再び閣僚の重大な問題発言がありました。麻生副総理兼財務大臣が、福岡県直方市で開かれた会合で、「…2000年の長きにわたって一つの国で、一つの場所で、一つの言葉で、一つの民族、一つの天皇という王朝、126代の長きにわたって一つの王朝が続いているなんていう国はここしかありませんから。いい国なんだなと。これに勝る証明があったら教えてくれと。ヨーロッパ人の人に言って誰一人反論する人はいません。そんな国は他にない。…」と言ったのです。
私は、この発言を二つの点で受け入れることができません。
その一つは、報道でも明らかなように、この発言がアイヌ民族の存在を無視するものであるということです。この発言は、アイヌ民族を「先住民族」と明記し、”アイヌの人々が民族としての誇りを持って生活することができ、及びその誇りが尊重される社会の実現”をめざすとした「アイヌ施策推進法」に反します。
現在、アイヌ民族が北海道・樺太・千島などに先住し、固有の文化を発展させていたことを否定する人はいないと思います。
そのアイヌの人たちが先住していた「蝦夷」と呼ばれた地域は、明治政府によって「北海道」と改称され、本格的な開拓が開始されて、大勢の和人(アイヌ以外の日本人)が本州から移り住みました。移り住んだだけではなく、当時の政府がアイヌ語やアイヌの生活習慣を禁止し、アイヌの人たちが伝統的な方法で利用してきた土地を取り上げたり、サケ漁や鹿猟を禁止したりした事実は忘れられてはならないことだと思います。こうした明治政府の同化政策の結果、アイヌの人々は、その後長く貧窮を余儀なくされ、差別され続けることになったのです。
現在を生きる私たちが、そうした事実を正しく受け止め、継承していこうとすることなく、「…2000年の長きにわたって一つの国で、一つの場所で、一つの言葉で、一つの民族、一つの天皇という王朝、126代の長きにわたって一つの王朝が続いているなんていう国はここしかありませんから。いい国なんだなと。…」などと、あたかも現在の日本が「単一民族国家」であるかのように言うことは、事実に反するのみならず、法的にも道義的にも許されないことではないかと思います。
もう一つは、この発言が明治政府によってつくられた「皇国日本」、すなわち大日本帝国憲法や教育勅語、軍人勅諭等の考え方を受け継ぐものではないかということです。先の大戦で、日本を滅亡の淵に追い込んだ「皇国日本」の”あやまち”を、無かったことにするような考え方ではないかと思うのです。かつて他民族を抑圧し支配した貪欲で差別的だった日本をきちんと認め、反省することなく、ただ長く続いているから”いい国”などと言うことは、私は許されないと思います。また、「皇国日本」では、天皇が「現人神」とされたが故に、様々な不幸の源となったのではないかと思います。そうした天皇家が126代続いていることを日本の誇りにしようとする考え方は、まさに「皇国日本」の考え方であり、日本を特別な国とするものではないかと思います。
そういう意味では、同様の発言が過去もあったことが看過できません。
かつて中曽根元総理は、「知的水準」発言で、アメリカから猛烈な反発を受けたとき、その言い訳に日本が「単一民族国家」であると主張したことがありました。それが私が記憶する「単一民族国家」発言の最初です。
中曽根元総理は、アメリカには黒人や中南米・カリブ海地域などからの移民が多数混在しているため、平均的な知的水準は日本の方が高いと発言し、米下院に中曽根批判決議が提出される事態を招きました。そして、中曽根総理の公式謝罪と発言の撤回を求める激しい動きがあり、アメリカの黒人やヒスパニック系諸団体が、アメリカの有力新聞各紙に全面広告を出したりして、中曽根批判を行ったことがあったのです。
その謝罪会見の際に、中曽根元総理は、米国は「複合民族国家」なので、教育など手の届かないところもあろうが、日本は「単一民族国家」だから手が届きやすいのだ、というような言い訳をしたのです。それが、今度は日本国内で、北海道ウタリ協会などの反発を招いたのです。
同じ政党に属し、80歳近くになる麻生副総理兼財務大臣が、大きな問題となったそうした事実を知らないはずはないと、私は思います。だから、私は「皇国日本」復活の意図を感じ、受け入れることができないのです。
戦前の「皇国日本」は、韓国を併合し、朝鮮人を抑圧し差別しつつ、アイヌに対するのと同じように同化政策を展開しました。
そうした事実の一端は、下記のような朝鮮人労働者の実態の掘り起しや朝鮮人労働者の証言で明らかだと思います。多くの朝鮮人を強制的に連行し、タコ部屋と呼ばれるようなところに住まわせ、奴隷のように酷使した歴史の事実をきちんと踏まえれば、麻生発言はありえないと思います。
