「続・現代史資料(12)阿片問題」(みすず書房)の中に、「人物往来」(昭和40年9月号)で取り上げられた山内三郎の「麻薬と戦争ー日中戦争の秘密兵器」という論文が、一部カットしたかたちで掲載されている。そして、筆者の山内三郎についてヘロインを製造した製薬会社の社長で、一時期ヘロイン患者であった人物であると紹介されている。国策としての日本の麻薬政策や戦争とのかかわりの実態を赤裸々に暴いている元製造業者の貴重な論文である。第一章から印象深い項目を抜粋する。
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麻薬と戦争ー日中戦争の秘密兵器ー
山内三郎(元南満州製薬KK社長)
第1章 日・支麻薬外交
麻薬の金城湯池・シナ ─ 略
優秀な日本製ヘロイン ─ 略
爆撃機で運びこむ
支那大陸における日本人のヘロイン製造人たちは、甘い蜜に群がる蟻のようにその数を増やしていった。満鉄総裁が彼等の商いを奨励し、関東軍がそれを保護助成した。あたかもそのやり方は、かつてイギリスが阿片を片手にトルコ、ペルシャ、インドを無血で東進したごとく、日本はヘロインをもって、支那大陸侵略の野望を充たさんとしたのである。
満州を拠点として、やがて日本のヘロイン勢力は、北支から中支、南支へと伸びていった。蒋介石政権は、ヘロインを含む麻薬の一切を禁止したのだったが、麻薬業者から吸いあげる利益が、大きな政府の財源となったことで、却って公許の吸烟所を設置したりして、とても根絶やしにするだけの熱をもたなかった。
それまで支那の秘密結社である青幇、紅幇、洪幇などの主たる財源は阿片であり、なかでも青幇(チンパン)は、大幹部の蘇嘉才、張粛林、杜月笙などが大阿片商人であったから、彼等のもつ勢力に対して、蒋の国民政府がいかに麻薬の粛正を計っても無駄といわなければならなかったのである。杜月笙など、大阿片商人でありながら国民政府の最高顧問格で、軍事委員長をも兼ねていたのだから、その複雑さが想像できようというものだ。
日本人の現地でのヘロイン生産に併行して内地の大日本製薬、星製薬などの製品は、支那各地の政商を通じて盛んに売りこまれた。一般には陸軍のやり方は、日本人のヘロイン商人を保護して、彼等からのリベートによって○○機関、××機関の機密費を賄う方法をとっていたが、海軍などは有名な児玉機関などのように、直接ヘロインによる利益によって莫大な軍事費を蓄積していくのだった。
中支から南支といった遠距離のヘロイン輸送は、内地から爆撃機などによって大量が運ばれている。大手の製薬会社は、夜を日についでヘロイン製造に熱を入れ、原料の阿片などは、印度洋を不自由な船で送ってくるのではとても間に合わず、国内でケシの栽培が奨励された。
ケシは、水田の裏作として植えられ、北海道や樺太では、ケシを栽培するための開墾が進められた。
支那大陸での日本のヘロイン商売は、先述した2つの大きな目的をもった国策として、大正の中期から、ついに太平洋戦争で日本が、敗れるまで続けられた。とくに日本軍が仏印に進駐し、やがてタイ、ビルマなどを掌中に入れた昭和17、8年頃には、阿片の入手経路は東南アジアの各地に及び、内地で生産される阿片に加えて、支那に売られるヘロインの量は非常な増加をみたのだった。
冀東防共地区 ─ 略
悲鳴をあげた蒋介石
<145字略す>
世界から総スカンを食った満州<国>であったから、国際聯盟には無論加入しておらず、そのため、万国阿片会議に出席する義務ももっていなかった。だから、公然と阿片吸烟所が満州各地に設けられていたのである。
満州建国の3年前、昭和4年に、私は青島に渡り、ヘロイン製造の技師として働いたが、建国後、昭和8年10月には大連に移り、ここでヘロイン製造にのり出し、翌9年には大連市小崗子に資本金5万円の”南満州製薬会社”を創設した。
