真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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張作霖爆殺 河本大佐義弟の証言

2008年12月24日 | 国際・政治
 田母神論文に「1928 年の張作霖列車爆破事件も関東軍の仕業であると長い間言われてきたが、近年ではソ連情報機関の資料が発掘され、少なくとも日本軍がやったとは断定できなくなった。」とある。しかし、現在知られている数々の資料や複雑に絡み合った多くの関係者の証言から構成された歴史認識は、ソ連情報機関の資料(情況認識の錯誤に基づくものか、自身の活動を誇示するための作り話ではないか)発掘が事実であったとしても、全体がひっくり返るような貧弱なものではないといえる。ここに抜粋する「戦争放火者の側近」と題された河本大作大佐義弟平野零兒の一文もそのことを証明するものの一つである。「目撃者が語る昭和史 第3巻 満州事変」平塚征緒編集(新人物往来社)から、義弟の河本大作との関係をうかがい知ることの出来る部分、また、爆殺に至る関係者の動きや思想に関する部分の一部を抜粋する。
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  戦争敢行者

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 今年の夏、私は中国で戦犯として拘留6年、敗戦前から数えて14年振りに帰国した。その数週の後、私より一足先に遺骨となって帰った河本大作の埋骨式が行われた。敗戦前後から、山西省太原で彼に運命を托し、14年間彼のアクセサリーとして、寄生虫として彼が太原戦犯管理所内で病死するまで、形影相伴ってきた私としては、実に感慨無量であった。

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 解放になって2日目、河本は西北公司の総顧問の机を整理し、解放当局の接収組に引き継ぎをやているところを、太原公安局第3科に連行された。第3科は戦犯や、反革命者の取り調べを受けるところで、後には審訊科と名まえが変わった。その後1ヶ月ほど経って、私は3科の科長から、私が書いた「河本大作伝稿」の提出を求められた。これはかつて私が河本の口述を基として筆録したもので、その一部分は私の不在中、その稿本のプリントの一部が、当文藝春秋誌上に河本大作手記として『私が張作霖を殺した』という一文となって、発表されたことを帰国してから知った。当時、私はこの記録を、主として張作霖爆死事件を秘録として書いたので、そのコピーは、伝記の依頼者であった昭徳興業株式会社の重役で九州大学医学部教授故高岡達也医学博士に一部と河本の家族のもとに一部、そして太原へは私が一部を保存したもので、本誌に掲載された資料は、家族の保存した分を戦後私の友人Oが、これを文藝春秋社に提供したものであったと知れたが、私の保存した分は解放直後に証拠になると思って、私は社宅のカマドで焼却してしまっていた。
 太原公安局で河本は、自己の経歴全部の坦白を命じられ一切を供述して書いたが、その真実を裏付けるため、私が比較的正確な彼の伝記(河本の口述を基として筆録したもの)を所持していることを申し出たので、公安局は私にその提出方を要求したのであったが、その始末(すでに焼却処分していた)なので、「私は、執筆者として、記憶をたどり改めて書いて出すことにした。そのため私は前後8ヶ月、公安局に拘留を受け、そこでこれを認めた。この時には、私は河本の大きな罪悪の秘密は、やはり張作霖事件が最も重大と思っていた。しかし実際は中国にとっては、河本に対して張作霖事件は、あまり問題でなかった。……(以下略)


  河本の大陸雄図

 彼は確かに張作霖事件によって、その存在が世間的に一部には知られたが、陸軍部内の
大陸派として、中国に対しては古くから侵略的野望を抱いていた。それは日本国家のため、東洋の平和のためという盲信のもとに彼は、日露戦争の陸軍少尉として遼陽の戦いで負傷した後、講和後、明治39年、鉄道警備に当たった安奉線陽山の守備隊長からさらに安東守備隊副官となった時代に既にその思想を強く抱いた。

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 ……安東守備隊時代には、日露の戦いの中で、東亜義軍というのを組織して馬賊を率いて暗躍した橋口中佐に憧れていたが、当時橋口と共に有名だった「花大人」の花田中佐の部下で大久保彦左衛門の末孫だという大久保豊彦が、当時間島が朝鮮のものか、中国のものかという問題の帰属が明らかでないのを、武力で占領してしまうほかないが、それには日本の正規軍がやっては面倒だと、3千の馬賊の頭目である楊二虎に占領させる陰謀をはかっている。それの参謀が必要なので、河本を誘いに来た。河本は渡りに舟と、心を躍らせ、宿願なれりと承諾し、詳しい計画を聞くと、軍資金は三道浪頭の銅山と寛旬県孔雀礦山を掠め、武器はドイツのシーメンス・シュッケルト会社から買う密約ができているというのであった。そこで河本は、本渓湖に近い橋頭駅の上流1里半の白雲塞の山塞に行った。彼は日本軍の軍紀に触れねば、そのまま馬賊の参謀になってしまったのだが、守備隊から連れ戻されて失敗に終わった。
 彼の大陸の夢はこの時からの連続で、彼の一生を支配したといってもいい。後に陸軍大学在学中に組織した大陸会いうのも、第2の日露戦争を企図し、蒙古に根拠を置き、いざとなったらシベリア鉄道を破壊しようと、盟約を結ぶ秘密結社を作り、陸軍青年将校を糾合した。そのうちの一人であった、三村豊少尉が、その頃威を張り出した張作霖を殺そうと、奉天小西辺門で、張作霖に爆弾を投じたが失敗した事件もあった。……(以下略)


  河本大佐へのアクセサリー

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 この時彼は、私に済南事件の情況を知らせてくれたのを、早速新聞電報にすると、彼は私の電報を見て、『何だ、大新聞記者がこの電報の書き方は………』と自分で筆を加えた。済南事件が一段落して奉天へ回ると、かれは関東軍を奉天に進駐させて、審陽館で、本庄将軍と共に、板垣、石原等の上に高級参謀として画策していたので、私は他社の特派員の入れぬ彼らの部屋に、こっそり出入りして情報をとった。本社から命令で特派員の引き揚げを電報してきたので、相談に行くと『これから面白いことがあるのだがなア』といった。『何です、聞かして下さい』といったら『ソンナこと云えるか、しかし社が帰れというなら帰った方がよいといった
 私はそれで大連支局員の今尾登に、『河本の行動に気をつけておれ』といい残して引揚げ、京城についたら、爆死事件の号外が出た。河本の部屋に怪しげな中国人が、しきりに出入りするのを見たが、私はそんな陰謀があるとは思わなかった。彼も私にそのような大事は、新聞記者だから余計に洩らさなかった。


 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」や「……」は、文の省略を示します。
 

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