真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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浮島丸事件「訴状」抜粋

2019年09月22日 | 国際・政治

 日本政府は、意図的に沈められたと思われる浮島丸の沈没原因の究明を求める訴えに耳を貸さず、”触雷沈没”くり返し、数千人が乗船していたと思われるのに根拠を示すことなく乗船者3735人としています。また、死没者名簿にある名前は大部分、女性と子どものものであり、不自然な点が多々あるにもかかわらず 朝鮮人死没者は524名、日本人乗組員死没者は25人と発表しています。でも、詳細は明らかにしておらず、疑問は残されたままです。

 

 そればかりでなく、海軍からの情報として、”大湊にいる朝鮮人は、皆朝鮮に帰れ”と言い、”帰らないと米の配給など今後は受けられなくなる”とか、 ”大湊から朝鮮に行く船は浮島丸が最後だ”というようなことを言って、多くの朝鮮人を浮島丸に乗船させておきながら、沈没後は被害者や犠牲者遺族に、全く謝罪や補償をしていません。沈没当時、徴用された朝鮮人は、まだ徴用を解除されておらず、日本国籍であったにもかかわらず、謝罪や補償をしていないのです。

 さらに、くり返し求められている遺骨の返還にも、誠意ある対応をしていません。

 

 だから、1945824日の浮島丸爆沈から47年が経過した1992825日、韓国に住む生存者や遺族が、日本政府を相手に、謝罪と賠償をもとめる訴えを京都地裁に起こしました。下記は、その訴状の一部です。

「報告●浮島丸事件訴訟」(木)日本国に朝鮮と朝鮮人に対する公式謝罪と賠償を求める裁判をすすめる会編集)から抜粋しました。

 

 戦争によって植民地の人民や少数民族に被害を与えた例は、世界中いたるところにあると思います。でも、第二次世界大戦後、ドイツのみではなく、アメリカやカナダも敵性民族と見なし、不当に財産を奪い強制収容所に収容した被害者や、犠牲となった人たちに謝罪し、「内外人平等」の立法措置を講じて補償に取り組みました。

 しかしながら日本は、被爆者援護に関する法律の一部を除き、戦争犠牲者援護立法のほとんどすべてに「国籍要件」を設け、外国籍の戦争被害者に対する補償を排除しました。したがって、日本は多くの外国籍戦争被害者を原告とする訴訟をかかえることになったのだと思います。

 

 原告最終準備書面の中に、日本人として心の痛む、下記のような指摘があります。

サ条約(サンフランシスコ平和条約)の発効を理由に、日本国は一片の民事局長通達で、在日する朝鮮人からも日本国籍を剥奪し、無権利状態に置いた。戦後も日本で生きることを選択した、或いは日本でしか生きていけない朝鮮人から日本国籍を剥奪し、何の救済措置も取らず、「日本で生きる」という権利さえ奪ったのである。

 

朝鮮人との特別な関係を否定し、単なる外国人とした日本国は、サ条約発効直後に成立した援護法に国籍条項を設け、朝鮮人を対象からはずした。この後、かなり長い間、白い病衣の傷痍軍人がアコーディオン等を弾く姿が日本の街頭で見られたが、これは朝鮮人、台湾人である(映画「忘れられた皇軍」大島渚監督)。朝鮮人、台湾人を日本国民とし、軍人・軍属として、少なくとも10万人以上の戦死者、戦傷病者があったことは、日本人の脳裏から消え去っていた。

 

更には、遅れた樺太からの引き揚げにおいては、朝鮮人を「もはや外国人」とし、日本人だけを引き揚げの対象とした。ごく一部の朝鮮人が、日本人女性の同伴者として日本国に帰国しただけで、4300人と言われる朝鮮人は、樺太に置き去りにされた。朝鮮人の大部分は朝鮮半島南部(現在の韓国)出身で、当時ソ連とは国交のなかった韓国の国籍を持つことも、韓国へ帰ることもできなかった。北朝鮮の国籍を持つことは、故郷への道を閉ざすことであり、多くの朝鮮人がソ連の国籍も取らず、無国籍(最終国籍日本)のまま、望郷の念を捨てずにいた。日本が朝鮮人の日本国籍を認め、引き揚げの対象とすれば、朝鮮人は日本を経由して故郷へ帰ることができたが、日本は認めなかった。

