先日(6月9日)、朝日新聞に、”From The New York Times ニューヨーク・タイムズから読み解く世界 Drones Changed This Civil War Linked Rebels to the World ミャンマー 抵抗勢力は世界とつながる ドローンが変える軍事政権との戦い” と題する写真入りの記事が、でかでかと掲載されました。何の検証も、批判も、解説も、感想さえもない記事でした。世界を読み解くためには、ニューヨーク・タイムズを読めばよい、といわんばかりの内容に呆れました。
日本のメディアとしての主体性の放棄ではないかと思ったのです。そんなことでは、平和な世界はつくれないと思いました。
そういえば、ウクライナ戦争に関わる記事でも、朝日新聞記者が現地に取材に入って書いたのではなく、アメリカやウクライナからもたらされたと思われる内容の記事が、くり返し掲載されたことを思い出しました。慣れっこになってしまっているのではないかと想像しました。
その書き出しは、下記のようなものでした。
”ミャンマーで軍事政権と戦っている抵抗勢力の最も優秀な兵士の一人は、サンダルにショートパンツ姿だった。彼は武器を自慢げに披露しつつ、謝った。ほとんどバラバラの部品だったからだ。その兵士ジャンジー氏は、3Dプリンターで造形したプラスチックパネルを接着剤でくっつけていた、近くには中国製の農業用ドローンから取り出した電装品が地面に並べられ、配線はまるで手術を待つかのようにむき出しになっていた。……”
ミャンマーで、軍事政権と戦っている兵士は、「抵抗勢力」として評価し、パレスチナでイスラエル軍による人権侵害やパレスチナ人殺害に抵抗して戦っているハマスの兵士は「テロリスト」であるとするようなニューヨーク・タイムズに依拠して、どうして世界が読み解けるのか、と私は思ったのです。
今回取り上げるのは、「日航123便墜落 疑惑のはじまり 天空の星たちへ」青山透子(河出文庫)から、「第3部 乱気流の航空業界 未来はどこへ」の「第一章 過去からのメッセージ」「●不起訴の理由」です。著者は、大学で教える学生の意見や素直な感想をうまく生かし、日航123便墜落事故の重大な問題を明らかにしています。
私は、下記のような記述が、見逃せないのです。
”ボーイング社側は4名で、1978年のしりもち事故修理指示書で、整備指示書にある検査員署名欄から名前を割り出したが、米国側司法省側の捜査協力が得られずに、ボーイング社より聴取拒否との回答によって氏名不詳となった。……事故機の修理ミスについて、担当作業員への事情聴取が断念された。このことがネックとなり、結果的には1989年9月15日20名全員を不起訴処分とする方針を固めたと予測、……不起訴処分の方針を伝えた報道の翌月、10月2日に、実はボーイング社が修理ミスを正式に認めているとの回答をしていることが分かった”
理不尽だと思います。ニューヨーク・タイムズをはじめとするメディアが、単独機としては世界最悪の航空事故といわれる日航123便墜落の事故原因やその法的責任の問題をきちんととらえて報道していれば、「捜査に国境の壁」などという内容の記事が書かれることはなかったと思います。また、”膨大な資料や調書類が国民の前から姿を消して、カーテンの向こう側で終わってしまう”ということもなかったのではないかと思います。日航123便墜落事故に関する”膨大な資料や調書類”が闇に葬られることになったのは、アメリカの司法省だけではなく、アメリカ政府、そして、日本にも駐在員を置いているようなアメリカの大手メディア、また、日本のメディアが、墜落事故の原因や法的責任に目をつぶったからだ、と私は思います。それは、事実の隠蔽や「つくり話」に基づく問題の処理に手を貸すことだ、と私は思うのです。
日航123便墜落事故には、さまざまな問題がありますので、青山透子氏の記述に基づいて、さらに考えていきたいと思うのですが、下記のような指摘も参考になると思います。
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第3部 乱気流の航空業界 未来はどこへ
