真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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アメリカの朝鮮分断支配と「ブチャの虐殺」

2022年10月16日 | 国際・政治

 私は今、朝日新聞は戦時中、自社を含む報道機関が 何の検証もせず、国民に何の疑いも抱かせないような内容で大本営発表を流し続け、大本営に加担するかたちで、破滅的な敗戦をむかえたことを深く反省して、戦後の報道を始めたのではなかったのか、と問い詰めたい思いに駆られています。
 なぜなら、かつては大本営に加担し、破滅的な敗戦をむかえたにもかかわらず、今度はアメリカとウクライナに加担して、世界を破滅に追い込みかねない報道をしているからです。

 朝日新聞は、先日の社説で、国連総会がロシアの4州併合を「違法で無効」とする決議を採択したことを取り上げ、”「領土の強奪は許されない」という国際社会の意思は明確に示された。今こそロシアは真摯に受け止め、ウクライナから兵を引くべきだ。”と書いています。ロシアを悪とし、ウクライナは気の毒な被害者で、アメリカを中心とするNATO諸国は、その気の毒なウクライナを支援しているという構図の報道をずっと続けていると思います。

 そしてそれは、いままでアメリカとウクライナからもたらされた情報が、すべて真実であり、疑いようのないものということが前提になっていると思います。
 例えば「ブチャの虐殺」は世界中に大きな衝撃を与え、ロシアを決定的に孤立させることになったと思います。でも、その「ブチャの虐殺」の報道が、真実に基づいていないとしたら、ウクライナ支援のあり方や、国連総会の決議の表決は、違った結果になっていたでしょうし、国連総会の決議が、国際社会の意思とは言えなくなると思います。
 だから、私が「ブチャの虐殺」の報道について感じたことや考えたこと、およびSNSなどで流された情報やkla.tvの報道を含めて、いくつかの疑問を投げかけたいと思います。

 まず第一に、戦争に虐殺はつきものだと思いますが、いままでの戦争での虐殺をふり返れば、長く紛争が続いていた民族間や国家間の虐殺事件のような一部の例外を除けば、その多くは、戦友を殺された恨みや、常に死の恐怖を伴う長期間の戦い、また、悪環境の中での苦しい戦いが、兵士の良心や理性を蝕み、地域住民に対する憎しみを増幅させ、虐殺に至ったことがほとんどだったように思います。
 でも、ウクライナとロシアの戦争では、そういうことはなかったと思います。ロシア軍がウクライナに入った当初の映像には、ロシア兵に向かって、ウクライナ領土になぜロシア軍が入ってくるのかと抗議している人や、戦車の前に立ちはだかって、「帰れ」と声をあげているウクライナの人たちが映し出されていました。ウクライナの人たちには、ロシア兵に見つかれば撃ち殺されるというよう恐怖心がなかったということだと思います。また、キーウからロシア兵が撤退するまで、相互に多くの死者を出すような深刻な戦闘はなかったのではないかと思います。だから、ロシア兵がウクライナ人を虐殺するような異常な精神状態や追い詰められた精神状態にはなっていなかったように思うのです。
 そしてロシア兵は1ヶ月余りで撤退しています。

 現に「ロシア兵は何もしなかったね」と証言する人がいたとの報道もありましたし、ロシア側は”市内で誰も被害を受けなかった”と主張しているのです。
 

 次に、街中に虐殺遺体が転がり、路上にも点々と虐殺遺体が転がっているということで、車内から路上の虐殺遺体をとらえた動画が公開されました。でも、不可解です。路上で虐殺したのでしょうか。それとも、虐殺遺体の一部をわざわざ路上に並べたということでしょうか。あとで、戦争犯罪を問われることになるのに、なぜ、ロシア兵は後ろ手に縛りあげ、頭部に銃弾を撃ち込んだ虐殺遺体などを放置して撤退したのでしょうか。

 また、3月30日にロシア軍はブチャから撤退し、翌日の31日、ブチャ市長はブチャの解放を報告しました。でもその時、ブチャ市長は、なぜ市民が虐殺されていた事実について何も語らなかったのでしょうか。
 4月4日、ニューヨーク・タイムズ紙が、ブチャの街中に虐殺遺体が横たわっているという衛星画像を報じました。この衛星画像は3月19日と21日のものだといいます。なぜ、その時、衛星画像に虐殺が疑われる遺体があるという事実を報道しなかったのでしょうか。虐殺が発表されるまで、それが虐殺遺体であることに気づかなかったということでしょうか。
 さらに、その虐殺遺体は、なぜ第三者機関の立会いのもとで検証される前に処理されてしまったのでしょうか。

