真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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第二霧社事件の陰謀-小島源治巡査部長の告白

2011年02月01日 | 国際・政治
 台湾霧社において、理蕃政策に抗議し蜂起した山地原住民壮丁(ソウテイ)は、日本人だけではなく、漢民族や山地原住民も大勢が集まっている運動会場を襲い、女・子どもを含む134人の日本人を集中的に斬首するなどして虐殺した。総督府は直ちに台湾全島より警察官約1000名を動員して討伐隊を組織するととに、台湾軍にも出動を要請した。そして蜂起した山地原住民「皆殺し」の討伐に乗り出すが、討伐に手こずった日本側は、その際蜂起しなかった蛮人(山地原住民)を味方蛮として利用した。蜂起蛮(蜂起した蛮人で敵蛮・反抗蛮などとも呼ばれ、投降し保護されてからは保護蛮とも呼ばれた)の首に破格の賞金をかけた日本側の作戦によるこの同族同士の殺し合いが、第二霧社事件の悲劇へと発展するのであるが「昭和の大惨劇 霧社の血桜」江川博通(森永印刷)には、第二霧社事件を嗾けた小島源治巡査部長の告白文がある。下記、秘録タウツア蛮(味方蛮)保護蛮襲撃の動因の<>内がそれである。
 この本の著者「江川博通」は、当時の事件地を管轄する能高郡警察課長であったという。彼は同書の中で、「第二霧事件と筆者の感慨」と題して「また、飛行機は日に数回波状爆撃を敢行し、焼夷弾、催涙弾、爆弾投下を続行し、その都度家は焼け、巨木は裂け倒れ、人畜にも数十の死傷をだした。斯くの如くして、反抗蛮のせん滅を期したのであるが、かかる威力を有する討伐隊が、なお且つ、いわゆる味方蛮なるものを駆り立てて、彼ら間の怨恨仇敵感を一層増長深刻化せしめ、蛮地に不穏な空気を醸成せしむる必要があるであろうかとも思った。然るにはしなくも、この後者の戦術が第二霧社事件の主因となったのである。」と書いている。

※ 当時、台湾の山地原住民を蛮人(蕃人)とか生蕃と呼んでいた(また彼らの居住地は蕃地などと呼ばれた)が、差別的であるということで、その後、高砂族などと呼ばれるようになった。ただここでは著者の使った漢字(蛮)や言葉遣いに従った。
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                   第二霧社事件

 昭和6年4月25日、台湾台中州能高郡蕃地霧社地方において、昨秋の霧社事件の際我官憲に強力した、味方蛮中のタウツア蛮が保護蛮(霧社事件の反抗蛮にして、討伐中投降したる男女514名を収容保護中の者)を奇襲して、一挙に男女計190名を殺害し、その他縊死者19名行方不明者9名を出した。いわゆる第二霧社事件なるものがぼっ発した。

 ・・・(以下略)
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   秘録タウツア蛮保護蛮襲撃の動因

 私は昭和43年3月14日小島源治氏に対し、昨年9月受領した同氏よりの書簡中、理解し難い点があったので、質問状を書いたところ3月18日回答があった。それはタウツア蛮が、保護蛮を奇襲殺害したと伝聞した瞬間、私の脳裏に走った、もしかしたらと思ったものに対する回答でもあった。則ち次の通り書いてある。


 お手紙によれば、霧社事件のことを「霧社の血桜」という題名で、追想録を著作なされている由。私共33年も在住して本籍地同様の台湾霧社は、桜の名勝で観光地として有名であったが、今日では外国となり淋しさを感ずる破目に落ちたるものを追想されるとは、万感の思い出であります。歴史は幾多の犠牲的精神のこもった昔を振り返り、後生に伝えるべき当然の義務であります。宜敷御願い致します。───と前置きして筆を進めている

