真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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核廃絶や平和の願いを込めた広島平和祈念式典が…

2024年08月10日 | 国際・政治

 広島の平和祈念式典に関する87日の朝日新聞の記事は、世界の平和や核兵器廃絶が、欧米主導の政治では実現できないことを示したように思います。

 広島市が、6日の平和記念式典にイスラエルを招いたことに関連し、イスラエルの攻撃を受けるガザ地区と境界を接するエジプトのモハメド・アブバクル大使は、「我々がは直面している切迫した状況の中で、広島は平和の象徴だ。イスラエルが(核の恫喝やイスラム組織ハマス壊滅などの)瀬戸際外交を続ければ、全世界を後戻りできないところまで追い込みかねない」と語り、「広島は誰もが平和に取り組み、過去に向き合うことが必要だと思い起こさせる場所だ。核兵器を廃絶するしか人類が生き残る道はない」とも語ったといいます。

 イスラエルとハマスの停戦交渉を仲介するカタールのシャベル・マッリ大使は「なぜパレスチナが招待されないのか。パレスチナの都市は(核廃絶を目指す地方自治体の国際機構)平和首長会議にも加盟している」と、広島市の対応に疑問を投げかけたといいます。また、「あらゆる問題は戦争でなく、対話によって解決できるはずだ。すべての人に流血を止めるよう呼びかけたい」とも語ったということです。

 さらに、駐日パレスチナ常駐総代表部のワリード・シアム代表は、「広島は抑圧された人々の側に立つのではなく、抑圧する側を招待することを選んだ」と批判したといいます。

 いずれも、きわめて真っ当な主張だ、と私は思います。

 

 一方、イスラエルのギラッド・コウヘン大使6日、式典参列後に朝日新聞のインタビューに応じ、「政府を代表して、広島の犠牲者とその家族に敬意を払うために来た。出席したのは正しいことであり、誇りに思う」と語り、「ガザにはまだ115人の人質がいる。民間人の犠牲は意図したものはでなく、最少にするように努めている」と述べ、核兵器廃絶を求める松井一美・広島市長の呼び掛けに対しては「(核開発疑惑がある)イランに向けられるべきだ」と語ったといいます。記者が「イスラエルは核を保有しているが」と聞くと、「ありがとう」と答えてインタビューを打ち切ったということです。責任を転嫁しつつ、不都合な質問には答えないということだと思います。

 

 さらに、広島市の平和記念式典に参列した英国のシュリア・ロングボトム駐日大使が、イスラエルを招待しなかったことを理由に挙げて、長崎市で9日に開かれる平和記念式典には出席しない意向を示したといいます。そして、記者団の取材に、「ウクライナという独立国に侵略したロシア、ベラルーシと違い。イスラエルは自衛権を行使している。同様の扱いをしては誤解を招く」との考えを示したというのです。「ガザ」の現実に目をつぶり、自衛権を逸脱しているイスラエルの攻撃を庇っているだけでなく、核廃絶の意思もないことがわかるような気がします。

 

 こうした各国の主張を、ガザを中心とする客観的な情勢を踏まえて比較すると、エジプト、カタール、パレスチナなどの代表者の主張が、イスラエルや英国の主張よりも、国際平和や核廃絶に真剣に向き合っていることがわかると思います。

 イスラエルのギラッド・コウヘン大使に、”記者が「イスラエルは核保有しているが」と聞くと、大使は「ありがとう」と答えてインタビューを打ち切った”、ということですが、そういうところに、欧米が、いまだに植民地主義的であり、差別的であることがあらわれていると思うのです。

 したがって、北朝鮮の核開発やミサイル実験には安保理決議をくり返し、国際法違反として制裁を科しながら、イスラエルの核弾頭保有には目をつぶる欧米と手を結んでいては、核廃絶できないし、戦争を止めることはできないと思います。