 ロシア兵がブチャに入った後、全市民が避難して、ブチャには人っ子一人いなくなっていたというのであれば、虐殺遺体が放置されていたことに不思議はありませんが、ロシア軍がブチャに入った当時、ブチャの人たちはほとんどブチャにとどまっていたのではないかと思います。それなのに、10日以上も虐殺遺体が放置され、だれも市に連絡せず、市長が虐殺を知らなかったということがあり得るでしょうか。不可解です。

 また、ブチャの人たちは、近くの住民が殺された遺体がそこここに転がっているのに、埋葬せず放置し、報告もしないということは、あり得ないことではないか、と私は思います。

 また、ドイツの作家、トーマス・レパー氏は画像の中の多くの遺体が白い腕章をつけていることを指摘したということですが、白い腕章は、ロシア兵を識別するためのもので、ブチャの人たちがロシア兵に連帯して白い腕章を付けたのだろうといいます。そして、ブチャの虐殺報道で利益を得るのは誰かを考えるべきだと言うのです。私は無視してはならない指摘だと思います。

 だから私は、この虐殺はウクライナ軍(アゾフ大隊)が、抵抗するブチャの親ロ派活動家を殺害し、アメリカの働きかけで、ロシア兵がブチャの市民を虐殺したという筋書に変えられた可能性もあるように思います。
 そして、もし「ブチャの虐殺」がそうしたものであれば、それこそ、「ブチャの虐殺」報道は、世界中の人びとを欺く重大な犯罪的報道であると思います。

 その可能性が否定できないと思うのは、戦後のアメリカの対外政策や外交政策が、病的なほど共産主義や社会主義を恐れ、嫌う人たちによって進められてきた歴史があるからです。
 ベトナムでもインドネシアでも、朝鮮でも、アメリカは、共産主義者や社会主義者、また、その支持者を殺す独裁者を支援したり、殺害に加担してきた事実があるのです。

 下記は、その一端を示していると思います。
 国会の多数意見を無視したり、不都合なことはすべて共産分子によるものと断定して、治安維持法の復活といわれる「国家保安法」を制定し、「朝鮮人民共和国」という南北朝鮮一体の独立運動を潰した李承晩大統領を育成、支援したのはアメリカでした。その過程で、多くの人が亡くなったり拘束されたリしたのです。前回取り上げたように、済州島四・三事件では、33,000もの人たちが殺されたとされているのです。
 下記は、「朝鮮戦争 三十八度線の誕生と冷戦」孫栄健(総和社)から「第四章 南北政権の樹立と一般情勢」の一部を抜萃しました。
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                   第4章 南北政権の樹立と一般情勢

 (五) 国家保安法の制定
 この政府樹立直後の48年10月19日夜勃発した麗水・順天の軍隊叛乱事件に対する国会の政府非難は極めて強かった。現在の韓国政府が国民の信望を全く失っているとまで極論する議員もあった。国会はこの叛乱事件を収拾するため、議員20名をもって時局対策委員会を組織し、8項目からなる決議案を作成、これを11月5日の本会議に上程したが、その内容はつぎのようなものであった。
(1) 政府および各愛国団体は連合救護班を組織し、軍警の遺家族および遭難同胞の救護に要する生活必需品と慰問金を全国的に募集すること、
(2) 糧穀買入法の実施は、国民の恨みと反感を買わぬように慎重考慮すること、
(3) 国内のあらゆる青年団を解散し、愛国青年を中心として郷保団を組織し、軍事訓練を実施すること、
(4) 軍事類似団体を解散し、護国軍を組織すること、
(5) 海陸を問わず、38度線の取締を強化すること、
(6) 戸口調査を全国一斉に行うこと、
(7) 各愛国政党、社会団体の連合会議を開き、時局収拾に関する国論を統一すること
(8) 政府は今次事件の責任を負い、挙国的強力内閣を組織して民心を一新すること。
 だが、李承晩大統領はこの決議に対して、議員の倒閣運動は違憲であり、叛乱はすべて共産分子の行為であるから、政府と国会は対立することなく、合作協力して事態を収拾し、政権を強化しなければならない旨を答えた。しかし、この李大統領の反駁にもかかわらず、国会は11月8日にこれを表決した。まず、決議案の中心である第8項の内閣改造要求は、出席議員145名中、86対24、棄権5で採択された。ついで、第3項および第4項は時局対策委員会に具体的細目を作成させたのち、再検討することとした。また、第6項の全国一斉戸口調査が現在の国内情勢では実施不可能であるとの理由から否決されたほかは、第1項、第2項、第5項、第7項はいずれも圧倒的多数で採択された。
 だが、李大統領は、あくまでこれに反対の態度をとった。この内閣改造要求は共産党を利するものであり、国会は少数の議員に動かされていると非難した。そして、10日夜には「政府を保護せよ」と題する放送演説を行い、国会の動きは違憲であり、当面の問題は共産分子の打倒でなければならず、政府を育成していくよう訴えた。
 
