田母神論文に、『日本は19世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになるが相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない。現在の中国政府から「日本の侵略」を執拗に追求されるが、我が国は日清戦争、日露戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために条約等に基づいて軍を配置したのである。』とある。しかし、歴史の事実は謀略に基づく侵略であったことは、「張作霖爆殺事件」や「柳條溝事件」「廬溝橋事件」などの事実を調べれば疑いようがないと思う。また彼は「1928 年の張作霖列車爆破事件も関東軍の仕業であると長い間言われてきたが、近年ではソ連情報機関の資料が発掘され、少なくとも日本軍がやったとは断定できなくなった」という。しかし、その資料は、誰が、何時、どのように作成したのか、その客観性や当時の状況との整合性はどうなのか、誰がどのように検証したのか、発掘の経緯はどうなのか、そうしたことがまったく分からないし、受け入れられてもいない。ここでは、当時日本軍の独断専行に苦慮しながら、直接外交交渉に当たっていた外交官の著書「陰謀・暗殺・軍刀…一外交官の回想…」森島守人(岩波新書)から、張作霖爆殺に関連する結論部分のみを抜粋する(当時の情勢と切り離すのは危険であるが)。様々な立場の人間の証言が含まれており、根拠不明の一片の文書では動かし難いと思う。
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二 張作霖、楊宇霆の暗殺
張作霖爆死の真相
張作霖爆死の直後、6月4,5両日にわたって中日両国の共同調査が行われたが、真相は明らかとならず、ようやく6月12日に至り、陸軍省は大要次のような趣旨を公表した。
「張作霖の帰奉に際し、京奉、満鉄両線の交叉点に中国憲兵を配置、警戒したき旨6月3日中国側より申出があったので、わが守備隊ではこれを容認したが、中国側の満鉄線路上の憲兵配置は、これを拒否して、陸橋上は日本守備隊で警戒した。4日午前3時頃怪しい中国人3名が密に満鉄線鉄道堤に上らむとしたので、誰何したところ、爆弾を投擲せんとしたので、わが兵は直ちに2名を刺殺したが、1名は逃亡した。死体から爆弾2個と3通の通信が出たが、1通は国民軍関東招撫使の書信の断片だった点から考察して、南方便衣隊員なること疑いなく、4日夜明け我が警戒兵の監視中、京奉線の東行列車が交叉点に差しかかると、一大爆音と共に陸橋附近に黒煙及び砂塵が濛々として立ち上がった。」
事件発生当時、中国新聞はもちろん英字紙も、事件の背後に日本陸軍のあることを報道したが、日本内地でも満州の現地でも、この怪死が日本人の手によるものとは一般に考えていなかった。ところが時日の経過と共に、関東軍が怪しいとの噂がだんだんと広がるに至り、後日判明したところによると、2名の中国人が刺殺せられ、1名が逃亡したことは事実に相違なかったものの、彼らが国民党から派遣された便衣隊だというのは、全然虚構であった。爆破事件の前夜、関東軍の手先が何処からか阿片中毒の浮浪人3名を拉致して、奉天の満鉄付属地内に居住していた浪人の安達隆成のところへ連れて来た。(同人は昭和7年1月錦州攻撃の際、大毎の茅野特派員と共に、軍に先駆けして錦州1番乗りを決行し、茅野と共に惨殺せられた。)3人の浮浪人は付属地内の邦人経営の浴場で一風呂浴び、新しい着物に身なりを整えて早暁外出したが、2名は列車爆破現場で刺殺せられ中1名が辛うじて逃亡したのであった。