第一章 過去からのメッセージ
●不起訴の理由
書類送検されたのは、日航で12名、運輸省側では、1978年7月に修理後検査を行なった運輸省修理改造検査担当者の東京航空局航空機検査官の4名である。
そのうちのひとりは1987年に自宅で殺虫剤を飲んで自殺しており、被疑者死亡での送検である。事実上の飛行許可である耐空証明(航空機の飛行性能の安全性について運輸大臣が出した証明)を出していたことを苦にして亡くなったとのことであった。
ボーイング社側は4名で、1978年のしりもち事故修理指示書で、整備指示書にある検査員署名欄から名前を割り出したが、米国側司法省側の捜査協力が得られずに、ボーイング社より聴取拒否との回答によって氏名不詳となった。(1988年12月2日付各紙)
1989年1月23日に前橋地検と東京地検が合同捜査体制を組んで捜査に乗り出し、東京地検検事が渡米して、ボーイング者側の事情聴取が行えるように米国司法省と協議を重ねたが、事故機の修理ミスについて、担当作業員への事情聴取が断念された。このことがネックとなり、結果的には1989年9月15日20名全員を不起訴処分とする方針を固めたと予測、という報道があった。
まだ検察当局の発表が出ていない中での予測報道である。
それに対して航空評論家たちは、各メディアに次のようなコメントを寄せていた。
「ボーイング社と日航の責任分担は8対2であり、主犯はボーイングだが、検察当局がその責任追及ができないという。いくら国際的な法律の壁があるといっても、もっと執念を持って国境の壁を突き破ってしかるべきだ」
「これで膨大な資料や調書類が国民の前から姿を消して、カーテンの向こう側で終わってしまう。結果にこだわらずに裁判をして明らかにすべきだ。公開の場で責任問題を追及すべきであり、その社会的意義は大きく、国民も納得するのではないか」
不起訴となったことで憤りを感じた学生も多かった。
「あれほどの事故なのに、誰も責任をとらないで済むのが信じられない」「今、こうやって暮らしているこの国とは、そうやって物事を簡単に済ませられる社会なのか……」「人災でありながらも、責任の所在が不明確な事故とはひどすぎる」
次々と不満の声が上がる。
不起訴処分の方針を伝えた報道の翌月、10月2日に、実はボーイング社が修理ミスを正式に認めているとの回答をしていることが分かった、とある。新聞各紙によると、その回答には、修理の日時、場所、修理計画、スタッフなどに触れており、「修理ミスをした」とはっきり認めたという。しかし、そのスタッフが具体的にどう修理したかなどの刑事責任追求となる点については、まったく触れていないという内容の記事だった。
なんと修理ミスを認めて回答しているではないか。
父親が自動車修理工場を経営しているという学生Dは、親にこのことを話して、いろいろな「大人」の立場を聞いてきた。
以前、三菱自動車工業(現在の三菱ふそうトラック・バス)製造のトラックのタイヤが飛び、その事故で死者が出てもなお整備ミスとされた事件があった。結局、三菱自動車工業側が根本的な欠陥品のリコール対象車を隠して、事故原因を隠蔽していたという事実が分かった。
整備工場側の整備ミスにされたこの事件を通じて全国の小さな修理工場は、当然のことながらプロとして精一杯正直に仕事をすることが最終的には自分を守り、真実を見つけることだと悟ったという。 ボーイング社の社員で、修理ミスをした人間がいるのであれば、それがミスであって、わざと手を抜いたのではないなら、きちんと出てきて自らを語るべきだという意見であった。
さて、この事故を担当していた検事達も苦悩していたのである。「捜査に国境の壁」という内容の記事(1989年11月24日付毎日新聞朝刊)を取り上げた学生Eは、「検事たちがワシントンの米司法省内で交渉しても、ボーイング社の修理担当者に、直接質問を投げかけることは出来なかったとありますが、それはなぜなのか調べました。
・・・中略