 国会はこの48年の軍隊叛乱事件をうけて、破壊行為、反政府分子の防止、弾圧をはかるため、国家保安法案を委員会で起草させることにした。同案は同11月16日の本会議に上程された。だが、盧鎰煥、金沃周、徐容吉等の韓国民主党系倒閣運動派および無所属議員48名は、これが日本の思想犯弾圧法である治安維持法の再現であると非難した。また、その非民主政を衝き、法案の廃棄を要求した。この動議は79対37で否決され、ようやく法案の審議が開始され、反対派の保留ないし修正要求を排して、11月20日、国家保安法は可決された。同法は韓国における共産党の非合法化を法制化した、思想犯と反体制派弾圧処罰法であり、その後の政府の反共取締の根本法規となったものである。

 (六)政府と議会の対立
 一方、議員98名は、11月19日、韓国が外部からの脅威に対して自ら防衛できる能力を持つようになるまで、アメリカ占領軍の韓国駐留の継続を要請する決議案を国会に提出した。これは翌20日、88対3で直ちに採択された。だが、盧鎰煥、李文源等16名の議員はこの決議案の上程に反対して議場を去り、そのうち13名の議員は、この決議が民意に反し、韓国軍の無用と警察の無能を表明するものであるという声明書を発表した。さらに22日には、20日の会議に出席していなかった徐容吉、申性均、朴鍾南等の19名の議員も、反対派の主張に共鳴し、これと行動をともにするとの声明書を発表した。

 このような国会議員一部の反米感情は、12月10日に調印された米韓間の経済援助双務協定の承認についても現われた。だが、同協定は11日議会に上程され、13日に表決に付されたが、その結果85対0、棄権45で承認ということになった。このように表決が急がれたのは、同協定の効力発効が、韓国の国会がこの協定を承認した旨をアメリカ政府へ公式に通告することにかかっていたからとみられたが、表決の当日議員の一部から,協定の内容を充分検討する時間的余裕を与えず、うやむやのうちに通過させるのは欺瞞的であるとか、内政干渉まで受けながら外国の援助を受ける必要はないというような尖鋭な反対論が提出された。結局、反対派議員27名は退場し、「この協定は、韓国の経済的自主性を喪失させるばかりでなく、広範囲の内政干渉を招来する」旨の共同声明を発表するという事態となった。

 このように、韓国政府はその成立の当初から国会との間に軋轢を生じさせていた。政府の無策と非能率に不満をいだく国会は、これを情実内閣とまで非難した。また、政党勢力を反映する連立内閣への改造要求が強く、これがさらに、大統領中心主義を改めて、国会に信任された国務総理を政府の首班とする責任内閣制へ移行しようとする憲法の改正要求となっていた。これに対し、李承晩大統領は、内閣改造要求は共産分子の扇動、示唆の結果であるとして、現状維持を唱えて譲らなかった。しかし、遂に同年12月末に至り、内務部長官尹致暎、外務部長張沢相、社会部長銭鎮漢を更迭し、申性模(イギリスから2ヶ月前に帰国)を内務部長官、李允栄(無任所長官)を社会部長に任命し、外務部次官高昌一を長官代理とした。もっとも、李大統領あるいは李範爽国務総理は、この内閣改造が国会の要求に従って行われたものではなく、あくまで独自なものであり、国会の内閣改造要求決議は違憲で、政府が考慮していた改造の発表の障害になった旨を強調した。

 だが、このような軍隊叛乱事件と、韓国政府と韓国議会の対立は、その対抗措置の結果として逆に李承晩大統領独裁の強化にもなり、それは国家保安法という反体制派に対する政治的弾圧の武器を法的に制定することによって決定化されることにもなった。
 1948年9月4日から1949年4月30日までの間に、韓国国内において89710人が逮捕され、そのうち28404人が釈放されたが、20160人が送検され、29284人が治安局に引き渡され、6985人が憲兵隊所管に移され、1187人が未決となったと国連委員会に報告されている。送検された人数の80%が有罪を宣告され、刑務所に送られた人数は公表されなかったが、司法部長官は12月17日、「刑務所の収容能力は15,000人だが、現在4万人が収容されている」と述べた。
 


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