表てむきは医薬品エーテルの製造で、原料のアルコールは三菱系の満州酒醸から手に入れていた。実際には、ヘロイン製造は工場内で行なわれず、3人一組の作業員が十数組に分かれて、現地に転在するリンゴ園の中でこっそりと進められたのである。
3人一組になるのは、ヘロインの結晶を濾過するのに用いるハンド・ポンプを動かす係、エーテル運びなどの雑役、それに結晶づくりの3つの仕事の分担があったからだ。
一組の生産高は一昼夜でおよそ10キロ。年間約500~1000万円の利益が上がり、人件費から、役人との接渉費、その他種々のリベートなどがまかなわれたのである。
リベートの主なものは原料(粗製のモルヒネ)を運んでくれる者、それを保護してくれる将校、憲兵などに支払われた。たまには取締り当局の網にかかることがあって、私たちが出頭したときなどに、憲兵が官憲に手をまわしておいてくれるのである。そのため、日頃から彼等と親しくしておく必要があったし、それに使うための渉外費を出すだけの儲けは充分にあったのであった。
ヘロインは驚くほどよく売れた。阿片吸烟所はもちろん、一般の家庭内でも公然と吸烟は行われた。
当局の取締りもあくまで一応のもので、それほど徹底したものはなかった。街の売春婦の館とか、料理屋の一室とか、風呂屋の奥の部屋などで、合図をすればたちまち吸烟の準備がなされたのである。
街に氾濫しているヘロインは、いつどこででも手にいれることができたし、もし満州人と腹を割って話し合いたいという段になれば、まずヘロインか阿片の一服が交換されるのであった。
街角にごろごろしている苦力(クーリー)なども、煙草の先端に白粉を附着させて一服するのである。その魔性はともかく、なぜあれほど支那・満州の民衆にヘロインや阿片が流行したのであろう。安定を欠いた。他民族に侵され、国威を恢復した例しがなかった。満州なども、王道楽土、五族協和が叫ばれながらも、実際は日本軍閥の沃野となったに過ぎなかった。夢がなく、希望がないところに麻薬ははびこっていくのである。
蒋介石政府は、日本と満州国からのヘロインの密輸が年々増加していくのに悲鳴をあげて、国際聯盟や万国阿片会議に提訴を続けるのであったが、実際に開かれた阿片会議などでは、日本はいつも、のらりくらりと受け流すばかりであった。
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麻薬と戦争ー日中戦争の秘密兵器ー
山内三郎(元南満州製薬KK社長)
第1章 日・支麻薬外交
麻薬の金城湯池・シナ ─ 略
優秀な日本製ヘロイン ─ 略
爆撃機で運びこむ
支那大陸における日本人のヘロイン製造人たちは、甘い蜜に群がる蟻のようにその数を増やしていった。満鉄総裁が彼等の商いを奨励し、関東軍がそれを保護助成した。あたかもそのやり方は、かつてイギリスが阿片を片手にトルコ、ペルシャ、インドを無血で東進したごとく、日本はヘロインをもって、支那大陸侵略の野望を充たさんとしたのである。
満州を拠点として、やがて日本のヘロイン勢力は、北支から中支、南支へと伸びていった。蒋介石政権は、ヘロインを含む麻薬の一切を禁止したのだったが、麻薬業者から吸いあげる利益が、大きな政府の財源となったことで、却って公許の吸烟所を設置したりして、とても根絶やしにするだけの熱をもたなかった。
それまで支那の秘密結社である青幇、紅幇、洪幇などの主たる財源は阿片であり、なかでも青幇(チンパン)は、大幹部の蘇嘉才、張粛林、杜月笙などが大阿片商人であったから、彼等のもつ勢力に対して、蒋の国民政府がいかに麻薬の粛正を計っても無駄といわなければならなかったのである。杜月笙など、大阿片商人でありながら国民政府の最高顧問格で、軍事委員長をも兼ねていたのだから、その複雑さが想像できようというものだ。
日本人の現地でのヘロイン生産に併行して内地の大日本製薬、星製薬などの製品は、支那各地の政商を通じて盛んに売りこまれた。一般には陸軍のやり方は、日本人のヘロイン商人を保護して、彼等からのリベートによって○○機関、××機関の機密費を賄う方法をとっていたが、海軍などは有名な児玉機関などのように、直接ヘロインによる利益によって莫大な軍事費を蓄積していくのだった。
