百姓通信
自然と素直に向き合い、全身で風を感じて私は百姓しています。
①土づくり②循環型③無農薬・無化学肥料④永続性を大切に!
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都会に棲む猛禽類が増えているという。
自然が以前よりも豊かになったというのが原因なのかというとそうでもなさそうだ。
都会ではヒヨドリが増えており、ヒヨドリを餌にするハイタカが増えていたり、ドバトを狙ったオオタカやハヤブサが増えているという。
また、チョウゲンボウは高層ビルや橋桁に営巣するようになったともいう。
猛禽類にとって公園や緑地帯が増えたことで都会にも棲み易い環境ができたという訳でもなさそうだ。

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夏休みも終盤になると小学生の時の「自由研究」を想い出す。
「自由」+「研究」=「自由研究」とは、何と優雅な時間の使い方なのだろうかと、今更のように思う(小学生の時はそんなことを思ったことはなかったものの)。
どんな研究をしてもいいわけだし、時間は充分にある。課題を見つけて、何をどう調査しデータをまとめるか、ある程度仮説を立てることもある意味では大切だが、仮説を持たずデータ化して考察する方法もある。
「研」は「とぐ、みがく、物事の本質を見極める」という意味で
「究」は「物事の深いところまで掘り下げる」という意味のようだ。
特に「究」は穴の奥まで探して究めるというというもので、穴の中に龍が頭を入れて探っている様を漢字にしたという説もあるようで何とも意味深い。
でも小学生に限らず、われわれも今の時代でも「自由研究」を続けることはできる、今度一度チャレンジしてみよう!

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不快指数は気温と湿度だけで算出し、風速を勘案しない為、必ずしも体感とは一致しない。
指数70〜74で不快感を抱く人が出始め、75〜79で半数以上が、80〜85で全員が不快と感じ、86を超えると我慢ができなくなる。
1957年、米国で蒸し暑さを示す温湿度指数を冷房設計に用いたのが最初。日本では1961年夏から使われ始めた。
8月に入り、関東では、すっきりしない天気が続き、東京都心では、8月1日以降、16日連続で雨となった。8月に16日連続雨となったのは、1977年以来、40年ぶりだという。
一方で西日本は厳しい残暑とスポット的な豪雨と雷に悩まされている。日本を二分する天候不順は今後われわれに何をもたらすのか?“不快”とは言っていられない。

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106年前のフルーツケーキが南極で発見された。
ケーキは薄紙に包まれて、ブリキの箱に入っていたという。外側のブリキは錆びていたものの、中身の状態は良く「美しい」見た目を保ったままで、臭いは少ないが、微かに古いバターの香りがしたという。
このケーキは英国人スコット隊長率いる遠征部隊が小屋を利用した際に残したものと推測される。
英国のながい悲願であった南極点の到着の夢は、突然参入してきたノルウェーのアムンセン達に敗れ、極点からの帰り途、悲しくも、ブリザードで還らぬ人となった。
しかしケーキは残った。
106年前のケーキが残った。
“菌”はいないわけではないが、“菌”は水がないと空気中を彷徨することができない。酷寒の地では空気中の水分は直ぐに氷結して落ちてしまうため“菌”はひろまらない。

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テレビで広島東洋カープの新井貴浩選手が「“良いゲーム”がしたい。」と話していた。
“良い日” “良い天気” “良い出来事”等
“良い”の表現はよく用いられるが、自分にとって“良い”場合が多く、みんなにとって、社会にとって“良い”場合を指す場合は比較的少ない。
そういえばジブリの宮崎駿さんが「なぜ雨の日を良い天気とは言わないのか」という話の中で「人は誰しも自分のフィルターで物事を見がちで、本来、雨の日も風の日も、自然界、生きているモノ達にとってどれも必要なもので、どの天気も“良い天気”で然るべき」と話されていたという話を思い出す。
新井選手は昨年2000本安打、300本塁打を達成し、念願のリーグ優勝を達成した。「あまりプロ野球選手としては正しくはないのかもしれないのですが」という前置きをしつつ、「応援してくれるファンや支えてくれている方々が『あぁ“良いゲーム”だったなぁ』といってくれる試合を1試合でも多くしたい」という。
自分が、自分は、〇〇ファーストと言われる中で、みんなが、社会が、評価してくれるゲームを、(決して「私が」ではなく)みんなで(その中に「決して私はいなくっても」という意味もあったりして)つくりたいという素直な想いに感激する。

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終戦から72年の年月が流れた。
「原爆は何処に落とされたのか?」
「何故、太平洋戦争は始まったのか?」
「戦後、沖縄はアメリカに統治されていた?」
現代社会では、そういう質問にもう答えられない人が出てきているという。

時代と共に変化するもの、
時代と共に忘れ去られるもの、
時代の変化に関係なく残り続けるもの。

残念なことに、最近大切なことを、だんだん忘れやすくなっている。
人間とはそういう生き物なのだろうか?
私が忘れても、誰かが覚えている。
確実な史的な事実として伝え、残していかなくてはならない。



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西瓜  


「西瓜」 スイカ
「南瓜」 カボチャ
「東瓜」 トウカ(トウガン)→「冬瓜」
「北瓜」 ベィグア→「南瓜」
「夏瓜」 ナツウリ←「西瓜」の別称
「冬瓜」 トウガン

夏にはやはり「西瓜」が一番‼︎

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「お盆」
正式には「盂蘭盆会(うらぼんえ)」と呼ばれるこの仏教行事は、どこまで国民に知られているのだろうか?
「お盆の里帰り」
みんなは何故あんな渋滞に巻き込まれながら故郷を目指すのか?
「先祖や死者に思いを馳せ、・・・」
何に感謝し
何を誓うのか?

もっともっと自己の内面を見つめる時間をつくる必要性があるのかも知れない。
時の経つのを忘れ、己の心と向かい合う。
そんな時間が現代の私たちには必要なのかもしれない。

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寿命  


寿命は誰にもわからない。
わかれば人生が変わるのかといえば、そうだとは言い切れない。
わかれば生き方を変えるのかと言われれば、出来ればそうしたいと思う。
しかし生き方を変えても、人生、運命は変えられないのかもしれないと思っている。
御巣鷹山のあの惨事から32年、たまたま乗り合わせた飛行機が墜落し、520名の方々がお亡くなりになった。時間はみんなに同等に与えられている、その時間をどう過ごすかは自由だ。そしてたまたま飛行機を選んだ人、たまたま新幹線にした人、飛行機に乗ろうとしていたが遅れて乗れなかった人、誰かの代わりに搭乗した人、仕事が早く終わり前の便に乗れた人等々、時間が交錯し、たまたまその事故の瞬間にその時空に陥れられた、寿命とはそういう不思議な時間の連続なのかも知れない。

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食料自給率が下がっている。
今日と同じ明日が迎えられるとは限らない。
自助の努力なくして、なんでもお金があれば解決できるとは思っていないか、・・・。
自然の価値、時間の価値、努力の価値を忘れてはいないか、・・・。
気づいた時には、もう取り返すことができない現実だけが残されているのではないか。
・・・猛威の台風後のダム湖の水面を眺めながら思うこと・・・

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