下記は、「朝鮮人強制連行論文集成」朴慶植・山田昭次監修:梁泰昊編(明石書店)から抜粋しました。
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(長野)
戦前・戦時下の下伊那における朝鮮人労働者の実態の掘り起し
はじめに
戦前から戦時下にかけて、飯田・下伊那地方においても、かなりの数の朝鮮人労働者が鉄道工事やダム工事に従事していた。しかし当時の記録はほとんど残っておらず、また当時労働に携わった人々も老齢を迎え、このままでは、朝鮮人労働者の苛酷な労働の実態はいつしか歴史上から消えてしまう恐れがある。
当時、日本の男たちが兵士として召集され、また満洲へ「開拓移民」として流出したため、不足した国内労働力を安く補うために、多数の朝鮮人労働者が補填(ホテン)された。これらの朝鮮人労働者の実態を掘りおこすことは、次のような意味をもっている。
第一に、当時の日本帝国主義の他民族侵略・抑圧・支配の忘れてはならない事実を、身近に再確認できること。もう一つは「在日朝鮮人・韓国人がなぜ多いのか」という、戦後世代の素朴な疑問を解きあかし、在日朝鮮人・韓国人に対する偏見や差別をなくし、両民族の理解と連帯の礎(イシヅエ)にもなると思う。
以下、このような立場から、私たちが二年ほどとりくんできた聞きとり調査をまとめたささやかな報告である。
史料による朝鮮人労働者の実態
戦前、戦時下における長野県下の在留朝鮮人労働者についての史料は、県や特高警察の史料の他はまだほとんどなく、今後民間での史料の掘りおこしが急務である。県や特高警察関係の史料は「長野県史 近代史料編第八巻社会運動・社会政策」に掲載されている。その中の「昭和十年、知事事務引継書」によると、長野県下の在留朝鮮人の人数は次の通りである。
昭和二年(1927)末 2697人
昭和五年(1930)末 3873人
昭和八年(1933)末 4209人
昭和九年(1934)末 5700人余
昭和十五年(1940) 8381人
(注)昭和十五年の人数は「長野県史」掲載の「長野県特高警察概況書」による。
このように年を追って増加している背景には「募集」に応じて自分の意志で渡来した人の他、太平洋戦争の末期には日本国内の労働力補給政策によって「徴用」の名のもとに強制的に日本に連行された人も数多くあった。そして、その多くは炭鉱や鉱山での労働に従事し、県下では水力発電所工事や、鉄道工事など土工が主であった。
下伊那地方においても、三信鉄道(現在の飯田線)敷設工事や、矢作(ヤハギ)水力発電工事(現在の泰阜ダム、平岡ダム)が行われ、多くの朝鮮人労働者が従事していた。その数は「長野県特高警察概況書」によると次の通りである。
飯田署管内 321人
富草署 93人
和田署 191人
(以上昭和15年)
また、同書の「昭和7~10年泰早村門島発電所工事争議についての県特高警察調」によると、使用労働者数は「内地人700人、鮮人2、300人、計3000人」とあり、泰阜ダム工事の時には、2000人をこえる朝鮮人労働者が働いていたことがわかる。これは、後出の朴氏の証言「泰阜ダム工事には2000人~3000人の朝鮮人がいた」と一致している。
当時、朝鮮は日本の植民地下にあり、在日朝鮮人の賃金は低く、苛酷な労働条件のもとでの生活は悲惨なものであった。事故や病気で亡くなった者も数多くいたはずである。県や特高関係の史料では、それらの実情については明らかでない。そこで私たちはさまざまなつながりをたよって、在日朝鮮人・韓国人の方々や日本人で当時ともに働いた方などから聞きとり調査をすることにした。
朴斗権(パク・トゥグォン)氏からの聞きとり調査(1968年1月)
在日朝鮮人・韓国人で当時の様子を知っている人はいないかと調べていくうちに、平岡に長く在住していた朴斗権氏の名前が出てきた。ところが、朴氏は現在は平岡を離れ、松本市郊外に移り住んでいた。
朴氏は1910年生まれ、現在75歳。50年以上も平岡に在住していた。朴氏は快く、若い時からの苦労のようすを淡々と語ってくれた。
朴斗権氏は「日韓併合」が強行された1910年、朝鮮慶尚北道慶山郡の農家の末っ子として生まれた。父は1歳半の時に亡くなった。 斗権が20歳のころ、朝鮮の耕地の七割がたは「土地調査令」によって、日本人のものとなっていた。昔、朝鮮では「一年豊作になれば、二年は何もしなくてもよい」といわれるほど豊かだったが、日本の植民地になってからは、税金もはらえなくなった人々が多くいた。
家が貧しく、学校へ行くこともできなかった斗権は、20歳の時に先に来ていた兄を頼って日本へ渡った。栃木県─茨城県─三河川合へ来て、三信鉄道(現在の飯田線)の工事に従事した。