当時吉林省長の要職にあり、鉄道問題の 交渉などに関連して、公私共に日本側と接触の多かった劉哲が、森岡正平領事に内話したところによると、刺殺をまぬがれた1名は、張学良の下に駆けつけて、ことの顛末を一部始終訴えたので、学良としては、張大元帥の横死が日本人の手によったものであることは、事件直後から万々承知していたわけである。ただ親の仇とは倶に天を戴かないという東洋道徳の観念から、一度学良自身の口から日本人による殺害の事実が洩れると、学良自ら日本側との接触に当たり得ないので、万事を胸の奥深く秘めていたに過ぎないとのことであった。
中国では阿片やヘロイン、モルヒネを常用する悪習があり、中毒者は恥も外聞もなく、麻薬の入手に狂奔するので、私たちの中国勤務中には、中毒者が金銭的誘惑に脆い点につけ込んで、よく情報集めなどに利用したものだったが、3名の浮浪人の如きは、利用すべく恰好の囮だったわけだ。私は爆破の真相を中国側のみから承知したわけではない。満鉄の陸橋の下部に爆薬をしかけたのは、当時奉天方面に出勤中だった朝鮮軍工兵隊一部だったこと、右爆薬に通じてあった電流のスウィッチを押したのが、後年北満移民の父として在留邦人間に親しまれた故東宮大佐(当時奉天独立守備隊附の東宮大尉)だったこと、陰謀の黒幕が関東軍の高級参謀河本大作大佐だったことは、東宮自身が私に内話したところである。爆破列車に張作霖と同車していた顧問、嶬峨誠也少佐(華北事変発生後少将として冀東防共自治政府顧問となり唐山に在勤中病死した)が、負傷したままで飛びおり、又町野顧問が天津で下車したところから、関東軍全体の仕業だろうとの憶測もあったが、嶬峨が全然関知していなかったことは事実で、爆破関係者は関東軍中の2,3名に止っていた。当時張の現役顧問は土肥原賢二大佐と嶬峨の2人であったが、土肥原が陰性的な性格のため、とかく敬遠され勝ちだったのに反し、嶬峨は明朗な人となりのため、東三省官場内の信頼を一身に集めていた。しかし中国側の信頼が厚かっただけ関東軍参謀間の評判が悪かったことは事実で、列車の爆破も国家の大事の前には、嶬峨一人位犠牲にしても已むを得ないとて、決行せられたのであった。私は在満当時から嶬峨と昵懇にしていたが、昭和12年華北事変発生後唐山で会見した折、その後軍部の気受けはどうなったかと尋ねたところ、この頃ようやくお叱りも疑惑も解けたらしいと苦笑していた。
爆破計画者のもくろみは、単に張の殺害のみに止まらなかったと思われる。列車の爆破、張の死亡に伴う治安の紊乱に乗じて出兵を断行し、引いて大規模な武力衝突を招致し、一挙に満州問題の武力解決を狙ったものであった。列車の爆破に引きつづいて城内の日本人居留民会など数カ所に次々と爆弾が投げられたが、何れも出兵の口実と誘因とを作るため、陸軍の手先の行ったものに外ならなかった。旅順に関東軍司令部があり、満鉄の沿線各地には、守備隊が配置せられていたが、平常時には自由勝手に関東州外や付属地外に出動することは許されず、付属地外へ出動するためには、緊急突発事件の場合は別として、平時には関東長官から軍司令官に出兵の要請をすることが必要で、満鉄沿線の各地では、領事からの出兵要求をまつこととなっていた。列車の爆破、居留民会への爆弾投下等の不祥事件が続発すると、軍側から総領事館に対して「出兵の必要はないか、治安は警察だけで大丈夫か。」としきりに電話がかかったが、総領事館は冷静沈著に警察力だけで付属地内の治安の維持並びに居留民の保護に当たり、出兵を狙っていた一部参謀連の策動に乗ぜられなかった。昭和6年柳條溝鉄道爆破を口実として総領事館の出兵要請を待たず、関東軍限りで出兵を断行したのは、張爆死の際の失敗をくり返さないとの配慮に出たものと見られる。
田中内閣遂に挂冠
