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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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日本軍政下 ベトナム「200万人」餓死 4

2014年07月18日 | 国際・政治
 安倍首相の独裁的ともいえる集団的自衛権の閣議決定その他を受け、内外で、その背景にある歴史修正主義的な考え方を含めて、今まで以上に、日本の政権に対する批判の声が高まっている。周辺国の政権関係者も日本に対して「歴史修正主義」と言う言葉を公然と使うようになった。
 そして、私自信も、戦争体験者の減少に合わせるように、「歴史修正主義」的な考え方が、日本国内で広がり、深まっていることを、いろいろな場面で感じるようになった。

 日本軍政下におけるベトナムの200万人餓死をめぐる問題でも、事実を正しく検証することなく、日本の軍政を正当化しようとする主張が目立つ。確かに”200万”という数字は概数で、正確なものではない。また、それが日本軍だけの責任でないということも事実であろう。
 しかし、、「当時ベトナムにいた1万人の日本兵が、200万人分の米を食べらわけがない、ベトミンンの政治的な宣伝である」とか「日本軍が配置したのは一個師団、約2万5000人です。2万5000人増加した為、200万人の人々が餓死するということはありません」などといって、責任逃れのできるような問題でないことも確かであると思う。

 タイビン省では、1944年におよそ103万人だった人口が、独立後には75万人に減っていたということや、下記に抜粋したような個別の事実を、総合的に考えると、日本軍政下で、200万人近い餓死者が出たことを否定することは難しい。

 「ベトナム”200万人”餓死の記録 1945年日本軍政下で」(大月書店)の著者、早乙女勝元氏も、200万人餓死の原因として、①天候不順による凶作 ②南からのコメの輸送停止、③ジュートなどへの転作の強要、④日本とフランスによるコメの強制買い付け、の4つをあげ、それらが複合的に影響しあったため、多数の餓死者を出すことになったといっているのである。

 さらに言えば、当時ベトナム北部に駐留していた元日本兵の「その頃、師団は決戦に備えて2年分の食糧を確保していたそうです」というような証言があり、また、ベトナム女性の「日本軍は村人の倉庫から残り少ない米を港に集めて出荷したんですよ。何でも南方の仲間に送るんだそうでした。… 痩せた土地が多い北部では収穫もぎりぎりなんですよ。生きるための米をとりあげられ、実る前の稲穂を刈られて、これじゃ死ね、ということですよ」との証言もある。これらの証言を無視したり”虚言”として切って捨てるのではなく、下記のような事実やその他の資料と合わせて考える必要があると思う。
 
 まず、日本とベトナム(南ベトナム・ゴ・ディン・ジェム政権)との間の賠償協定締結(1959年5月13日)に関わって、国会に提出された政府提案理由の中に「……ヴェトナム領域における特殊な様相は、常時8万前後のわが軍の存在及び南方地域に対する割当20万人の兵站補給基地としての役割から生じた。すなわち、交通輸送機関の全面的徴発、主として米軍の爆撃による鉄道路線の寸断等の原因から国内経済流通が極度に乱れ、加うるに、諸物資の大量徴発のため昭和20年に入ってからは餓死者のみで推定30万が出た」とある。早乙女勝元氏も取り上げているが(『私たちの中のアジアの戦争 仏領インドシナの「日本人」』吉沢 南(朝日選書314)に取り上げられていることはすでに紹介した)、「餓死者のみで推定30万」はさておいて、「常時8万前後のわが軍の存在及び南方地域に対する割当20万人の兵站補給基地」という指摘を見逃してはならないと思う。

 また、早乙女勝元氏は『日本戦争経済の崩壊─戦略爆撃の日本戦争経済に及ぼせる諸効果』(正木千冬訳)に、当時日本は大量のトウモロコシやコメ(モミ)をインドシナから輸入していた事実が記録されている、と明らかにしている。下記にはベトミンによる日本軍のモミ貯蔵庫やコメ倉庫襲撃の話もでてくるが、日本の企業(三井物産)が確保したにもかかわらず、輸送の見通しが立たず、日本国内へ搬入できなかったコメ(モミ)がベトナム現地に大量に残されていたという事実も明らかにされている。

 したがって、ベトナムの200万人餓死をめぐる問題は、当時ベトナムを軍政下においた第21師団の日本兵(兵員数約2万5000人)が、200万人分の米を食べられるかどうか、というような問題ではないのである。