 <私が前に霧社事件について終始まで完結同然だと申したのは、同事件のあったことだけを差したのではなく、霧社事件、第二霧社事件にあったことに、思いを及ぼして書いたものであります。御承知の通り、第二霧社事件の原因は、敵蛮ボアルン社、マエボ社、ホーゴー社等の蛮人を桜駐在所附近に収容して、桜社と称し、保護したことに問題があるのです。霧社事件が片付き収容中の敵蛮が耕作農業を開始し、彼らが農作に従事しているところを、味方蛮が襲って馘首するので、官憲としては味方蛮に銃器を貸与しておいては不穏情勢は絶えないとして、味方蛮に貸与銃器弾薬の返納を勧告することとなり、三輪警務部長、宝蔵寺警察課長一行は、警察隊、機関銃隊2個小隊を率いて、タウツア駐在所に来て勧告しました。私がタウツア社頭目勢力者と話し合った結果の蛮情は、今貸与銃を取られたら、われわれは味方蛮として反抗蛮討伐の際、相当の犠牲を出している。敵意はこの後にある。われわれが埔里、または霧社に出入りする際マヘボ社、ボアルン社の蛮人から、何時なんどき殺されるか知れない。貸与銃を取り上げられることは、蟹が足をもぎ取られると同然であるから、平穏になるまで貸しておいてもらいたいとの陳情があった。宝蔵寺さんも困り三輪さんと打ち合わせた結果、本日は考えてみるということになった。タウツアは至難と見た一行は、トロック社を先にすることに変更した。

 このとき宝蔵寺課長は、密かに小島ちょっと来いと駐在所裏に回った。談合はいろいろあったが、詳細は抜きにして要点だけ述べると、極秘密裏に今夜中に、保護蛮を襲撃して鬱憤を晴らさせては如何か、そして其後で銃器全部を提供させるという、内容のものだった。依って小島は、警備員に秘密に駐在所を抜け出し、タウツア蛮頭目勢力者と会い、前記話の内容を示したところ、彼らは喜んで諾し、警備員にかくれて蛮社を出発し、途中警備配置のある道を避け山越えして、夜明前に桜社を襲撃した。タウツア蛮が保護蛮の首級101個を馘首したこと、ご存じと思います。駐在所では、私が職員、警備員にも極秘にしていたため、誰一人としてタウツア社の行動を知れる者なく、桜駐在所の樺沢警部補からの電話通報で始めて知って驚いた。

 トロック宿泊中の宝蔵寺課長の命令で、小島は事件阻止のため、巡査27名を引率して、現場桜社に向かった。途中首を取った者、負傷した者たちの帰社するのに出会った。彼らの中には、桜駐在所の日本人警察から、機関銃で射たれ酷い目に合った。機関銃さえなければと、くやしがる者もあった。現場に着きなお活躍中の者をやめさせ、これを伴い帰途についた。途中まで私を迎えに来た宝蔵寺課長は、私に対し密かに言った。「警察部長さんには蛮人の出草を少しも知らず、申訳ないとあやまって呉れ、それだけでよい。他のことはなにも言わないで、ただあやまれ」と申されたので、三輪さんには申訳ないの連発であった。然し、貸与銃引き揚げは直ちにやれと申されるので、午後1時ごろまでに弾薬並びに銃器一ちょうの残りもなく押収提出した。この事件でタウツア蛮丁は機関銃のため、死者1、負傷者5~6名を出した。

 官憲では、再度の襲撃を憂い極度に恐怖している生存保護蛮の、川中島移住を説得し、1週間も経たぬ間に移住せしめた。その後味方蛮へは、反抗蛮討伐の功績により、トロック蛮にマヘボ、ボアルン両社の耕地を与え、タウツア蛮にはホーゴー社の土地を分割して与え、一部をそれぞれの土地に移住させた。私に残された問題は、タウツア蛮が無断で保護蛮を襲撃した責任者として、不届のかどで罰俸処分を受け、警部補任官も昭和9年4月6日に延期され、昭和11年3月31日依願免官となった。これも、宝蔵寺さん、三輪警務部長さん、坂口警務部長さん、並びに総督府斎藤警部さん方の大変なお骨折りで、懲戒免職にもならず、今日田舎で恩給生活をしています。昔勤めた思い出の多い霧社は、永遠に忘れられません。

 この返事には、ロードフ収容保護蛮襲撃のことは書いていないが、前記馘首した101の首級は、スーク、ロードフ2カ所における合計である。ロードフ収容所襲撃部隊は、スーク襲撃隊と同時にタウツアを出発、文字通り胸突くような険路を、いわゆる草木も眠る丑満ごろ粛々として、蛮路を辿って攀ぢ登り立鷹に到達した。この辺一帯は標高2700メートル以上の連山で、この高地から一気にロードフに馳せ下り、源九郎義経の鵯越逆落としさながらの奇襲戦法で、本意を成し遂げたのである。かくてこの両所襲撃で大戦果を挙げた、タウツア蛮の会心の笑を面のあたりに見る心地がする。これが彼らの哀惜措く能わざる銃器弾薬を、断固全部提出をもたらしたる所以でもあり、また小島源治氏の言う、犠牲的精神発露の成果でもある。

 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は、段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。 

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