張の爆死はその後も疑惑につつまれたまま、解けざる謎として迷宮裡にあった。翌4年1月の議会では民政党は永井、中野の両代議士を先頭に立てて、某重大事件に関してわが国が蒙っている疑惑を一掃すべしとて、痛烈に内閣の責任を糾弾したが、田中首相は調査中の一語をもって終始した。事実首相は事件発生当初からかりそめにも日本軍が関係しているなどとは信ぜず、陛下にも日本軍の無関係であることを上奏し、万一日本軍が関係している事実があれば、軍法会議に附して厳重処罰すべき旨を上奏していた。ところが、この極秘中の極秘たるべき陰謀の真相は、爆破関係者の夢想だもしなかった些細なことから世上の噂に上るに至った。爆破当日の朝方、前記の浴場の主人が好奇心に駆られて現場に行くと、前の晩自分のところに来た中国人の浮浪人2名が晴衣を着て刺し殺されているのを見て一驚し、前夜からの顛末をそのまま、付属地内の関東庁警察に通報した。若し憲兵隊へ報告していたら、当時の隊長三谷清少佐は関東軍と昵懇の間柄だったから、その話も恐らく握り潰しになり、中央への報告とはならなかったであろう。ところがあいにく拓務省系の関東庁警察(制度上総領事館警察をかねていた)に報告されたため、東京へそのまま伝わり、やがて東京や満州で話題に上るに至った。当時の奉天特務機関長秦眞次少将(後の憲兵司令官)は、浴場の主人の話を中央に報告したむねを聞き込むと、「軍に不当な疑いを与えるものだ」と警察に怒鳴り込んだ一幕もあったが、当時関東軍の出動と同時に、奉天に出張中だあった関東庁の三浦義秋外事課長(後のメキシコ公使)は、秦の怒鳴り込みの一件を聞くと同時に、爆破と軍の関係を直感したと内話していた。軍についてとかくの噂が伝わるに至ったので、田中首相は陛下に対する上奏の関係もあり、調査のためとくに東京から憲兵司令官峯幸松少将を現地に派遣したが、同少将の着奉にさきだちすでに朝鮮内で朝鮮工兵隊の爆薬装置など一連の事実が確認せられた。首相はさきに陛下に上奏した通り、軍法会議に附して厳正な取調と処罰とを断行せんと したが、如何せん、陸軍部内には軍法会議を開けば事件の内容を公表する結果となり、日本軍の信用引いては日本の国際的信用を毀損するとて反対論が強かった。その上自分の統率する政友会の有力者も軍の意見を強く支持したので、進退に窮し、陛下に対してあらためて行政処分案を上奏すると、陛下は首相の態度豹変にすこぶる立腹せられ、一言の御言葉もなく、首相はここに陛下の御信任を失ったため、昭和4年の7月、内閣の総辞職を決行したのであった。
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二 張作霖、楊宇霆の暗殺
張作霖爆死の真相
張作霖爆死の直後、6月4,5両日にわたって中日両国の共同調査が行われたが、真相は明らかとならず、ようやく6月12日に至り、陸軍省は大要次のような趣旨を公表した。
「張作霖の帰奉に際し、京奉、満鉄両線の交叉点に中国憲兵を配置、警戒したき旨6月3日中国側より申出があったので、わが守備隊ではこれを容認したが、中国側の満鉄線路上の憲兵配置は、これを拒否して、陸橋上は日本守備隊で警戒した。4日午前3時頃怪しい中国人3名が密に満鉄線鉄道堤に上らむとしたので、誰何したところ、爆弾を投擲せんとしたので、わが兵は直ちに2名を刺殺したが、1名は逃亡した。死体から爆弾2個と3通の通信が出たが、1通は国民軍関東招撫使の書信の断片だった点から考察して、南方便衣隊員なること疑いなく、4日夜明け我が警戒兵の監視中、京奉線の東行列車が交叉点に差しかかると、一大爆音と共に陸橋附近に黒煙及び砂塵が濛々として立ち上がった。」