 樺太に朝鮮人がいたのは、戦前は南樺太が日本の領土で、労働力として、強制、半強制的に朝鮮人を動員したからである。その時朝鮮人は、無論、日本国民であった。朝鮮人が日本国籍を喪失するのは原状の回復と日本国は主張するが、樺太の朝鮮人は故郷へ帰って初めて原状を回復できるのであり、それまでは当然、日本国籍である。樺太の朝鮮人の日本国籍を認めることは、朝鮮人に対する日本国の責任と義務を認めることに他ならない。日本国は一方的にそれを放棄したのである。

 

ポツダム宣言に規定されていた戦犯裁判で、多くの朝鮮人がBC級戦犯となり、23名もが絞首刑となった。彼らは戦争を終結し日本の平和を回復するために犠牲となったのである。だからこそ日本人戦犯は、戦地勤務扱いで、恩給法、遺族援護法が適用されている。しかるに、朝鮮人には、罪だけは日本国民として負わせ、後は、「もはや日本人ではない」と見捨てた。「死ぬまでは生きているんだ」と、絞首刑になる直前まで遺書を書き綴った趙文相、彼らの死は日本国民としての絞首刑であり、日本国の為であった。

 

以上のように、サ条約発効による国家主権の回復にあたり、日本は朝鮮人への責任を放棄することを決めたのである。在日朝鮮人に対する日本国籍の一方的剥奪と遺族援護法からの排除その他は同根である。それは、日本国と朝鮮人との特別な関係、植民地支配に伴う戦後の責任を否定したことの具体的な現れである。

 「血も涙もない」、「冷酷無比」という言葉は、日本国のためにあるのではないかと思わざるを得ない。正しく、他国に比べようもないものである。今日の世界の常識にないものである。

 「このような戦争損害は、多かれ少なかれ、国民の等しく耐え忍ばなければならないやむを得ない犠牲」──本件でも、同種の裁判でもいつも言われることである。ここにあるとおり、正しく日本国民であったから、朝鮮人は犠牲になり、耐え忍んだ。しかし、少しも「国民等しく」ないではないか。

 戦争中は、軍人・軍属は朝鮮人も法的に等しく扱われた(甲A第五号証、1955年厚生省刊『続引揚援護の記録』)。戦後サ条約が発効したとたん、もはや日本国民ではないと、朝鮮人は等しく扱われなくなった。それでいて、今日、やはり、「国民等しく耐え忍べ」と日本国も裁判所も言う。

 「国民の等しく」という文言は二重の意味で嘘である。朝鮮人は、日本国民として等しく扱われていない。しかも朝鮮人は日本国民ではない。朝鮮人は日本国民として犠牲だけを等しく受け、日本国民でないから補償は等しく行わない。朝鮮人は日本国の為に、日本人として等しく犠牲になれ、しかし、朝鮮人だから、戦争が終っても日本人が補償されても、いつまでも耐え忍べと、そういうことなのだ。

 これではあまりにもひどいではないか。朝鮮人の犠牲は、何の為の犠牲だったのか。全て日本のための犠牲だったのではないか。それなのに朝鮮人だけが今なお耐え忍ばなければならない。日本国民として、日本のために犠牲になり、戦後は外国人だから、日本のための犠牲を更に耐え忍ばなければならないのである。これが、韓国併合に対する日本の答え、日本の総括なのだ。

 これは、人間を支配者と被支配者に分けて当然とした、前時代の帝国主義と変わらないではないか。今日の世界では決して認められないものだ。かって植民地出身者を軍人・軍属とした帝国主義諸国は、日本を除いて一カ国もこのようなことをしていない。

 ポツダム宣言は、今日も日本が守らなければならない国際法である。戦争に動員した朝鮮人を使い捨てにすることは、朝鮮人を奴隷状態のままに置くに等しい。

 戦争が終ろうと、朝鮮が独立しようと、朝鮮人と日本国との特別な関係が消えてなくなる訳ではない。朝鮮が独立すれば、死んだ者が生き返るわけでもない。一人の人間の人生から、1910年から1945年までを消し去って、全く新しく人生を始めることもできない。「朝鮮人の奴隷状態からの解放」は、日本が朝鮮人との特別な関係を認め、植民地支配に伴う戦後の責任と義務を認めることが第一歩である。”

 「発展途上国支援」としての無償3億ドル、有償2億ドル、民間借款3億ドルの供与及び融資をもって、戦争被害に関する問題をすべて”解決済み”と主張し続けることが許されるのでしょうか。