 朝日新聞、88日の一面トップは、”長崎市に書簡「イスラエル招かぬなら参加困難」米欧6カ国大使、式典欠席へ”と題する記事でした。G7の国々は、長崎市の平和祈念式典には欠席するということです。

 それは、極論すれば、かつてアフリカや中南米、中東やアジアの国々を植民地として支配し、今もかたちを変えて支配を続ける国々が、「核」を保持して、これからも軍事的優位を保ち、利益を吸い上げ続けようとしていることを示しているのではないかと思います。

 だから、イスラエルや英国の大使の発言には、欺瞞が含まれるのだと思います。

民間人の犠牲は意図したものはでなく、最少にするように努めている」というのは、客観的事実が嘘であることを示していると思います。

 また、核兵器廃絶を求める松井一美・広島市長の呼び掛けに対しては「(核開発疑惑がある)イランに向けられるべきだ」というのも、イスラエルの90発ともいわれる核弾頭保有の事実を覆い隠す発言だと思います。欺瞞的だと思います。

 

 そして、アメリカ大統領選にかかわって、ハリス候補が、パレスチナ人の苦しみについて「沈黙しない」と述べたことがくり返し報道され、ハリス候補が大統領に就任すれば、イスラエルに厳しい姿勢を取り、平和が取り戻せるのではないかとの期待を抱かせているようですが、それは、パレスチナ自治区ガザ情勢をめぐり、国際社会やアメリカの若者がパレスチナに同情的になっていることに対応する、アメリカお得意の情報操作だと思います。

 なぜなら、アメリカ社会におけるユダヤロビーの影響力や、イスラエルにおける米国企業の存在が、イスラエルに対する厳しい姿勢を許すわけはないと思われるからです。

  ナチスドイツをはじめとするヨーロッパのユダヤ人迫害を逃れ、当時、多くのユダヤ人が海外に移住しましたが、その大部分はパレスチナ(イスラエル)とアメリカでした。US Holocaust Memorial Museumによると、ユダヤ人は、総人口1,517万人のうちイスラエルに687.1万人、米国に600.0万人だといいます。この2国に集中しているのです。だから、アメリカとイスラエルは兄弟のような関係なのではないかと思います。

 かつては、金融業や貿易業で世界を股にかけたユダヤ人ですが、現在、米国のIT企業の時価総額上位企業のほとんどはユダヤ系であるといいます。その創業者もしくは現経営者がユダヤ人だというのです。wikipediaその他によれば、 

1. ラリー・ペイジ(Google共同創業者、元最高経営責任者 CEOAlphabet社元CEO)は母親がユダヤ人。

2. セルゲイ・ブリン(Google共同創業者、Alphabet社 社長)

 ソビエト連邦モスクワに住む東欧系ユダヤ人の家庭に生まれる。

3. マーク・ザッカーバーグ(Facebook 共同創業者兼CEO

 曾祖父がドイツ、オーストリア、ポーランドから移民したユダヤ系。ザッカーバーグはユダヤ人の家庭で育ち、13歳の時にユダヤ人の成人式を祝っている。

4. シェリル・サンドバーグ(Facebook COO

1969年、ワシントンD.C.のユダヤ人家庭、アデル・サンドバーグとジョエル・サンドバーグの長女として生まれる。父は眼科医で、母は大学のフランス語教師。1996年からビル・クリントン大統領時代の財務長官チーフのラリー・サマーズの職員として働き、アジア通貨危機の際に発展途上国の負債を免除する国務長官の仕事をサポートした。2001年にGoogleへ移籍、グローバルオンラインセールス&オペレーションズの副社長を務めた。

5. マーク・ベニオフ(Salesforce創設者、会長、CEO

サンフランシスコのベイエリアでユダヤ人の家庭に生まれた。

6. スティーブ・バルマー(マイクロソフト社元最高経営責任者 2000.1-2014.2

ミシガン州デトロイト生まれ、父はスイスからのドイツ系ユダヤ人移民で、フォード・モーター勤務だった。母はベラルーシのピンスク出身の両親を持つ東欧系ユダヤ人移民二世。