事件発生当時、中国新聞はもちろん英字紙も、事件の背後に日本陸軍のあることを報道したが、日本内地でも満州の現地でも、この怪死が日本人の手によるものとは一般に考えていなかった。ところが時日の経過と共に、関東軍が怪しいとの噂がだんだんと広がるに至り、後日判明したところによると、2名の中国人が刺殺せられ、1名が逃亡したことは事実に相違なかったものの、彼らが国民党から派遣された便衣隊だというのは、全然虚構であった。爆破事件の前夜、関東軍の手先が何処からか阿片中毒の浮浪人3名を拉致して、奉天の満鉄付属地内に居住していた浪人の安達隆成のところへ連れて来た。(同人は昭和7年1月錦州攻撃の際、大毎の茅野特派員と共に、軍に先駆けして錦州1番乗りを決行し、茅野と共に惨殺せられた。)3人の浮浪人は付属地内の邦人経営の浴場で一風呂浴び、新しい着物に身なりを整えて早暁外出したが、2名は列車爆破現場で刺殺せられ中1名が辛うじて逃亡したのであった。当時吉林省長の要職にあり、鉄道問題の 交渉などに関連して、公私共に日本側と接触の多かった劉哲が、森岡正平領事に内話したところによると、刺殺をまぬがれた1名は、張学良の下に駆けつけて、ことの顛末を一部始終訴えたので、学良としては、張大元帥の横死が日本人の手によったものであることは、事件直後から万々承知していたわけである。ただ親の仇とは倶に天を戴かないという東洋道徳の観念から、一度学良自身の口から日本人による殺害の事実が洩れると、学良自ら日本側との接触に当たり得ないので、万事を胸の奥深く秘めていたに過ぎないとのことであった。
中国では阿片やヘロイン、モルヒネを常用する悪習があり、中毒者は恥も外聞もなく、麻薬の入手に狂奔するので、私たちの中国勤務中には、中毒者が金銭的誘惑に脆い点につけ込んで、よく情報集めなどに利用したものだったが、3名の浮浪人の如きは、利用すべく恰好の囮だったわけだ。私は爆破の真相を中国側のみから承知したわけではない。満鉄の陸橋の下部に爆薬をしかけたのは、当時奉天方面に出勤中だった朝鮮軍工兵隊一部だったこと、右爆薬に通じてあった電流のスウィッチを押したのが、後年北満移民の父として在留邦人間に親しまれた故東宮大佐(当時奉天独立守備隊附の東宮大尉)だったこと、陰謀の黒幕が関東軍の高級参謀河本大作大佐だったことは、東宮自身が私に内話したところである。爆破列車に張作霖と同車していた顧問、嶬峨誠也少佐(華北事変発生後少将として冀東防共自治政府顧問となり唐山に在勤中病死した)が、負傷したままで飛びおり、又町野顧問が天津で下車したところから、関東軍全体の仕業だろうとの憶測もあったが、嶬峨が全然関知していなかったことは事実で、爆破関係者は関東軍中の2,3名に止っていた。当時張の現役顧問は土肥原賢二大佐と嶬峨の2人であったが、土肥原が陰性的な性格のため、とかく敬遠され勝ちだったのに反し、嶬峨は明朗な人となりのため、東三省官場内の信頼を一身に集めていた。しかし中国側の信頼が厚かっただけ関東軍参謀間の評判が悪かったことは事実で、列車の爆破も国家の大事の前には、嶬峨一人位犠牲にしても已むを得ないとて、決行せられたのであった。私は在満当時から嶬峨と昵懇にしていたが、昭和12年華北事変発生後唐山で会見した折、その後軍部の気受けはどうなったかと尋ねたところ、この頃ようやくお叱りも疑惑も解けたらしいと苦笑していた。