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【請求の趣旨】

一 被告は、原告目録の(一)記載の各原告にたいして「それぞれ金五千万円、同(二)記載の各原告に対してそれぞれ金二千万円を支払え

二 被告は、浮島丸の沈没により、原告らを含む多数の朝鮮人に多大の犠牲を被らせたことを公式に謝罪せいよ。

三 訴訟費用は被告の負担とする

との判決並びに仮執行の宣言を求める。

 

【請求の原因】

第一 訴訟に至る経過

一 略

二 浮島丸事件

1 浮島丸の出航

(一)1945815日、日本はポツダム宣言を受諾して、戦争は終結し、日本の朝鮮に対する植民地支配も事実上終焉した。日本本土や樺太・千島には強制連行されてきた朝鮮人軍属・徴用工や植民地収奪による生活苦から渡日した朝鮮人が多数居住していた。長年彼らに強制労働を強い、厳しい抑圧を加えてきた軍部を始めとする日本人の間には、日本の敗戦を機とした朝鮮人の暴動の幻想に脅える者も多かった。

 

(二)青森県大湊地区にも、大湊海軍施設部や大間鉄道建設のために強制連行されてきた朝鮮人軍属・徴用工等、多数の朝鮮人が居住していた。大湊海軍警備府司令官は、敗戦から四日目の八月十九日、海軍に徴用されていた輸送船浮島丸(4730トン)に、大湊港から朝鮮人を乗せて朝鮮に回航せよと命令した。日本に在留した朝鮮人が帰国を望み、日本当局に要請し始めるのは同年九月に入ってからであり、敗戦直後の混乱の中で敢えて朝鮮人の送還に踏み切って意図は、朝鮮人の暴動に脅え、それを予防すること以外にありえなかった。

 

(三)しかし、当時の日本海には日本軍の機雷が敷設され、港には米軍の投下した無数の機雷が、未だ掃海されないままになっていた(当時若狭湾に611、舞鶴港だけでも116の米軍機雷が投下されたままになっていたという)。しかも、機雷の位置を示した機密海図は敗戦とともに焼却されていて、浮島丸には交付されず、朝鮮に行けば乗組員がそのまま捕虜になる可能性も否定できなかった。

 

(四)浮島丸の乗組員は、復員の期待を裏切られ、航海の危険を危惧し、敗戦で軍規が弛緩していたこともあって、朝鮮への航行には不満を述べる者も多かった。憲兵や参謀らは兵士たちを軍法会議の恐怖で威圧し、日本刀で威嚇して出航させなければならなかった。

 

(五)一方、大湊付近の朝鮮人は、海軍関係者から「朝鮮に行く船はこれが最後だ」「この船に乗らなければもう配給は支給されない。」などといわれ、続々と大湊港に終結(集結?)して野宿して待機し、浮島丸号に乗船した。もとより朝鮮人らも期間を望んではいたが、軍属・徴用工らは監督者に引率されて、事実上強制的に乗船し、民間人も「配給が支給されない」と言われれば、当時の食料事情から、乗船する以外の選択肢はありえなかった。

 

(六)浮島丸は船底から甲板まで朝鮮人を満載し、822日夜10時ごろ、大湊港を出航した。

 

2 浮島丸の沈没

(一)浮島丸は、日本海を横断する朝鮮半島への最短コースではなく、日本列島に沿って、その沿岸を南西に航行した。もともと航行を忌避していた乗組員らの士気は低く、昼間から酒盛りをする者もいて、戦争中に兵隊を虐待した下士官に兵隊が集団リンチを加えるという騒ぎもあった。

 

(ニ)同年824日、浮島丸は航路を左に変え舞鶴港に入港しようとした。ところが、舞鶴湾内下左波賀沖300メートルにさしかかった午後五時ニ十分頃、船体中央部で突然爆発が起こり、船体が二つに折れ、浮島丸はそのままマストだけを海上に残して、海底に沈没した。乗客・乗員らはある者は海に投げ出されて溺死し、ある者は船から脱出できずに、船体とともに海に沈んだ。

 

3 乗客・乗員と犠牲者の数

(一)浮島丸に乗船していたのは、厚生省の発表によれば、乗組員255人、朝鮮人3735(徴用工2838名、民間人897名)であった。ただし、他の正規の手続きを経ないで乗船した者もあり、遥かに多数の人々が乗っていたはずだと主張する目撃者もいて、正確には把握できない。

 