もう一度、あの事故の法的な結末をここに記しておく。群馬県警から業務上過失致死傷容疑で書類送検された日航12名、運輸省4名(1名死亡)、ボーイング社4名(被疑者不詳)計20名と遺族から告訴、告発された三者の首脳ら12名(うち1名送検分と重複)の計31名全員を不起訴処分とした。 不起訴理由としては、送検分20名(1名の死亡者を除く)は「嫌疑不十分」遺族からの告訴、告発分はボーイング社首脳2名が「嫌疑不十分」日航、運輸省関係9名は「嫌疑なし」
以上である。(1989年12月23日付各紙)
ボーイング社においても、技術担当者、品質管理責任者の指示が適切で、作業担当者は特定出来ず、具体的な過失は認定できないとした。
ある遺族は、
「ボーイング社を起訴すると、まるで日米関係の新たな問題になることを恐れているような雰囲気を感じた」と新聞記事の中で語っている。日米間の国境による法の壁は越えられなかったということか、それとも何か他に理由があるのだろうか。
運輸省側も、航空会社が行う領収検査(メーカーから引き渡しを受ける際に行う機体仕上がりなどの各種機能チェック)に対して、検査官が支持監督権限を持つわけではなく、検査も不適切とは認め難いとした。
日航側も、領収検査の不適切な点は指摘したものの、外見上修理ミスは発見できず、特別の検査が必要と思われなかったとして、修理ミスを発見する可能性はなかったことや、C整備についても当時19個の可視亀裂が生じていたとする事故調査委員会の調査結果について、「推定にとどまり、断定できない」とした。
ただこの時、前橋地検は事故調査委員会の検査レベルのとり方が誤っていたことを指摘している。つまり、C整備での疲労亀裂発見確立の算定で、事故調査委員会は発見率を「60─14%」としていたが、地検側は「6.6─2.0%」であったとし。致命的な誤りを事故調査委員会が犯したとしている。ケタ違いの亀裂発見率である。
事故調査委員会側はG2検査をしているととっており、地検はG─1検査と断定したためで、これはC整備の方法についての相違である。
少し専門的になるが、この整備方法は重要であるので説明する。
もともと整備マニュアルでは後部圧力隔壁は、G1(巨視的検査)でOKとなっていることを反映している。
G1とは、一定範囲を60センチから1メートルの距離から目視することを基準としている巨視的な検査方式で、機体外面一般や貨物室ドアなど、構造部材の波打ちやゆがみ、変形などの発見を期待するものである。
いずれにしても地検の不起訴理由に、このG1検査では修理ミスで生じた亀裂発見は難しかったとしたのであった。
それならば、事故調査委員会は、なぜ整備ミスとしたのだろうか。
ヤニがべっとりと付いていたという記事や亀裂を指さした写真は一体何だったのだろう。
最終的に前橋地検が出した結論は、「すべては推定にとどまり断定できない」となった。
「夫は日航、ボーイング、運輸省だけでなく、地検にまで二度殺された」といった遺族の言葉を取り上げた学生がいる。国を救ってくれなかったという意味だ。
ただ、もう一度考えてみる。すべては推定にとどまり、断定できないとある。
これはもしかして本当の真実は別にあるという意味なのではないか……。
そういう意見を出した学生もいた。
なるほど、確かに、静まりかえった心で新聞記事を追っていくと、そういう道も見えてくる。
これは結果を踏まえての遺族による不服申し立てを受け、審査をしていた前橋検察審査会は、1990年4月25日午後「ボーイング社修理スタッフ2名、日航検査担当者2名については不起訴不当」とる議決を出した。刑事上の時効を迎える8月12日まであと、3ヶ月程である。
しかし残念ながら結局、再び不起訴となった(1990年7月13日付各紙)
これで単独航空事故として史上最大の墜落事故においての刑事責任は誰ひとり問われることなく、1990年8月12日に時効を迎えたのである。
学生Eがレポートで、「この事故が誰も罪を問われることなく時効を迎えた」と発表を締め括る
と教室が静まり返った。
「時効って冷たい響きだわ……」
「今後は誰も罪を問えないなんて……」誰かがポツンとそう言った