7. ハワード・シュルツ(スターバックス 元会長兼社長兼CEO

ニューヨーク・ブルックリン生まれ、両親はユダヤ系ドイツ人移民のアメリカ人で、退役軍人の子として生まれた。

8. アーサー・D・レビンソン(Apple会長、Alphabet傘下Calico CEO、ジェネンテック元最高経営責任者、元会長)

米国シアトル生まれ、ユダヤ人のマルヴィーナとソルレビンソンの家庭に生まれた。

9. マイケル・ブルームバーグ(Bloomberg創業者、第108代ニューヨーク市長、WHO親善大使)

マサチューセッツ州ボストン生まれ。両親はポーランドからのアシュケナジム系ユダヤ人移民。1981年に通信会社ブルームバーグを設立し、ウォール街の企業へ金融情報端末を販売して大成功を収めた。

10. ラリー・エリソン(Oracle共同設立者、元CEO/会長/CTO

ニューヨーク出身。ユダヤ人の母フローレンス・スペルマンが19歳の時に出産、生後9ヶ月でシカゴに住む叔母リリアン・エリソンとその夫である義理の叔父ルイス・エリソンに養子として引き取ってもらう。

<キリスト教の教会に通う社長のノート(キリスト教福音宣教会)。https://note.com/joel316/n/n071f8ebcc5ebより>

 

 そして、Googleは、イスラエルに研究開発センターを持ち、特にサイバーセキュリティやAIの分野で重要な役割を果たしており、Facebook (Meta)は、イスラエルでのスタートアップ買収を通じて、AIVR技術の強化を図っているというのです。Apple: Appleもイスラエルに研究開発拠点を持ち、特にハードウェア技術の開発に注力しているというのです。さらに、Microsoftも、イスラエルにMicrosoft R&Dセンターを持ち、クラウドコンピューティングやセキュリティ技術の開発に力を入れているといいます。

 こうした企業の創業者や現経営者の多くが、ユダヤ人であり、現実にイスラエルで大きな影響力をもっていることを考え合わせると、アメリカのイスラエル支援は、たとえ大統領といえども、簡単に止めることのできるものではないと思います。

 もしハリス候補が大統領となり、強引にイスラエル支援を止めたりすれば、大統領を続けることが困難になるばかりでなく、民主党自体が支持を失い、決定的に弱体化することは避けられないと思います。

 

 だから私は、多くの日本国民の核廃絶や平和の願いを込めた広島平和祈念式典が、G7と手を結んだ関係者によって、骨抜きにされてしまったように思うのです。

 でも、忘れてはならないことは、日本のみならず、G7の国々も、一般国民は核廃絶や平和を望んでおり、国際政治がそうした一般国民の思いや願いを代表して進められていないと考えられることです。

 覇権や利益のために、上手に嘘をつき、ごまかす欧米主導の国際政治は、終わりにすべきなのです。

 

 下記は、「わたしは見たポル・ポト キリング・フィールズを駆けぬけた青春」馬渕直城(集英社)からの抜粋ですが、アメリカが、現実を覆い隠し、自らに都合の良い虚構の世界を、映画を通じて広めたことがわかります。映画は、善悪を逆様に見せる手法の一つといえるように思います。

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                          第一章 初めての戦場

 プノンペン──1972

 197212月。すでにカンボジアは戦火に包まれていた。そのカンボジアの戦場を本格的に取材するために、隣国タイから陸路ポイペットの国境を越えた。 

 入国初日はカンボジア西部のバッタボンで夜を迎えることになったが、街にホテルはなく、政府の旅行案内所の床で寝てた。夜半、何発も砲弾が近くに落ち、吹き飛ばされた瓦が案内状の屋根に落ちてくる。派手な歓迎だったが、その日はバッタボンの街中に戦火が及んだ最初の日だった。