三河川合には、当時600~700人の朝鮮人労働者がおり、一日につきⅠ円50銭の日当だったが、三ヶ月も賃金をくれなかった。8月にストライキが起きて、斗権も警察に検束され、岡崎へ連行されて拷問を受けた。敷居の上に正座させられ、膝の裏に竹の棒を入れさせられたり、手の指の股に棒を挟ませて、指を絞めつけられた。結局、賃金は一割引きで支給された。当時、日当が1円50銭で、飯代は70銭であった。雨の日は収入がないので借金がふえていく仕組みだった。
昭和8年(1933)泰阜の門島発電所工事へ来た。門島には、2000~3000人の朝鮮人がいた。日本人は主に世話役や監督で、工夫として働いている者は一割もいなかった。労働組合もあり、地下にもぐって活動している人もいて、夜に日本語の学習会もあって、若い人で勉強している人たちもいたが、疲れてしまって出ることはできなかった。眠ったと思えば朝、そんな毎日だった。
朝鮮人のほとんどは、ボス(日本人)によって強制的に連れて来られた人たちだった。ボスは朝鮮に行き、警察に頼んで人を集める。朝鮮の警察や役場は、協力しなければならないようになっていた。
門島では一日、2円80銭の日当、80銭の飯代で酒を飲むこともできなかった。しかし、朝鮮におれば日当はもっと安かった。当時、日本人の日当は工夫で7~10円、世話役で15円ぐらいであった。朝鮮人は三分の一の賃金しかもらえなくとも、仕事は倍もしなければならなかった。
昭和10年に平岡に移った。道造りや鉄くず買いをしているうちに昭和14年(1939)からダムの段取り工事が始まった。仕事はモッコかつぎとトロッコ。トロッコではなかされたものだった。朝四時半起床。朝食のあと六時前に出かけて、徹夜組と交代する。昼夜二交代制で夕方は六時まで働く。昼も夜も、人でいっぱいであった。夜も飯場から自由に外出できない。日本人の見張りが一晩中いた。食物は米二合配給。一日に一升三合くらい食べなくては力がでないのに、二合きりでは腹がへって仕事ができない。千切りの大根の入っているみそ汁も半分は塩の味がした。漬物(ナンバ)や、時にはマスがついたこともあった。他に欲しければ自分の金で買う。卵や酒を買えば赤字になって、朝鮮への仕送りができなくなってしまう。
死んだ朝鮮人も多くいた。病気の人もいたが、多くはけがで死んだ。トロッコから落ちるとか、トンネル工事をきりっぱなし(木の防禦枠)をしないで作業をやったりして。死者をかついでいくのは何十回、何百回も見た。温田(ヌクタ)のトロッコの作業中、スコップの柄があたって死んだのを直接見たことがある。死ぬと親方によっては、酒代として15~20円くれたが、知らんふりしている親方もいた。死体は自分たちで焼いたが、木がなくて一人焼くにもえらかった。遺骨は飯場頭がいい人ならばお寺へ納骨されたが、なかなかそんな余裕はなかった。死んだ人の家族に知らせてやりたくとも、住所や名前のはっきりわからない人が多くいた。(逃げてきた人が多いから、わからない)中国人捕虜の三倍も死んだと思う。全体の人数もニ倍以上多かったし、期間も長かったから。
逃げ出す者もあとを絶たなかった。逃げ出してつかまると警察に連行され、一週間くらい置かれて、親方から制裁を受けた。
平岡には昭和17年(1942)に、アメリカ、イギリスなど連合国の捕虜が、続いて昭和19年(1944)には中国人の捕虜が送りこまれてきた。中国人の捕虜が一番苦労していた。連合国軍の捕虜は、今の天竜中学のグランドにあった建物に収容され、窓にはガラスが入っていた。中国人・朝鮮人はうすい板をはりつけただけの建物だった。食物を与えずに仕事をやれ、といったって無理だ。焼いたパンみたいな物を三コ、おかずは生のニンニクだけだった。これで力が出る訳がない。
世話役たちがステッキみたいな棒を持っていて、たたいたりしていばってしようがない者もいた。捕虜たちはなかなかいうことをきかなかった。冬、川ばたに線路をひくのに、玉石を片づけるのを素手でやっていた。玉石は持つと水より冷たい。一つやっては手をこすっていた。死者が出た時は毎日死んだ。全部で八十数人死んだそうだ。中国人は袋にするような(麻袋か?)荒い目で風がみな通ってしまうようのものを着ていた人もいた。
終戦。「戦争に負けたので、日本人はヤケクソになっているから気をつけるように」「仇を返すようなことをすると、いつまでもあとが切れない。一般国民には罪はない。警察や官庁の者がいばったら知らせてほしい」という連絡が連盟から来たように思う。だから平岡には暴動のようなことはなかった。
その後、兄家族は朝鮮へ帰ったが、斗権は帰らなかった。先に帰った兄たちからも「帰ってこい」とはいってこなかったし、今から思うと帰らなくてよかったと思う。
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