 数え切れない餓死者が出た事実と、それに日本軍が深く関わった事実を真摯に受け止めるべきではないかと思う。

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               第5章 内外の証言記録から

餓死者の数

 大飢饉のリアルな実態から、支配管理者だった日本軍の姿をあきらかにしてきたが、次に飢餓についてのベトナム側の調査と研究のうちから、これはと思う統計を「日本とベトナム」紙より引用したい。
 ベトナム北部からやや南よりのゲアン省(現在のケディン省の一部)は、ホー・チ・ミン主席の故郷で知られる。当時は飛行場や鉄道車輌工場、港湾施設がととのっていたために、日本軍が最大時1万人もの軍を駐屯させたところである。軍事施設の拡張工事は、多くのベトナム人を苦力(クーリー)として動員し、食糧、物資の徴発もひどく、人びとの生活は極度に貧しく追い詰められていた。稲田をつぶしてジュートへの転作も、ラム河川敷で広くおこなわれたという。そこへ悪天候が重なったために、たちまちにして大飢饉となった。同省での飢饉関係調査は、1964年に実施されている。(表2-略)全県を網羅したものではなく、もっとも被害が大きかったとされる8県、263村を対象にして、調査対象期間を44年末より45年初頭の3ヶ月間とした。それ以後の被害は含まれていない。 
  

 したがって限られた範囲内の重点的な調査でしかないのだが、それでも全滅した家族は次頁の表(略)のとおり2250戸を数え、餓死者は4万2630人となる。この死亡者数は、その後ゲアン省での30年にもおよぶ抗仏・抗米戦争による犠牲者数よりも、あきらかに多い数字となろう。
 紅河デルタの南端にあるニンビン省でも、62年にやはり飢饉の被害調査が重点的に行われ、同省のなかでわりと豊かな地域のはずのキムソン・イエンカイ両県だけで、3万7936人の餓死者を出した。
 そのうちキムソン県の内訳を見ていくと、餓死者は6116家族の、2万2908人に達した。うち1571家族の7008人は、家族全滅というもっとも悲惨な結末となった。
 また、この時期に流民となって、村を離れていった行方不明者が3814人いる。かれらが、その後どのような運命をたどったかはわからないが、おそらく大半が行き倒れになったものと思われる。行方不明者も加えると、キムソン県の死亡者は2万7000人近くなる。

 紅河デルタのタイビン省となりの、ハノイ寄りにハイゾォン省がある。同省のフォンタイ村を1964年に訪れた作家の山岸一章氏の『ベトナム-詩と竹と英雄の国』によれば、同村は5620戸、人口3075人の村だが、大飢饉で「この村では2500人(当時の人口)のうち890人が餓死したというのです。アンザクというは、557人のうち411人が餓死したというのです」と記している。
 「いま、豊かな田園風景のなかで、広い水田に田植えがはじまっていました。それを目で見ながら、20年前に、同じ水田地帯のまんなかの農村で、10人に4人、アンザクでは、10人に8人が餓死していったようすを、どうしても想像することができませんでした。わたしは子どものころ、義父が失業して、2日も3日も味噌汁と塩湯で過ごした記憶があって、飢えることの苦しさを知っています。日本の軍国主義者が、”大東亜共栄圏”の美しいことばで宣伝しながら、そのかげで、実際におこなった罪悪の大きさと恐ろしさに、からだがふるえてくるのを止められませんでした。」


 また、大石芳野さんの『証言する民──10年後のベトナム戦争』には、タイビン省で、日本軍が収穫寸前の稲を引き抜かせてジュートに替えさせられた例が出てくる。せめて10日待ってくれの農民たちの懇願さえも日本軍はききいれず、稲を強制的に刈り取られてしまった結果、貯えのなかった小作農たちから先に倒れて死んだ。亡くなった家族や、友人の遺体を埋めながら、次は自分の番だ、誰が自分を埋めてくれるだろうか……という人民委員会某氏のコメントがある。
 同省のタンホー村では、次のように語る人がいた。「『決められた面積に麻を植えなければ、村全体を焼き打ちにする』といわれたので、仕方なく稲を抜いて全体の三分の一を麻畑にしました。でもその結果、タンホー村だけでも飢えで少なくとも1300人が亡くなりました」


