日々の感じた事をつづる
永人のひとごころ
思い出が多いあの頃のこと・二
思い出多いあの頃のこと・二
「山本 広(一)も運の悪さにかけては負けてはいませんよ。(広は廣で15画)
『主運(人格=本廣)20画・副運(外格=山(一))4画。*物の割れんとする要素を示し、短命、非業の誘導ある大凶悪の運気で平安に縁なく幾多の災難、凶禍に見舞われ、厄難、遭難、不如意、逆境に陥り、一家支配の能力を欠き、百時成就せず、
進退の自由を欠いて放逸逆難破滅の凶兆を現出し、人生の上に無意義の存在となる暗示有り』となっていますから少しも油断できませんね。
二人とも運気はよくないです。ただ前運の広(廣)が15画なので、福寿円満の柔らかさはあるのでしょう。山本広が穏健派といわれるのはこの15画のためです。
どちらにしても「組織名の吉凶」が行く末を左右するでしょうね。
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ところで、「お宅の『サイトー工業』はいいとして、個人の『斎藤 清』の名はよくないですから、代えたらどうですか?
「う~ん、そのうち考えておくよ」と。
その後、幾度か会ったがついに名を変える話には至らなかった。
明けて60年1月、例の山一抗争が始まるが、竹中正久は射殺され、山本広はすべてを投げ打って、命だけは保証された。
組織名も、その運気が示す通りに経緯した。
昭和59年6月の分裂時・
山口組4000人⇒1か月後7100人
一和会6000人⇒1か月後2900人
抗争終結時・山口組13000人
一和会 50人――解散・消滅。
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斎藤社長はその後、昭和60年に糖尿病発症。
平成に入って5年、心臓手術など繰り返したが、何とか業務をこなしていた。しかし、平成23年
3月11日の東日本大震災で、旧北上川の右岸、川口から800メートル上流の川渕に在った事務所で逃げ遅れ、事務所の直ぐ裏の道で客が運転する車の下のがれきの中から3月13日に客と共に遺体で発見された。
社名のみならず、個人名も変えていてくれたら、もっと健康で長生きできたはずだし、津波にのまれることもなかったと思う。
大震災後、子を持っていなかった斎藤社長の被災死により、社業順調だったサイトー工業も解散してしまった。
山口組の経緯と、一和会の誕生から消滅まで、斎藤社長は人一倍関心を持って観ていたはずだったし、
『山一抗争はなんだかんだ言っても、吉野さんの言う通りになったねえ』と他のことはよく理解しながら、こと自分の名に関しては代えようとしなかった頑固な斎藤社長の生き方には、「素直」であることの大切さを改めて実感させられたことを思い出しつつ、この思い出話を閉じることにする。
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