(ニ)また、大湊海軍施設部が同年91日に作成した「死没者名簿」によると、死亡者数は、乗客524名、乗員25名とされている。しかし、その信頼性には疑問があり、死者の数もやはり正確に把握できない。

 

4 生存者の帰還

 沈没時に船から脱出した生存者のうち、付近の漁民等に救助された者は、舞鶴の平海兵団の寮に収容され、その後海軍工廠の寮に移され、負傷者は舞鶴海軍病院に入院した。海軍は生存者を帰還させるため、917日に山口県仙崎行の列車を準備したが、海軍の帰還事業に不信を抱いた生存者の多数はこの列車の(に)乗らず、自力で故郷に帰還した。

 

5 自爆説(虐殺説)の流布

(一)浮島丸の沈没は、戦後海難史有数の大事件でありながら、日本の新聞には全く報道されることがなかった。その中で、浮島丸の沈没は日本海軍が組織的に仕組んだ陰謀だとの噂が生存者の間で流れ始めた。そして、918日付けの釜山日報は「陰謀か? 過失か? 帰国同胞船爆発 日本人は事前に下船上陸」と浮島丸の沈没を大きく報道し、沈没の原因が自爆(虐殺)ではないかとの強い疑念を表明するとともに、死者の数を5000人と伝えた。こうして、浮島丸事件は日本軍による朝鮮人虐殺事件であるとの認識が広まり、今日の韓国ではこれが定説的地位を占めている。原告らの中にも、自爆説(虐殺説)を確信している者も多い。

 

(ニ)自爆説の根拠とされているのは概ね次の諸点である。

 ① 出航前に浮島丸に大量のダイナマイトや鉄砲類が積み込まれた。

 ② 大湊出航後、この船は無事朝鮮につくか否かはわからない、との噂が船内に広まっていた。  

 ③ 乗船者に支給されるため船に積み込んであった毛布や衣類などの、必要物資を海中に投棄しているのが目撃されている。

 ④ 釜山や元山に直行せずに舞鶴に寄港する理由がない。

 ⑤ 船が舞鶴に近づく頃、朝鮮人憲兵の白氏は、船底に爆発物が仕掛けられ、電線がつないでいるのを知り、驚き、湾に入るや船から海に飛び込んで逃げ出し、これを日本の水兵たちが追跡した。

 ⑥ 日本軍の将校がボートを下ろし、船から脱出した直後に爆発が起こった。

 ⑦ 沈没時に爆発音が三回したが、触雷なら一回しか起こるはずがない。

 ⑧ 触雷なら発生するはずの水柱が目撃されていない。

 ⑨ 後の船体引揚げ時に、船体の内側から外側に破れているのが確認された。

 

 沈没の真相

 (一)右の自爆説に対し、日本政府は米軍の機雷への触雷が原因であると主張してきた。しかし、真相解明のための積極的な努力をして触雷説を裏付けることはしなかった。

 (ニ)浮島丸事件を詳細に取材して1984年に「浮島丸釜山港に向かわず」を出版したジャーナリスト金賛汀氏は、朝鮮行を忌避した一部の下士官による自爆の可能性を示唆している。

 

7 犠牲者の遺骨

(一)事件当時、海岸に打ち上げられた遺体は、舞鶴海平団敷地に仮埋葬され、船とともに沈んだ遺体はそのまま放置された。

(二)19503月、飯野サルベージ株式会社が浮島丸を引き揚げて再利用する計画をたて、船体の後半部を引き揚げ、その中の103柱の遺骨を回収した。しかし、引き揚げた機関部が使用不能と判明したため、残りはそのまま放置された。

(三)同年4月、仮埋葬されていた遺体が掘り出され火葬された。

(四)19541月、飯野重工が浮島丸をスクラップとして利用するため、第二次の引揚げをおこなった。そのとき引揚げられた船体前半部から多数の遺骨が9年ぶりに引揚げられた。日本政府はこれを245柱分であると発表、仮埋葬されていた分と第一次引揚げで発見された分を加え、死没者名簿の524名と一致するとした。

(五)これら遺骨は、舞鶴の東本願寺別院で保管されていたが、1955121日に呉地方援護局に移され、1971年から東京目黒の祐天寺で保管された。

(六)19711120日と1974128日に、外務省を通じて身元が判明したとされる遺骨が韓国に返還された。しかし、今日も285柱とされる遺骨が祐天寺に保管されている。

 

三 戦後補償の国際的潮流 以下略 


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