 そのタイビン省を1972年に取材した本多勝一氏の『北ベトナム』にも、同省のドンフン県ドンフォン村での餓死者の数が記されている。
 「かくて、ドンフォン村の餓死者は、1944年に137人、翌年に155人、計292人に達した。ほかに出稼ぎで離村したまま行方不明の137人も、どこか他郷で餓死したとみられているから、合計は429人になる。この村は当時より人口がふえたという現在でも約2600人だから、これはおそるべき高率だ。
 こうした中で、ベトミン(ベトナム独立同盟)は『敵のモミの倉庫を破壊して人民を救おう』という運動を展開した。日本軍が集めたモミが倉庫にある。ベトミンは死を賭した民衆を率いて、鎌や包丁をふりかざししてこれを襲った。警備のスキをついて急襲すると、倉庫を守る兵隊など2、3人だから、何千人という怒り狂った群衆にはほどこす術もなかったという。このときの群衆は、片手に包丁、片手にモミを入れるカゴという姿が普通だった。」


 それまでは、歩いていく道になにか落ちていないかと、いつもうつむいてとぼとぼと足を運んでいた人びとが、「片手に包丁、片手にモミを入れるカゴ」姿の大群衆と化したのである。ベトミンは、その先頭に立った。

 先のニンビン省における2つの村の餓死者の調査数を書いたが、同省のニュークアン県には、日本軍が支配者になると同時に、いちはやくベトミンによる大規模なモミ倉庫襲撃が組織されたクインリュー地区がある。同地区で、省初めての革命権力=人民委員会が成立したのは45年4月4日だったというから、日本軍の「明号作戦」から一ヶ月も経過していなかった。すぐに日本軍保安隊が弾圧に出動した。運動の中心だったルーフォン村で銃撃戦となり、省人民委員会の責任者だったチャン・キエン氏が、不幸にも日本軍の銃弾に倒れた。まさに命をかけてのたたかいだったのである。

 すでに前年12月末、ベトミン武装解放宣伝隊が、後の名将ボー・グエン・ザップの指揮のもと、北部カオバン省でたった36人の兵から組織されていたが、飢餓が深まるにつれて人びとの支持を得、爆発的に勢力を拡大していった。


 ベトミンはいたるところで、「日本ファシストから米を奪え」「汗と涙で育て上げたモミを取り返せ」と農民たちを組織していく。日本軍のモミ貯蔵庫や、コメ倉庫がつぎつぎと襲撃されていった。日本軍は、これを暴力で弾圧し、指導者たちを銃殺したり、負傷させたりしたが、深夜でもたいまつを手に手に殺到してくる何百人何千人という大群衆を前にしては、もはやどうすることもできなかった。

 1945年3月9日の直後、ベトミン戦線は、抗日救国運動を促進するよう、全国の同胞に呼びかける「アピール」を発した。アピールの中には次のような一節があった。


  ……国民同胞諸君
 わが民族の運命はか細い髪の毛にぶら下がっている。しかし、千歳一遇の機会
 が来つつある!
 十分な衣食を欲するならば
 家と国を守りたいならば
 兵役、夫役を免れたいならば
 被爆、被弾の難を逃れたいならば
 民族が世界に対して胸を張ることを願うならば
 さあ、立ちあがろう、富める者も貧しき者も
 男も女も、老いも若きも、幾百万人が一つになって!
 刀をとれ、銃を構えよ、
 賊を殺し、裏切り者を駆除せよ。
 強大で、自由な、そして独立した国ベトナムをうちたてよう。
 痛苦と怨恨を注ぎこみ、敵を流し去る滝としよう。国土を守り犠牲となった民族の英雄たちに背かぬよう断じて誓おう。
 同胞諸君!

 抗日救国の時は来た。急いでベトミンの金星紅旗に続け!

 ドク・ラップ(独立)の叫びは、こうしてなだれのように村や町から、民族の一大エネルギーとなって「八月革命」へと突き進んでいく。やっと飢餓神を振りきったやせ細って裸同然の人びとは、勇気以外になにも失うものはなかった。そうした飢えに苦しむ民族の心を心にした者のみが、ベトナムの新しい時代「自由と独立の国家」(ベトナム民主共和国独立宣言による)を築いたのだといえよう。


 
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。

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