 当時、世界中の報道カメラマンはベトナムに集結しており、カンボジアくるカメラマンは少なかった。米軍がニュース取材に便宜を図ってくれることのあるベトナムと異なり、ラオスもカンボジアも独力で取材を行なわなくてはならないからだ。

 首都プノンペンはすでに解放軍(クメール・ルージュ)に包囲されており、ロン・ノル政府軍はププノンペンといくつかの県庁所在地、そしてそれを結ぶ点と線をかろうじて守っているだけといった状態だった。

 翌日、バッタボンからシアム・リアップの街へ向かった。プノンペンに行く前に東アジア最大の宗教遺構アンコール・ワットをめぐる主戦場を見ておこうと思ったからだ。バッタボンからプノンペンへと向かう道路はかろうじて通じているが。トンレ・サーブ湖の北側を通るシアム・リアップからプノンペンへ向かう陸路は断ち切られている。

 ここで、当時のカンボジアを取り巻く情勢を整理しておこう。

 19703月、シハヌーク外遊中の隙を狙って、ロン・ノル将軍がクーデターを起こした。このクーデターは、長期化し、泥沼化したベトナム戦争の状況を打開しようと焦った米国が、あくまでも中立を貫き、対米軍事協力を拒む元首シハヌークを追い出すために仕掛けたもので、これにはCIAが深く関与していた。

 このCIAの関与については、私の友人でもあった元CIA要員のスキップ・ブライアンから直接聞いた。スキップはCIA時代に、タイの空軍基地からF─111という最新鋭のジェット機に乗り、ラオス国内のホー・チ・ミン・ルート爆撃するという秘密ミッションに携わっていた。秘密作戦ということで、常に夜間に行われていたのだが、ある日昼間に飛ぶことがあった。すると眼下には緑の大地の中に点々と赤茶けた土がむき出しになっている。彼が落とした爆弾の跡だった。それを目にしたスキップは、この戦争の正体を見せつけられた思いがした。そこで基地に戻ると反戦カフェの運動を展開するのだが、そんなことをすれば当然クビになる。

 そこで彼はジャーナリストへの転身を図るのだが、その手土産として、CIAがカンボジアでクーデターを準備中であるという情報をプノンペンの通信社に持ち込んだ。しかし、APUPIもニューヨーク・タイムズもそんなことはあるはずがないと誰も信用してくれなかったそうだ。しかし、クーデターは実際に起こった。

 クーデター後、米軍はカンボジア侵攻を行った。カンボジア東部国境内にあった北ベトナム正規軍秘密指令部と南ベトナム解放戦線司令部に攻撃を仕掛けたのだ。しかし、この侵攻はベトナム軍をカンボジア領内深くに追いやるだけに終わった。

 そして平和な小国カンボジアを、以後30年にわたり不幸のどん底に突き落とした。後にマスコミの使う”内戦”という言葉は、この事実を押し隠すための情報操作だった。ひいては、これから予定されているポル・ポト裁判は、アメリカがベトナム戦争終結のため、カンボジアへ戦争を拡大したことへの責任逃れをするためにあるのだ。

 しかもその米軍の武力侵攻に対抗するために、ベトナムはハノイのインドシナ共産党の下で訓練した5000人のクメール・ベトミンと共に、それまではほとんど武器など持たなかったクメール・ルージュとシハヌークが呼集した左派を武装闘争に参画させた。これによってベトナム戦争はカンボジア国内へと拡大されることとなった。それまでは国境付近のベトナム軍に対する爆撃ぐらいだった米軍の攻撃が一気に国中へと広がっていったのだ。

 そしてその米軍の侵略攻撃に徹底抗戦の意を示すかのように、ベトナム・カンボジア合同軍は、クメール文化の象徴である世界的文化遺産アンコールワットを手中に収め、解放してみせた。

 私が訪れた時は、シアム・リアップの街はロン・ノル政府軍が押え、アンコール・ワットはベトナム軍指揮下の解放側が押えているという状態だった。

 


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