中支から南支といった遠距離のヘロイン輸送は、内地から爆撃機などによって大量が運ばれている。大手の製薬会社は、夜を日についでヘロイン製造に熱を入れ、原料の阿片などは、印度洋を不自由な船で送ってくるのではとても間に合わず、国内でケシの栽培が奨励された。
ケシは、水田の裏作として植えられ、北海道や樺太では、ケシを栽培するための開墾が進められた。
支那大陸での日本のヘロイン商売は、先述した2つの大きな目的をもった国策として、大正の中期から、ついに太平洋戦争で日本が、敗れるまで続けられた。とくに日本軍が仏印に進駐し、やがてタイ、ビルマなどを掌中に入れた昭和17、8年頃には、阿片の入手経路は東南アジアの各地に及び、内地で生産される阿片に加えて、支那に売られるヘロインの量は非常な増加をみたのだった。
冀東防共地区 ─ 略
悲鳴をあげた蒋介石
<145字略す>
世界から総スカンを食った満州<国>であったから、国際聯盟には無論加入しておらず、そのため、万国阿片会議に出席する義務ももっていなかった。だから、公然と阿片吸烟所が満州各地に設けられていたのである。
満州建国の3年前、昭和4年に、私は青島に渡り、ヘロイン製造の技師として働いたが、建国後、昭和8年10月には大連に移り、ここでヘロイン製造にのり出し、翌9年には大連市小崗子に資本金5万円の”南満州製薬会社”を創設した。
表てむきは医薬品エーテルの製造で、原料のアルコールは三菱系の満州酒醸から手に入れていた。実際には、ヘロイン製造は工場内で行なわれず、3人一組の作業員が十数組に分かれて、現地に転在するリンゴ園の中でこっそりと進められたのである。
3人一組になるのは、ヘロインの結晶を濾過するのに用いるハンド・ポンプを動かす係、エーテル運びなどの雑役、それに結晶づくりの3つの仕事の分担があったからだ。
一組の生産高は一昼夜でおよそ10キロ。年間約500~1000万円の利益が上がり、人件費から、役人との接渉費、その他種々のリベートなどがまかなわれたのである。
リベートの主なものは原料(粗製のモルヒネ)を運んでくれる者、それを保護してくれる将校、憲兵などに支払われた。たまには取締り当局の網にかかることがあって、私たちが出頭したときなどに、憲兵が官憲に手をまわしておいてくれるのである。そのため、日頃から彼等と親しくしておく必要があったし、それに使うための渉外費を出すだけの儲けは充分にあったのであった。
ヘロインは驚くほどよく売れた。阿片吸烟所はもちろん、一般の家庭内でも公然と吸烟は行われた。
当局の取締りもあくまで一応のもので、それほど徹底したものはなかった。街の売春婦の館とか、料理屋の一室とか、風呂屋の奥の部屋などで、合図をすればたちまち吸烟の準備がなされたのである。
街に氾濫しているヘロインは、いつどこででも手にいれることができたし、もし満州人と腹を割って話し合いたいという段になれば、まずヘロインか阿片の一服が交換されるのであった。
街角にごろごろしている苦力(クーリー)なども、煙草の先端に白粉を附着させて一服するのである。その魔性はともかく、なぜあれほど支那・満州の民衆にヘロインや阿片が流行したのであろう。安定を欠いた。他民族に侵され、国威を恢復した例しがなかった。満州なども、王道楽土、五族協和が叫ばれながらも、実際は日本軍閥の沃野となったに過ぎなかった。夢がなく、希望がないところに麻薬ははびこっていくのである。
蒋介石政府は、日本と満州国からのヘロインの密輸が年々増加していくのに悲鳴をあげて、国際聯盟や万国阿片会議に提訴を続けるのであったが、実際に開かれた阿片会議などでは、日本はいつも、のらりくらりと受け流すばかりであった。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。