔚陵等の別名があるようになった。」のである。一方国名として呼ばれていた于山も、李朝太宗時代に至って島名に転用されるようになり、ここに2島説が生まれる素地を作ることとなったのである。

 ・・・

 なお最後に『新増東国輿地勝覧』中に載せられている「八道総図」や「江原道の図」について一言するに、これらの地図には、于山・鬱陵両島がえがかれている。しかし、両島の大きさはほぼ同じで、しかも、于山島が鬱陵島よりも朝鮮半島寄りに位置しており、実際の位置関係とは逆になっている。このことは、地理的知識に最も具体的に表現している地図をみても、当時の于山・鬱陵二島説がまったくの観念的なもので、なんら実際の知識に基づいたものでないことを端的に示しているものといえよう。さらに、これより時代が降って哲宗12年(1861年)には、朝鮮人自身の手に成る代表的な地図として知られる金正浩の「大東輿地図」が刊行されたが、この最も権威ある朝鮮地図などには、鬱陵島のみがえがかれていて、竹島に当たる島名の記載はない。
 ・・・(以下略)
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 川上健三は、上記のように1島2名説をとり、朝鮮人は竹島(独島)を認知していなかったとしている。確かに「竹島の歴史地理学的研究」を読むと、様々な混乱や間違いがあったことが分かる。しかし、鬱陵島と竹島(独島)の2島説のすべてが間違いであり、竹島(独島)は認知されていなかったとすることもまた無理と言わざるを得ない。
 韓国側は、『世宗実録』に「于山及び武陵の両島は、本県の正東方向の海中にあり、かつ、両島の距離は距たること遠くなく、故に晴天には互いに望見し得る」とあり、『新増東国輿地勝覧』に「于山島及び鬱陵島……この両島は本郡の正東方の海中に位置する……」とあることなどを根拠に、竹島(独島)は鬱陵島の附属島として認知されていたと主張しているが、川上健三のこの部分に関する反論もまた極めて苦しいものである。
 難しい計算式をもとに、竹島(独島)から鬱陵島は見えるが、鬱陵島から竹島(独島)は見えないというのである。そして、計算式に基づけば、竹島(独島)を島として認め得るのは、鬱陵島(最高部聖人峰985メートル)で200メートル以上のぼる必要があるが、かつて鬱陵島は密林におおわれ、高所にのぼることが困難であった上に、視界がひらけていたかどうかも疑わしいというのである。『世宗実録』「于山及び武陵の両島は、本県の正東方向の海中にあり、かつ、両島の距離は距たること遠くなく、故に晴天には互いに望見し得る」を否定するには、あまりにもその根拠が薄弱である。「竹島(独島)を見るのには困難があったから、見ていないはずである」という憶測で2島説を否定できるものかどうか…、と思う。また、「……鬱陵島を基地として竹島に行く場合は、隠岐から竹島に行くよりも40マイル近いが、朝鮮本土で最も近い蔚珍附近から竹島に直航するとなれば、隠岐よりも約30マイル遠いことになる。この場合、実際に航行するには、航行技術が幼稚な時代にあっては、その距離の遠近だけでなく、特に目標物がみえるかどうかが重大な関係がある。」という説明にも引っかかるものがある。朝鮮本土からと比較するなら、隠岐島からではなく、日本本土からでなくてはならないはずである。「純然たる歴史地理学的立場から書いた」ことを完全否定するものではないが、結論が先にあったことが疑われる論理であり、社会科学的研究とは言い難い面があると思う。

http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。読み仮名は半角カタカナの括弧書きにしました(一部省略)。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。  

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