爆破計画者のもくろみは、単に張の殺害のみに止まらなかったと思われる。列車の爆破、張の死亡に伴う治安の紊乱に乗じて出兵を断行し、引いて大規模な武力衝突を招致し、一挙に満州問題の武力解決を狙ったものであった。列車の爆破に引きつづいて城内の日本人居留民会など数カ所に次々と爆弾が投げられたが、何れも出兵の口実と誘因とを作るため、陸軍の手先の行ったものに外ならなかった。旅順に関東軍司令部があり、満鉄の沿線各地には、守備隊が配置せられていたが、平常時には自由勝手に関東州外や付属地外に出動することは許されず、付属地外へ出動するためには、緊急突発事件の場合は別として、平時には関東長官から軍司令官に出兵の要請をすることが必要で、満鉄沿線の各地では、領事からの出兵要求をまつこととなっていた。列車の爆破、居留民会への爆弾投下等の不祥事件が続発すると、軍側から総領事館に対して「出兵の必要はないか、治安は警察だけで大丈夫か。」としきりに電話がかかったが、総領事館は冷静沈著に警察力だけで付属地内の治安の維持並びに居留民の保護に当たり、出兵を狙っていた一部参謀連の策動に乗ぜられなかった。昭和6年柳條溝鉄道爆破を口実として総領事館の出兵要請を待たず、関東軍限りで出兵を断行したのは、張爆死の際の失敗をくり返さないとの配慮に出たものと見られる。
田中内閣遂に挂冠
張の爆死はその後も疑惑につつまれたまま、解けざる謎として迷宮裡にあった。翌4年1月の議会では民政党は永井、中野の両代議士を先頭に立てて、某重大事件に関してわが国が蒙っている疑惑を一掃すべしとて、痛烈に内閣の責任を糾弾したが、田中首相は調査中の一語をもって終始した。事実首相は事件発生当初からかりそめにも日本軍が関係しているなどとは信ぜず、陛下にも日本軍の無関係であることを上奏し、万一日本軍が関係している事実があれば、軍法会議に附して厳重処罰すべき旨を上奏していた。ところが、この極秘中の極秘たるべき陰謀の真相は、爆破関係者の夢想だもしなかった些細なことから世上の噂に上るに至った。爆破当日の朝方、前記の浴場の主人が好奇心に駆られて現場に行くと、前の晩自分のところに来た中国人の浮浪人2名が晴衣を着て刺し殺されているのを見て一驚し、前夜からの顛末をそのまま、付属地内の関東庁警察に通報した。若し憲兵隊へ報告していたら、当時の隊長三谷清少佐は関東軍と昵懇の間柄だったから、その話も恐らく握り潰しになり、中央への報告とはならなかったであろう。ところがあいにく拓務省系の関東庁警察(制度上総領事館警察をかねていた)に報告されたため、東京へそのまま伝わり、やがて東京や満州で話題に上るに至った。当時の奉天特務機関長秦眞次少将(後の憲兵司令官)は、浴場の主人の話を中央に報告したむねを聞き込むと、「軍に不当な疑いを与えるものだ」と警察に怒鳴り込んだ一幕もあったが、当時関東軍の出動と同時に、奉天に出張中だあった関東庁の三浦義秋外事課長(後のメキシコ公使)は、秦の怒鳴り込みの一件を聞くと同時に、爆破と軍の関係を直感したと内話していた。軍についてとかくの噂が伝わるに至ったので、田中首相は陛下に対する上奏の関係もあり、調査のためとくに東京から憲兵司令官峯幸松少将を現地に派遣したが、同少将の着奉にさきだちすでに朝鮮内で朝鮮工兵隊の爆薬装置など一連の事実が確認せられた。首相はさきに陛下に上奏した通り、軍法会議に附して厳正な取調と処罰とを断行せんと したが、如何せん、陸軍部内には軍法会議を開けば事件の内容を公表する結果となり、日本軍の信用引いては日本の国際的信用を毀損するとて反対論が強かった。その上自分の統率する政友会の有力者も軍の意見を強く支持したので、進退に窮し、陛下に対してあらためて行政処分案を上奏すると、陛下は首相の態度豹変にすこぶる立腹せられ、一言の御言葉もなく、首相はここに陛下の御信任を失ったため、昭和4年の7月、内閣の総辞職を決行したのであった。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また旧字体は新字体に変えています。青字および赤字が書名や抜粋部分です。「・・・」や「……」は、文の省略を示します。